今昔物語集巻28第3話 円融院御子日参曽祢吉忠語
今昔、円融院の天皇、位去らせ給て後、御子の日の逍遥の為に、船岳と云ふ所に出させ給けるに、堀川の院より出させ給て、二条より西へ大宮まで、大宮より上(のぼり)に御ましけるに、物見車所無く立重たり。
上達部・殿上人の仕れる装束、書むにも書尽すべくも非ず。院は雲林院の南の大門の前にして、御馬に奉て、紫野に御まし着たれば、船岳の北面に、小松所々に群生たる中に、遣水を遣り、石を立て、砂を敷て、唐錦の平張を立て、簾を懸け、板敷を敷き、高欄をぞして、其の微妙き事限無し。其れに御まして、其の廻に同錦の幕を引廻かしたり。御前近く、上達部の座有り。其の次に、殿上人の座有り。殿上人の座の末の方に、幕に副て横様に、和歌読(うたよみ)の座を敷たり。
既に御まし着ぬれば、上達部・殿上人、仰せに依りて座に着ぬ。和歌読共は、兼て召有ければ、皆参て候ふ。「座に候へ」と仰せ下されぬれば、仰せに依て、次第に寄て座に着ぬ。其の歌読共は、大中臣の能宣・源の兼盛・清原の元輔・源の滋之・紀の時文等也。此の五人は兼て院より廻し文を以て、参るべき由、催されたりければ、皆衣冠して参たる也。
既に座に着並ぬるに、暫許有て、此の歌読の座の末に、烏帽子着たる翁の、丁子染の狩衣袴の賤気(あやしげ)なるを着たるが来て、座に着ぬ。人々有て、「此れは何者ぞ」と思て、目を付て見れば、曽祢の好忠也けり。
殿上人共、「彼れは曽丹が参たるか」と忍て問へば、曽丹、此く問はれて、気色立て、「然に候ふ」と答ふ。其の時に行事の判官代に、「彼の曽丹が参たるに、召たるか」と、殿上人共問ければ、判官代、「然る事も無し」と答ふれば、「然は、異人の承はりたるか」と尋ね持行くに、惣て「承はりたり」と云ふ人無し。
然れば、行事の判官代、曽丹が居たる後に寄て、「此は何に、召も無には参て居たるぞ」と問へば、曽丹が云く、「『歌読共、参るべき由催さる』と承はれば、参たるぞかし。何でか参らざるべき。此の参たる主達に劣るべき身かは」と。判官代、此れを聞て、「此奴は早う召も無きに、押て参たる也けり」と心得て、「何に召も無きには参たるぞ。速に罷り出よ」と、追立るに、尚ほ立たずして居り。
其の時に、法興院の大臣3)・閑院の大将4)など、此の事を聞給て、「しや衣の頸を取て引立てよ」と行給へば、若く勇たる下臈・殿上人共、数(あまた)曽丹が後に寄て、幕の下より手を指入て、曽丹が狩衣の頸を取て、仰様(のけざま)に引倒て、幕の外に引出したるを、一足づつ殿上人共踏ければ、七八度踏まれにけり。
其の時に、曽丹が起走て、身の成様も知らず逃て走ければ、殿上人の若き随身共、小舎人童共、曽丹が走る後に立て、追次(つづ)きて、手を叩て咲ふ。放(はなれ)馬などの様に、追ひ喤る事糸愕(おび)ただし。然れば、此れを見るに、多くの人、老たる若きとも無く、咲ひ合たる事限無し。
其の時に、曽丹、片岳の有に走り登立て、見返て、追次て咲ふ者共に向て、音を高く挙て云く、「汝等は何事を咲ふぞ。我は恥も無き身ぞ。云はむ、聞けよ。太上天皇、子の日に出させ給ふ。
『歌読共を召』と聞て、好忠が参て座に候ふ。掻栗をほどと食ふ。次に追立らる。次に蹴らる。何の恥なる」と云ふを聞きて、上中下の人々、咲ふ音、糸愕ただし。其の後、曽丹、逃て去にけり。其の比は、人皆此の事を語てなむ咲ひける。
然れば、下姓の者は、尚ほ弊(つたな)き也。好忠、和歌は読けれども、心の不覚にて、『歌読共召』と聞て、召も無きに参て此る恥を見、万の人に咲れて、末の代まで物語に成る也となむ語り伝へたるとや。
現代語訳
むかーし昔。円融院が退位なさった後、御子(正月子の日、人々野に出て小松を引いて千代を祝う遊び)の日の遊びに、船岳(ふなおか)というところにお出かけになった際に、堀河の院からお出になって、二条から西へ大宮まで、大宮から北にお上りになったとき、物見車は隙間もないほど立ち並んでいました。
お供としてお仕えしている上達部殿上人の装束は、書こうとしても書き尽くすことは出来ません。
院は、雲林院の南の大門の前で、馬にお乗りになって、紫野にご到着なさいました。
船岳の北側に、小松が所々群れている中に、遣り水を流し、石を立て、砂を敷いて、唐錦で屋根を平らに張り、簾をかけ、板敷きを敷いて、高欄をめぐらし、その素晴らしさは言いようもありません。
そこにご着座になり、その廻りに同じ錦の幕を引きめぐらして、近くに上達部の座があり、その次ぎに殿上人の座があります。
殿上人の座の末の方に、幕に沿って横の方に和歌読(うたよみ)の座がありました。
円融院がご着座になったので、上達部殿上人は御指示に従って座に着きました。和歌読どもは、兼ねてからお呼び出しがあったので、みな参上しております。
「座にお着きなさい。」という指示があって、静かに寄ってきて座に着きました。
その和歌読どもは、大中臣の能宣(おおなかとみのよしのぶー後撰集撰者の一人)、源の兼盛(かねもりー平の間違い、三十六歌仙の一人)、清原の元輔(後撰集撰者の一人)、源の重之(しげゆきー三十六歌仙の一人)、紀の時文(後撰集撰者の一人、紀貫之の子)などです。
この五人は、前もって、院から「回し文」で、参上せよとのご指示があったので、みな衣冠を整えて参上していました。
既に座について並んでいると、一足遅れの感じで、この和歌読の座の末に、烏帽子をつけ薄墨色の狩衣袴のみすぼらしい姿の翁が来て、座に着きました。
人々が、これは何者かと思って、よくよく見ると、曽弥の好忠でした。
殿上人たちが、「あれは、曽丹(そたん)が来ているのか。」と、小声で聞くと、曽丹がそれを耳にして、気取って、「さようでございます。」
と答えました。
その時、行事の判官代(ほうがんだい、院庁に仕える役人)に、「あの曽丹が参るように、呼んだのか。」と、殿上人が尋ねると、判官代は
「そのようなことはありません。」と答えます。「それでは、誰か他の人が院のご指示を承って申し伝えたのか。」と他の者にも尋ねましたが、まったく承ったという人も居ません。
そこで、行事の判官代が、曽丹の座っていた後ろに寄って、「これは何としたことか。お召しもないのに、参上して座っているとは。」
と尋ねました。
曽丹は、「和歌読みどもが参上すべき催しがあると承ったので、参上したのです。どうして参上しないではいられましょう。ここに並んでいる人たちに劣る私ではありません。」と答えました。
