百人一首61~70を調べてみました。
61 伊勢大輔 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな(詞花集)
伊勢大輔(いせのたいふ、生没年不詳)は平安中期の歌人。伊勢の祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。能宣の孫。高階成順の妻。中宮彰子に仕えました。
現代語訳 昔の奈良の都の八重桜が(献上されてきて)、今日、京都の宮中に一層美しく咲きほこっていることですよ。
※「いにしへの」の歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものです。
62 清少納言 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ(後拾遺集)
清少納言(せいしょうなごん、本名・生没年不詳)は平安中期の作家・歌人。清原元輔の娘。深養父の曾孫。中宮定子に仕えました。『枕草子』の作者。和漢の学に通じ、平安時代を代表する女流文学者となりました。
現代語訳 孟嘗君は、深夜に鶏の鳴きまねを食客にさせて、函谷関の関守をだまして通り抜けましたが、逢坂の関は決して許さないでしょう。 ― あなた(藤原行成)は、翌日に宮中の物忌があるから鶏の声にせきたてられて帰ったと弁解しますが、そんな嘘は私には通用しませんよ。あなたは深夜に帰ったのであって、朝まで逢瀬を楽しんだのではないのですから、いい加減なことはおっしゃらないでください。
※ある夜、清少納言のもとへやってきた大納言藤原行成(ゆきなり)は、しばらく話をしていましたが、「宮中に物忌みがあるから」と理由をつけて早々と帰ってしまいます。翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文をよこした行成に、清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」と答えるのです。
63 左京大夫道雅 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな(後拾遺集)
左京大夫道雅 (さきょうのだいぶまちまさ) 藤原道雅 (ふじわらのみちまさ、993~1054年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原伊周の子。関白道隆・儀同三司母の孫。父伊周の失脚に加え、当子内親王との密通事件などの悪行によって、家柄に比べて職位ともに低くとどまった。
現代語訳 今はただ(恋愛を禁じられて監視されているいる)あなた〔前斎宮当子内親王〕への思いをあきらめてしまおうということだけを、人づてではなく直接お目にかかってお話しする方法があればなあ。
※幼い頃に父親が 失脚、さらに24~5歳の頃にこの歌に描かれた恋愛事件によって三条院の怒りを買い、生涯不遇でした。従三位左京太夫となりましたが、『小右記』によれば、法師隆範を使って花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したりと乱行の噂が絶えなかったようで「悪三位」の呼称があります。
64 権中納言定頼 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木(千載集)
権中納言定頼 (ごんちゅうなごんさだより) 藤原定頼(ふじわらのさだより、995~1045年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原公任の子。容姿端麗で社交的な反面、小式部内侍をからかった時に即興の歌で言い負かされてそそくさと逃げ帰るなど軽率なところがあったといいます。
現代語訳 朝がほのぼのと明けるころ、宇治川の川面に立ちこめていた川霧がところどころ晴れていって、その合間から現れてきたあちこちの瀬に打ち込まれた網代木よ。
※ 相模や大弐三位などと関係を持ったといいます。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたということです。
65 相模 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ(後拾遺集)
相模(さがみ、生没年不詳)は平安中期の歌人。相模守大江公資(きんより)の妻。公資と離婚後、多数の男性と関係を持って評判になったといいます。
現代語訳 恨みに恨みぬいて、ついには恨む気力すら失って、涙に濡れた袖が乾く暇もありません。そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、恋の浮名で朽ちてしまうであろう私の評判がなおさら惜しいのです。
※歌論集「八雲御抄(やくもみしょう)」では赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。しかし実生活では悩みが多く、公資と別れた後、権中納言藤原定頼(さだより)や源資道(すけみち)と恋愛しましたが上手くいきませんでした。一条天皇の第一皇女、脩子内(しゅうしない)親王の女房となり、歌人としての評価を固めました。
66 前大僧正行尊 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし(金葉集)
前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん、1055~1135年)は平安後期の僧、歌人。源基平の子。天台座主、大僧正。
現代語訳 山桜よ、私がお前を見て趣深く思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。私にはお前以外に知人はいないのだから。
※行尊は、修験道の行者として熊野や大峰の山中で厳しい修行を積んだ人です。修験道の行者はいわゆる山伏。山中で厳しい修行を積んで霊力を得、悪霊を退散させたり憑き物を祈祷で払って病気を治したりと、さまざまな霊験を露わにします。そうした能力を得るために、不眠不休で食事も取らずに山を駆けたり厳しい修行を長く行いました。
この歌は「金葉集」の詞書によると、大峰(現在の奈良県吉野郡の大峰山)で偶然山桜を見かけて詠んだ歌だそうです。厳しい修行の最中にふと目の前に現れた山桜。それは行尊にとってどれほど心を慰めるものだったでしょうか。人っ子ひとり見えない山奥に咲く美しい桜は、作者にとって天からの賜り物のように見えたかもしれません。
つい、桜を人に見立て「一緒にしみじみ愛しいと感じておくれよ、山桜。お前の他に私の心を分かってくれる者はここにはいないのだから」と孤独をわかちあっています。清廉な印象のある歌ですが、それは毎日の厳しい修行に対する一服の清涼剤の役割を、山桜が果たしてくれたからでしょう。
67 周防内侍 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ(千載集)
周防内侍(すおうのないし、生没年不詳)は平安後期の歌人。周防守平棟仲の娘か。仲子。後冷泉天皇から堀河天皇まで4代約40年にわたり女官として仕えた。
現代語訳 春の短い夜の夢ほどの添い寝のために、何のかいもない浮名が立ったとしたら、本当に口惜しいことです。
68 三条院 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな(後拾遺集)
三条院 (さんじょういん) 三条天皇(976~1017年、在位1011~1016年、第67代天皇)は冷泉天皇の第二皇子[居貞(おきさだ・いやさだ)親王]。多病と藤原道長の専横により、後一条天皇に譲位。
69 能因法師 嵐吹く み室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり(後拾遺集)
能因法師(のういんほうし) 橘永愷(たちばなのながやす、988~?年)は平安中期の歌人。橘諸兄の後裔。藤原長能に和歌を学ぶ。文章生となった後に出家。
現代語訳 嵐が吹く三室の山のもみじの葉は、竜田川の水面に落ちて、川を錦に織りなすのだ。
※摂津国古曾部(こそべ。今の大阪府高槻市)で生まれ、そこで住んだので「古曾部入道」などとも呼ばれます。東北や中国地方、四国などの歌枕を旅した漂泊の歌人でもあります。
70 良暹法師 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ(後拾遺集)
良暹法師(りょうぜんほうし) 良暹(生没年不詳)は平安中期の歌人。比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれています。
現代語訳 