判官代はそれを聞いて、こいつはお召しもないのに、自分勝手に押し掛けてきたのだと知って、「なんとお召しもないのに参上するとは。ささっと退出せよ。」と追い立てましたが、立ち上がらず座ったままです。 その時、法興院の大臣(ほっこういんのおとど、藤原兼家)、閑院の大将
(かんいんのだいしょう、藤原朝光)などが、この事をお聞きになり、「襟首をつかんで引き立てよ。」と指図なさいました。
若く血気盛んな身分の低い殿上人どもは、大勢で曽丹の後ろに寄って、幕の下から手を差し入れて、曽丹の狩衣の頸をつかんで、仰け様に引き倒して、幕の外に引きずり出したのを、殿上人どもは一足ずつ踏みつけたので、七,八回は踏まれたようです。
曽丹は立ち上がり、なりふり構わず走って逃げたので、殿上人の若い随身や小舎人童(こどねりわらわー近衛の中少将などに使われて牛車の前などに立つ者)どもは、曽丹の走る後を追いかけて、手を叩いて笑いました。
放れ馬でも追うように、大声を出して罵りました。それを見た沢山の人、老人・若者の区別もなく、大笑いしました。
曽丹は、小高い丘に走り登って、振り返り、追いかけてきて笑っている者達に向かって、大声で、「お前らは何を笑うのか。自分は恥ずかしいことはしていないぞ。良く聞けよ、太上天皇が子の日に外出なさった。和歌読どもを召すと聞いて、好忠が参上して座に着いたのだ。それなのに、散々弄ばれ、次ぎに追い立てられ、次ぎに蹴られた。どんな悪いことをしたというのか。」と言いました。
それを聞いて、身分の上下に関わらず、止めどもなく笑いました。
その後、曽丹は逃げていってしまいました。当時の人は、みんなこの事を語っては笑いました。
だから、素性の賤しい者は、やはり愚かな所があるものです。好忠は確かに和歌は詠みましたが、常識知らずで、和歌読どもを召すと聞いて、お召しもないのに参上してこのような恥をかき、多くの人に笑われて、末代までの話題になったと語り伝えたと言うことです。
昨日は、隅田公園を通って松屋まで夕飯の買い物に行きました。いつの間にやら大寒桜が三分咲きながら花を付けていました。スカイツリーをバックにカメラに納めてみました。俳句とも川柳ともいえぬ駄作をつけてみました。
宇治拾遺物語巻七、三(九四) 三条中納言水飯の事
今は昔三条中納言といふ人ありけり。三条右大臣の御子なり。才賢くてもろこしの事この世の事皆知り給へり。心ばへ賢く胆太くおしからだちてなんおはしける。笙の笛をなん極めて吹き給ひける。長高く大きに太りてなんおはしける。
太りの余りせめて苦しきまで肥え給ひければ薬師重秀を呼びて、「かくいみじう太るをばいかがせんとする、立居などするが身の重くいみじう苦しきなり。」と述給へば重秀申すやう、「冬は湯づけ夏は水づけにて物を食すべきなり。」と申しけり。そのままに食しけれどただ同じやうに肥え太り給ひければせん方なくてまた重秀を召して、「`云ひしままにすれどその験もなし。水飯食ひて見せん。」と述給ひて男ども召すに候ひ一人参りたれば、「例のやうに水飯して持て来。」と云はれければ暫しばかりありて御台持て参るを見れば御台かたがたよそひ持て来て御前に据ゑつ。
御台に箸の台ばかり据ゑたり。続きて御盤捧げて参る。御まかなひの台にすうるを見れば御盤に白き干瓜三寸ばかりに切りて十ばかり盛りたり。また鮨鮎のおせぐくに広らかなるが尻頭ばかり押して三十ばかり盛りたり。大なる金椀を具したり。皆御台にとり据ゑたり。今一人の侍大きなる銀の提に銀の匙をたてて重たげに持て参りたり。金椀を給びたれば匙に御物を抄ひつつ高やかに盛り上げてそばに水を少し入れて参らせたり。殿台を引き寄せ給ひて金椀を取らせ給へるに、「さばかり大きにおはする殿の御手に大きなる金椀かな」と見ゆる。けしうはあらぬ程なるべし干瓜三切ばかりに食ひ切りて五つ六つばかり参りぬ。次に鮨を二切ばかりに食ひ切りて五つ六つばかり安らかに参りぬ。次に水飯を引き寄せて二度ばかり箸を廻し給ふと見るほどにおもの皆失せぬ。「また」とてさし給はす。さて二三度に提の物皆になればまた提に入れて持て参る。重秀これを看て、「水飯を役と食すともこの掟に食さば更に御太り直るべきにあらず。」とて逃げて去にけり。さればいよいよ相撲などのやうにてぞおはしける。
現代語訳
これも昔の話、三条中納言・藤原朝成という人がいた。三条右大臣・藤原定方の御子である。頭脳明晰で、唐のことや我が国のことなどをよくご存知であった。心映えも素晴らしく、肝も太く、押しの強い性格でもいらした。笙の腕前も見事であった。背は高くなり、ひどく太っていらした。
太りに太り、息苦しいほどに肥えられたため、医師・和気秀重を呼び、「こんなに太ってしまったのだが、どうしたらよいか。立ち居をするときも、体が重く、苦しくてかなわん。」と仰ると、重秀は、「冬は湯漬け、夏は水漬けで、食事をされるとよろしいかと。」と答えた。そこで、指示のとおりに食事をとってみたが、以前と変わらず肥え太られたため、しかたなく、また重秀を召し、「言うままにしてみたが、効果がない。いま水飯を食うから見ておれ。」と仰り、下男どもを召すと、侍が一人参上したので、「いつものように水飯を持って来い。」と命じられると、しばらくして、御台を用意する様子を見れば、二つある台の片方を運んできて、御前に置いた。
御台には箸置きのみが置かれている。`続いて、御膳を捧げ持って来た。賄い役が御台に置くのを見れば、中の食器に白い干し瓜を三寸くらいに切ったものが十ほど盛られている。また、鮨鮎の、大ぶりで、身幅の広い、尾頭を押し重ねたのを三十ばかり盛り付けてきた。大きな鋺を持ってきた。それらすべてを御台に据えた。もう一人の侍が、大きな銀の提に銀のしゃもじを立て、重たげに持って来た。鋺を受けた侍は、しゃもじで御飯をよそって高らかに盛りあげ、そこへ水を少し入れて渡した。殿が、台を引き寄せられ、鋺を手にとられると、そんなにも大きくていらっしゃる殿の御手には大きな鋺だ、と見えた。それも不自然でなく思われた。干し瓜を三切りほどに食い切って、五つ六つほど召し上がった。次に鮨を食い切って、五つ六つほどぺろりと平らげられた。次に水飯を引き寄せて、二度ほど箸を回されたと見る間に、御飯は空っぽになっていた。「おかわり」と、差し出された。それが二、三度で提の御飯は空になるので、また提に入れて持って来る。重秀はこれを見て、「水飯を主に召されても、こんなに召し上がれば、御太りなど治るはずがありません。」と言って逃げ去ってしまった。すると、ますます相撲取りのようになってしまわれた。
※この話は『宇治拾遺物語』にあったものが、江戸時代に『百人一首一夕話』に採り上げられ、藤原朝忠の話ということになりました。しかし、もともと『宇治拾遺物語』「三条中納言」は藤原朝成(ふじわらのあさひら)という別人のことです。おそらく『百人一首一夕話』の作者尾崎雅嘉(おざきまさよし)の勘違いと思われます。今昔物語にも同じ話が載っています。2016/11/06 (日)のブログを参照にしてください。
http://sechin.blog.shinobi.jp/Page/7/
今昔物語 巻28第6話 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語
今昔、清原の元輔と云ふ歌読有けり。其れが内蔵の助に成て、賀茂の祭の使しけるに、一条の大路渡る程に、□の若き殿上人の車、数(あまた)並立て、物見ける前を渡る間に、元輔が乗たる庄(かざり)馬、大躓して、元輔、頭を逆様にして落ぬ。
年老たる者の馬より落れば、物見る君達、「糸惜」と見る程に、元輔、糸疾く起ぬ。冠は落にければ、髻露無し。瓷(ほとぎ)を被(かづき)たる様也。馬副、手迷(てまどひ)をして、冠を取て取(とら)するを、元輔、冠を為ずして、後へ手掻て、「いでや、穴騒がし。暫し待て。君達に聞ゆべき事有」と云て、殿上人の車の許に歩み寄る。
夕日の差したるに、頭は鑭鑭(きらきら)と有り。極く見苦き事限無し。大路の者、市を成して、見喤り走り騒ぐ。車・狭敷(さじき)の者共、皆延上りて咲ふ。
而る間、元輔、君達の車の許に歩び寄て云く、「君達は元輔が此の馬より落て、冠落したるをば嗚呼(をこ)也とや思給ふ。其れは、然か思給ふべからず。其の故は、心ばせ有る人そら、物に躓て倒る事、常の事也。何に況や、馬は心ばせ有るべき物にも非ず。其れに、此の大路は極て石高し。亦、馬の口を張たれば、歩ばむと思ふ方にも歩ばせずして、此(と)引き彼(かう)引き転(くるめ)かす。然れば、我れにも非で倒れむ馬を、悪(あし)と思ふべきに非ず。其れに、石に躓て倒れむ馬をば、何がは為べき。唐鞍は糸盤(さら)也。物拘(かく)べくも非ず。其れに、馬は痛く躓けば落ちぬ。其れ亦弊(わろ)からず。亦、冠の落るは、物にて結(ゆは)ふる物に非ず。髪を以て吉く掻入たるに、捕(と)らるる也。其れに鬢は失にたれば、露無し。然れば、落む冠を恨むべき様無し。亦、其の例無きに非ず。□□の大臣は、大嘗会の御禊の日、落し給ふ。亦、□□の中納言は、其の年の野の行幸に落し給ふ。□□の中将は、祭の返さの日、紫野にて落し給ふ。此の如くの例、計(かぞ)へ遣るべからず。然れば、案内も知給はぬ近来の若君達、此れを咲給ふべきに非ず。咲給はむ君達、返て嗚呼なるべし」。此く云つつ、車毎に向て、手を折つつ計へて云ひ聞かす。
此の如く云ひ畢て、遠く立去て、大路に突立て、糸高く、「冠持詣来(もてまうでこ)」と云てなむ、冠は取て指入れける。其の時に、此れを見る人、諸心に咲ひ喤けり。
亦、冠取て取(とら)すと寄たる馬副の云く、「馬より落させ給つる即ち、御冠を奉らで、無期に由無し事をば仰せられつるぞ」と問ければ、元輔、「白事(しれごと)なせそ。尊、此く道理を云ひ聞せたらばこそ、後々には此の君達は咲はざらめ。然らずば、口賢(さがな)き君達は、永く咲はむ者ぞ」と云てぞ、渡にける。
此の元輔は、馴者(なれもの)の、物可咲く云て、人咲はするを役と為る翁にてなむ有ければ、此も面無く云ふ也けりとなむ語り伝へたるとや。
現代語訳(今昔 巻28 第6)・(宇治拾遺 巻3 2)
むかーし昔。清原の元輔という歌詠みがおりました。それが内蔵の助(内蔵寮の次官)になって、賀茂の祭りの使い(葵祭りの奉幣使)として、一条大路を通っているときに、若い殿上人の車が沢山並んで見物している前で、元輔が乗った唐鞍を付け美しく飾った馬が、つまずいて、元輔は頭から落ちてしまいました。
老人が落馬したので、見物していた公達は気の毒だと見ていると、元輔は素早く起きあがりました。冠は落ちてしまって、禿頭で髷はありません。ほとぎ(湯水などを入れる土器)をかぶっているようです。馬の側に付いていた従者が、慌てて冠を拾って手渡そうとすると、元輔は受け取らないで、後ろ手で制して、「何と騒がしいことだ。しばし待て。公達に申し上げたいことがある。」と言って、殿上人の車に歩み寄りました。
夕日が射して、頭はキラキラと輝いています。非常に見苦しい有様です。大路の者は走り回って知らせたりして大騒ぎしてます。車・桟敷の者たちは、伸び上がって見ては、嘲り笑っています。
そうしている間に、元輔は公達の車に歩み寄って、「君たちは、元輔がこの馬から落ちて、冠を落としたのを、たわけたこととお思いになるのか。しかし、それはそう思うべきではないのじゃ。なぜならば、注意深い人でさえ、物に躓いて転ぶことは常にある事じゃ。ましてや、馬は注意深い動物でもないし、それにこの大路はよく石が出っ張っている。また、手綱をピンと張って馬の自由にはさせずに、あちこち引き回して転ばしてしまったのだ。だから、自分の行きたい方に行けないで躓いた馬を悪いと思うべきではない。それに、石に躓いて倒れる馬を、どうもできはしないよ。唐鞍は盤のようになめらかで、ひっかりようがない。それに馬はひどく躓いたので落馬したのだ。それもまた悪いことではない。また、冠が落ちたのは、紐で結わえているものではなく、髪をかき入れてひっかっけるようにするものだ。それなのに、髪の毛はこの通り無くなってしまったので、落ちた冠を恨むすべもない。また、例がないわけではない。某大臣は、大嘗会(だいじょうえ)の禊ぎの日に落としなさった。某中納言は、或る年の天皇の行幸のお供の時に落としなさった。某中将は、祭りの帰りに紫野で落としなさった。この様に冠を落とした例は数えることが出来ないほどあるのじゃ。だから、その事情も分からない最近の若君達は、これを笑うべきではないのじゃ。笑いなさってる君たちこそ、かえて愚かなことじゃよ。」と車に向かって、指を折りながら数えて言い聞かせました。
このように言い終わって、車から離れ、大路に突っ立って、大声で、「冠を持って来い。」
と言って、冠を受け取って、頭に乗せました。
それで、それを見ていた人々は、どっと笑いました。
また、冠を渡そうと寄ってきた馬付きの従者は、「落馬なさったときに、すぐ冠をお付けにならないで、長々とどうしてつまらないことをおっしゃったのですか。」と尋ねました。
元輔は、「馬鹿なことを言うな。このように道理を言い聞かせたから、後々の物笑いにはならないのだ。そうでなければ、口さがない若者達は、ずーっと物笑いの種にするだろうな。」と言って、通り過ぎました。
この元輔は、頓知の利く口達者な者で、人を笑わせるのを得意だったので、このように厚かましくも言い立てたのだと、語り伝えたと言うことです。
昨日久しぶりに横浜のIN氏から電話がありました。何でも爺の携帯にメールが入らないとのことでしたが、今朝のパソコンにメールが入っていました。曰く、
2017年2月17日17時54分着信 題:試みにメールが入るかどうか
日高節夫様
先ほどは、ご多用中、君の携帯宛にメールがはいるかどうか、お尋ねして申し訳ありませんでした。
これはなき大宰府の姉上様がご使用中のものを君が譲り受けて使っていたものと聞いていたが、今日私が発信したら、プロバイダーから返却された。該当がないというような表示だったが、詳しいことは分からない。そこで今後はこれは使わないことにして、電話帳から消去しました。
残っているのはこの番号だけなので、この番号をテストで使ってみます。
当家は、孫の大学の入学試験で、二浪の医学部志望。去年、一昨年は一校も引っかからなかったが、今年は、多少は脈がある様子。とかくこの季節は辛気臭いね。
ここのところ、携帯にメールが入らなくなったのは、携帯に異常があるのかも知れません。IN氏のメールを爺の携帯に転送してみましたが、反応なしでした。早速調べてみることにしましょう。
百人一首 41~50 についても調べました。
41. 壬生忠見 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか(拾遺集)
壬生忠見 (みぶのただみ、生没年不詳)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。忠岑の子。
現代語訳 恋をしているという私の噂が早くも立ってしまったのだよ。他人に知られないように思いはじめていたのに。
※『拾遺集』の詞書によると、この歌は、40番の平兼盛の歌とともに、天徳4年(960年)に村上天皇の御前で行われた歌合、いわゆる、天暦の御時の歌合(天徳内裏歌合)で、「恋」を題として優劣を競った歌です。しかも、この歌合の最後の勝負、いわばエース対決として戦った歌であり、判者の藤原実頼も優劣つけがたく、持(引き分け)にしようとしました。しかし、天皇が「しのぶれど」と口ずさまれたことから勝敗は決し、兼盛の勝ちとなりました。この敗戦が原因で、忠見は、拒食症に陥り病死したと『沙石集』は伝えています(既出、2月10日のブログ)。この逸話の真偽は定かではありませんが、当時の人々の歌合に対する思い入れが並々ならぬものであったことは、うかがい知ることができます。ちなみに、天徳内裏歌合の二人の直接対決は、2勝1敗で忠見の勝ち、団体戦でも忠見が属する左方が10勝5敗5分(そのうち忠見は、2勝1敗1分)で勝っています。対する兼盛は、4勝5敗1分で負け越し、右方の勝利に貢献することはできませんでした。
42. 清原元輔 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは(後拾遺集)
清原元輔(きよはらのもとすけ、908~990年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。
現代語訳 約束したのだなあ。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越さないように、二人の愛が永遠であることを。
※『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩きました。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話があります。清原元輔の剽軽な一面をうかがうことができます。
43. 権中納言敦忠 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり(拾遺集)
権中納言敦忠 藤原敦忠(ふじわらのあつただ、906~943年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。時平の子。管弦の名手。
現代語訳 あなたを抱いた後の恋しさに比べると、昔の恋の物思いなどは何も思っていなかったのと同じであったなあ。
44. 中納言朝忠 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし(拾遺集)
中納言朝忠 藤原朝忠(ふじわらのあさただ、910~966年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。定方の子。笙の名手。大食による肥満であったと伝わる。
現代語訳 男女関係が絶対にないのであれば、かえって、あの人に相手にされないことも自分自身のふがいなさも恨むことはないのに。
※『百人一首夕話』には、座るのも苦しいほどの肥満体で痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話があります。しかし、これは『古今著聞集』や『宇治拾遺物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われます。
45. 謙徳公 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな(拾遺集)
謙徳公 (けんとくこう) 藤原朝忠藤原伊尹(ふじわらのこれただ・これまさ、924~972年)は平安中期の貴族、歌人。『後撰集』の撰者にして和歌所別当。摂政・太政大臣を歴任。正二位・贈正一位。謙徳公は諡号。容姿端麗と伝わります。
現代語訳 私のことをかわいそうにといってくれるはずの人は思い浮かばず、はかなく死んでいくのだろうなあ。
46. 曽禰好忠 由良のとをわたる舟人かぢをたえ 行く方も知らぬ恋の道かな(新古今集)
曽禰好忠 (そねのよしただ、生没年不詳)は平安中期の歌人。丹後掾(たんごのじょう、地方官)。中古三十六歌仙の一人。自信家で奇人と伝わります。
現代語訳 由良の瀬戸を漕ぎ渡ってゆく船頭が櫂(櫓)がなくなって、行き先もわからず漂流するように、この先どうなるかわからない恋の道だなあ。
※寛和元(985)年の円融院(えんゆういん)の御幸の歌会に招かれなかったため、粗末な格好で乗り込み、「才能は決してそこいらの方々に比べ劣っていない。自分のような名歌人が招かれぬはずがない」と言ってまわり、襟首をつかまれて追い出された、というエピソードが今昔物語にあるくらいです。
47. 恵慶法師 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋はきにけり(拾遺集)
恵慶法師 (えぎょうほうし。生没年不祥、10世紀頃の人)。播磨国(兵庫県)の講師(こうじ=国の僧侶らの監督)だったらしい。清原元輔、大仲臣能宣、平兼盛らの一流歌人と親交を結んでいた。
現代語訳 つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。
※この和歌は、あるとき恵慶法師が河原左大臣 源融の別荘を訪れたとき、その屋敷の寂れた様子を見て詠んだ和歌だと言われています。その別荘は「河原院」と呼ばれていましたが、恵慶法師の時代では、すでに100年近く経っていて、源融の曾孫・安法法師が住んでいたと言われています。
48. 源 重行 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな(詞花集)
源重之 (みなもとのしげゆき?~1000?年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。清和天皇の曾孫。地方官を歴任。陸奥守に左遷された藤原実方とともに陸奥に下って没した。
現代語訳 風が激しいせいで岩を打つ波が、自分だけで砕け散るように、私だけが砕け散るような片思いにふけるこのごろだなあ。
49. 大中臣能宣朝臣 御垣守衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ(詞花集)
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ、921~991年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として『後撰集』を編纂。伊勢大輔の祖父。神官。
現代語訳 皇宮警備の衛士の焚く火が、夜は燃えて昼は消えることをくり返すように、私の恋の炎も夜は燃えて昼は消えることをくり返しながら、物思いにふける日々が果てしなく続くのだ。
※『古今六帖』に、「みかきもり 衛士のたく火の 昼は絶え 夜は燃えつつ 物をこそ思へ」が、読み人知らずの歌として載っているため、この歌は、大中臣能宣の作ではないとする説が有力。
50. 藤原義孝 君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな(後拾遺集)
藤原義孝(ふじわらのよしたか、954~974年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。伊尹(謙徳公)の子。行成(三蹟の一人)の父。天然痘により兄挙賢と同日死去。
現代語訳 君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては、長くありたいと思うようになったよ。
沙石集 天徳の御歌合
原文(本文)
天徳の御歌合のとき、兼盛、忠見、ともに 御随身にて、左右についてけり。初恋といふ題を給はりて、忠見、名歌詠み出したりと思ひて、兼盛もいかでこれほどの歌詠むべきとぞ思ひける。
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
さて、すでに御前にて講じて、判ぜられけるに、兼盛が歌に、
つつめども色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
判者ども、名歌なりければ、判じわづらひて、天気をうかがひけるに、帝、忠見が歌をば、両三度御詠ありけり。兼盛が歌をば、多反御詠ありけるとき、天気左にありとて、兼盛勝ちにけり。
忠身、心憂くおぼえて、心ふさがりて、不食の病つきてけり。頼みなきよし聞きて、兼盛とぶらひければ、
「別の病にあらず。御歌合のとき、名歌詠み出だしておぼえ侍りしに、殿の『ものや思ふと人の問ふまで』に、あはと思ひて、あさましくおぼえしより、胸ふさがりて、かく重り侍りぬ。」
と、つひにみまかりにけり。
執心こそよしなけれども、道を執するならひ、あはれにこそ。ともに名歌にて拾遺に入りて侍るにや。
現代語訳(口語訳)
天徳の御歌合のときに、兼盛と忠見は、ともに随身として左方と右方についていました。初恋という題材を頂いて、忠見は、名歌を詠むことができたと思い、兼盛もどうしてこれほどできのよい歌を詠むことができようか、いやできないと思ったのでした。
恋をしているという私の評判が、早くも広がってしまいました。人に知られないようにと想っていいたのに。
さて、すでに天皇の御前で歌を読み上げて、判定なさっていたときに、兼盛の歌として
包み隠していたけれど、顔色に出てしまいました。私の恋心は、物思いをしているのかと人が問うほどまでに(顔色に出てしまっていることです。)
歌の優越を判定する人たちは、(どちらも)名歌でしたので優越をつけかねて、天皇のご意向を伺ったところ、帝は、(まず)忠見の歌を、二度三度お詠みになられました。(次に)兼盛の歌を、何回も繰り返しお詠みになられたときに、天皇のご意向は左方にあるということで、兼盛が勝ったのでした。
忠身は、つらく思って、ふさぎこんでしまい、食べられない病になってしまいました。病気が重く回復の期待が見込まれない旨を聞いて、兼盛がお見舞いにいったところ、(忠身は、)
「特別な病気というわけではありません。御歌合のときに、名歌を詠み出せたと思っておりましたが、あなたの、『物思いをしているのかと人が問うほどまでに』という歌に、あぁと思って、驚いたと思ったときから、胸がふさがって、このように重病になったのです。」
と言って、ついには亡くなりました。
物事に深くとらわれる心はよくないですが、(歌の)道を深く心にかける習慣は、心が動かされるものです。どちらの歌も名歌でしたので、拾遺集に収められているのでしょうか。
大和物語 81段
季縄の少将のむすめ右近、故后の宮にさぶらひけるころ、故権中納言の君おはしける、たのめたまふことなどありけるを、宮にまゐること絶えて、里にありけるに、さらにとひたまはざりけり。
内わたりの人きたりけるに、「いかにぞ、まいり給や」と問ひければ、「つねにさぶらひ給」といひければ、御文たてまつりける。
わすれじとたのめし人はありときく言ひし言の葉いづちいにけむ
となむありける。
※故権中納言の君=藤原敦忠(906~943年)。左大臣藤原時平の子。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「あひ見てののちの心に……」の歌で知られる。
現代語訳
季縄の少将のむすめ右近が、故后の宮(穏子)にお仕え申し上げていたころ、故権中納言の君(藤原敦忠)がいらっしゃって、頼みに思わせるようなことをおっしゃったことがあったが、右近が宮に参上することが途絶え、実家にいたところ、いっこうに中納言が訪問なさらなかったということです。
宮中の人がやって来たときに、「どうですか、中納言さまは最近、宮中へ参上なさっていますか」と質問したところ、「いつもいらっしゃっておいでです」と言ったので、御手紙を差し上げたとさ。その手紙には
あなたのことは決して忘れるまいと、甘い言葉で私にあてにさせた人は、いつもそちらにいると聞きましたが、あのとき言った言葉は、どこへいってしまったんでしょうねえ。
という歌が書いてあったといいます。
大和物語 82段
おなじ女のもとに、又さらに音もせで、雉をなむをこせたまへりける。かへりごとに、
くりこまの山に朝たつきじよりもかりにはあはじとおもひし物を
となむいひやりける。
現代語訳
また、同じ女性のところに、また前と同じように、ちっとも連絡もしないで、キジをお寄越しになったとさ。その返事として女が作った歌、
栗駒山に朝飛び立つキジ以上に、狩りには出くわすまい(かりそめにはあなたに逢うまい)と思っていたのに。
大和物語 83段
おなじ女、内裏の曹司にすみける時、忍びてかよひ給人ありけり。頭なりければ殿上につねにありけり。雨のふる夜曹司の蔀のつらにたちよりたまへりけるもしらで、雨の漏りければ、むしろをひきかへすとて、
おもふ人雨とふりくるものならばわがもる床はかへさざらまし
となむうちいひければ、あはれとききて、ふとはひいりたまひにけり。
現代語訳
同じ女性が、宮中の個室に暮らしていた時、こっそりと人目をさけて彼女の所にお通いになる人がいたとさ。役所の長官だったので、殿上の間にいつも居たとさ。ある雨が降る夜、彼女の部屋のしとみ戸の正面に立っておられたのにも気づかずに、雨が漏ってきたので、むしろを裏返しに敷くというので、
もしも、愛する人が、今夜の雨が急に降り出したように、とつぜんやって来てくれていたなら、私の部屋の雨漏りして、また、彼が来ないので流した涙に濡れた寝床の敷物は、ひっくり返さないですんだのになあ。
と口に出して歌ったので、外にいた彼がしみじみと聞いて、さっと彼女の部屋におはいりになったとさ。
大和物語 84段
おなじ女、おとこの「わすれじ」とよろづのことをかけてちかひけれど、わすれにけるのちにいひやりける、
わすらるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな
かへしはきかず。
※おとこ=藤原敦忠
現代語訳
おなじ女が、男が「あなたを忘れまい」と様々な言葉をかけて誓ったが、自分のことをすっかり忘れてしまったのちに、作って贈った歌、
あなたに忘れられてしまう我が身のことを、あのころは想像もしなかった。それにしても神にかけて愛を誓ったあなたが、誓いを破った報いの神罰で命を落とすことになるあなたの命が惜しいですこと。
大和物語 85段
おなじ右近、「桃園の宰相の君(藤原師氏)なむすみ給」などいひのゝしりけれど、 そらごとなりければ、かの君によみてたてまつりける、
よしおもへあまのひろはぬうつせ貝むなしき名をば立つべしや君
となむありける。
現代語訳
藤原師氏が右近のところに通っているのと世間の人があれこれと噂していますが。 全く事実とは違うこと。そこで右近が藤原師氏に送った歌。
もういいですよ。世間の人なんて好き勝手に想像するのですから。 でもまさか、海女が拾わない中身のない貝のように、 事実になくむなしいばかりの浮き名を立てるおつもりではないですよね。 はやく私のもとにおかよいになって契りを結んで下さいな。
今昔物語集巻24第43話 土佐守紀貫之子死読和歌語
今昔、紀貫之と云ふ歌読有けり。
土佐守に成て、其の国に下て有ける程に、任畢(はて)の年、七つ八つ許有ける男子の形ち厳(いつくし)かりければ、極く悲く愛し思けるが、日来煩て、墓無くして失せにければ、貫之、限り無く此れを歎き泣き迷(まどひ)て、病付許思焦(おもひこがれ)ける程に、月来に成にければ、任は畢ぬ。
此(かく)てのみ有るべき事にも非ねば、「上なむ」と云ふ程に、彼の児の此にて此彼(とかく)遊びし事など思ひ出でられて、極く悲く思へければ、柱に此く書付けり。
みやこへと思ふ心のわびしきはかへらぬ人のあればなりけり
と。
上て後も、其の悲の心失せで有ける。其の館の柱に書付たりける歌は、今まで失せで有けりとなむ語り伝へたるとや。
※七つ八つ許有ける男子→土佐日記によると女子
現代語訳
今は昔、紀貫之という歌詠みがいたそうだ。土佐の守となって土佐に下り、そこで暮らしていたが、任期が果てる年に、七つか八つになる男の子を亡くした。見目かたちの美しいその子どもをかわいがっていた守は嘆き悲しみ、病みつくほどに思いこがれたという。やがて任期が果てたので都に戻ることになったが、この地であれやこれや遊んだ子どものことが思い出されて、なんとも悲しくなり、柱に次のように書き付けた。
都へ(帰るのだ)と思うにつけて何かしら悲しいのは、(死んでしまって)帰らない人(=自分の子)がいるのだからであった。
都に上った後もその悲しみは消えなかったそうだ。柱に書き付けた歌は今も残っていると語り伝えられているとか。
古今著聞集『能は歌詠み』(紀友則の事)
花園の左大臣の家に、初めて参りたりける侍の、名簿のはしがきに、「能は歌詠み。」と書きたりけり。
大臣、秋のはじめに、南殿に出でて、はたおりの鳴くを愛しておはしましけるに、暮れければ、「下格子に、人参れ。」と仰せられけるに、「蔵人の五位たがひて、人も候はぬ。」と申して、この侍参りたるに、「ただ、さらば、汝下ろせ。」と仰せられければ、参りたるに、「汝は歌詠みな。」とありければ、かしこまりて御格子下ろしさして候ふに、「このはたおりをば聞くや。一首仕うまつれ。」と仰せられければ、「青柳の」と、初めの句を申し出だしたるを、候ひける女房たち、折にあはずと思いたりげにて笑ひ出だしたりければ、「物を聞き果てずして笑ふやうやある。」と仰せられて、「とく仕うまつれ。」とありければ、
青柳のみどりの糸をくりおきて夏へて秋ははたおりぞ鳴く
と詠みたりければ、大臣感じ給ひて、萩織りたる御直垂を押し出だして賜はせけり。
寛平の歌合せに、「初雁」を、友則、
春霞かすみていにしかりがねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に
と詠める、左方にてありけるに、五文字を詠みたりける時、右方の人、声々に笑ひけり。さて次の句に、「かすみていにし」と言ひけるにこそ、音もせずなりにけれ。同じことにや。
現代語訳
花園の左大臣の家に、初めて参上した侍(従者、武士ではない)が、名簿の端に書き添えて「得意なことは歌を詠むことです。」と書きました。
大臣が、秋のはじめごろに、南殿に出て、きりぎりすの鳴く声を愛でていらっしゃったのですが、日が暮れたので 「格子を下ろしに、誰か参れ。」と命じられたところ、「蔵人の五位がいつもと違って(いないので)、(私の他に)人がおりません。」と申し上げて、この侍が参上したところ、(大臣が)「かまわないから、それではお前が下ろせ。」と命じられたので、(その侍が御格子を)下ろし申し上げていたところ(大臣が)
「お前は歌詠みであったな。」とおっしゃられたので、(侍は)恐縮して御格子を下ろす手をとめてそばにお控えしていたところ、(大臣が)「このきりぎりすの音を聞いているか。(この虫の音を題材に)一首お詠みなさい。」とおっしゃられたので、(侍は)「青柳の」と最初の句を申し上げ始めたところ、(その場にいた)女房たちは、季節に合わないと思ったようで笑い出したので、(大臣は)「最後まで物を聞かずに笑うことがあるか、いや、あってはならない。」とおっしゃって、「早く詠み申せ。」と命じられたので、
青柳の緑色の糸をたぐっていた夏を経て秋になったので、たぐっておいた糸を使って機織り(はたおり)で布を織ろうとしたのですが、はたおり(きりぎりす)が鳴いているではありませんか。
と詠んだので、大臣は感動なさって、荻が織ってある直垂を、(しまってあった御簾から)押し出して、(侍に)お与えになりました。
(場面は変わって)寛平の歌合せのときに、「初雁」を(題材にした歌を詠むときに)、友則が
春霞よ、その霞の中に飛んでいってしまった雁は、今は秋の霧の上で鳴いている
と詠んだとき、(友則は)左方にいたのですが、(最初の)五文字を読み上げた時に、右方の人が、声々に笑いました。それから(友則は)次の句に、
「かすみていにし」
と言ったときには、その笑い声もなくなってしまいました。(この侍の歌詠みの話は、)この話と同じことでしょうか。
百人一首31~40についても調べました。
31. 坂上是則 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(古今集)
坂上是則 (さかのうえのこれのり、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。坂上田村麻呂の子孫といわれ、蹴鞠の名手と伝えられる。
現代語訳 夜がほのかに明けるころ、有明の月かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。
※延喜5(905)年3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたといいます(西宮記)。
32. 春道列樹 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり(古今集)
春道列樹(はるみちのつらき、?~920年)は平安前期の歌人。壱岐守に任ぜられたが赴任前に没した。
現代語訳 山の中の川に、風が掛けた流れ止めの柵(しがらみ)がある。それは、流れきれないでいる紅葉の集まりだったよ。
33. 紀友則 久かたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(古今集)
紀友則(きのとものり、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人であるが、完成前に没した。紀貫之の従兄弟。
現代語訳 日の光がのどかに降りそそぐ春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろう。
34. 藤原興風 誰をかも知る人にせむ高砂の 松もむかしの友ならなくに(古今集)
藤原興風(ふじわらのおきかぜ、生没年不詳)は9世紀後半?~10世紀前半?平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。管弦の名手。
現代語訳 誰をいったい、親しい友人としようか。(長寿で有名な)高砂の松も、昔からの友人ではないのに。
35. 紀貫之 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける(古今集)
紀貫之(きのつらゆき。868?~945年)は平安時代最大の歌人で、「古今集」の中心的な撰者であり、三十六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、定家に次いで第2位でもあります。古今集の歌論として有名なひらがなの序文「仮名序(かなじょ)」と、我が国最初の日記文学「土佐日記」の作者として非常に有名であり、教科書にも取り上げられています。役人で大内記、土佐守などを歴任し、従五位上・木工権頭(もくのごんのかみ)になりました。土佐日記は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を1人の女性に託してひらがなで書かれた日記です。
現代語訳 あなたのおっしゃることは、さあ、本心なんでしょうか。私には分からないですね。なじみの土地では、昔と同じ花の香りが匂ってくるのものですよ。
※ 全く異なる解釈として、「花の香は今も昔も同じであるが、人の心は変わりやすく、あなたの心も私の知ったことではない」という内容であるとする説もあります。この歌は、主人の不満に対する即興の返答であり、親しさゆえの皮肉まじりの会話なのか、身も蓋もない険悪な反論なのかで見解が分かれるところです。
この歌は古今集に収められたものですが、詞書に「初瀬に詣(まう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、『かく定かになむ宿りは在る』と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」とあります。すなわち、昔は初瀬の長谷(はせ)寺へお参りに行くたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れてみたら、宿の主人が「このように確かに、お宿は昔のままでございますというのに」(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね)と言った。そこで、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだ、ということです。宿の主人が女性で、遠い昔の恋愛を暗示している、と考えることもできます。どちらにせよ、紀貫之が世間と人生を語る一首といってよいでしょう。
36. 清原深養父 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ(古今集)
清原深養父(きよはらのふかやぶ、生没年不詳)は平安前期の歌人。元輔の祖父。清少納言の曽祖父。内蔵大允(くらのたいじょう)。
現代語訳 夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、雲のどのあたりに月はとどまっているのだろう。
37. 文屋朝康 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬき留めぬ 玉ぞ散りける(後撰集)
文屋朝康(ふんや の あさやす、生没年不詳)は、平安時代前期の官人・歌人。
現代語訳 白露に風がしきりに吹きつける秋の野は、紐で貫き留めていない玉が散っているのだよ。
38. 右近 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな(拾遺集)
右近(うこん、生没年不詳)は平安中期の女流歌人。右近少将藤原季縄の娘。醍醐天皇の皇后穏子に仕えた。元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があったと言います。
現代語訳 あなたに忘れ去られる私自身については何とも思わないですが、永遠の愛を神に誓ったあなたの命が、誓いを破った罰として失われることが惜しいだけなのですよ。
※一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われています。「大和物語」には、藤原敦忠(あつただ)・師輔(もろすけ)・朝忠(あさただ)、源順(みなもとのしたごう)などとの恋愛が描かれています。
39. 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき(後撰集)
参議等 源等(みなもとのひとし、880~951年)は平安中期の歌人。嵯峨天皇の曾孫。中納言源希の子。
現代語訳 浅茅が生えている小野の篠原の“しの”のように忍んでいるけれども、どうしてあの人のことが、どうしようもなく恋しいのだろう。
※「後撰集」の詞書には、「人につかはしける」と書いてあります。特定の人に詠みかけた歌のようです。古今集には「浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに(心の中に思いをしのばせていても、あの人は知ってくれるだろうか? いや、だめだろう。伝えてくれる人がいなければ)」(よみ人知らず)という歌があり、そこから本歌取りしたのがこの歌のようです。
40. 平兼盛 しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで(拾遺集)
平兼盛 (たいらのかねもり、?~990年)は平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の玄孫。家柄に比べて官位は低かったが、後撰集時代を代表する歌人です。
現代語訳 他人には気付かれないように耐え忍んできたけれど、顔色に出てしまっているのだ。私の恋は。「恋の物思いをしているのですか」と他人が問うほどまで。
※「拾遺集」の詞書では、この歌は960年に村上天皇が開いた「天暦御時歌合(てんりゃくのおほんときのうたあわせ)」で詠まれたとされています。ここでは、「忍ぶ恋」の題で同じく百人一首に収載されている壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ」の歌(百人一首41)と優劣を競い合いました。しかしこの2首は、どちらも甲乙つけがたい名歌だったため、判定に困ってしまったのですが、天皇がこちらの歌を口ずさんだことで勝ちとなったという有名な話があります。
sechin@nethome.ne.jp です。
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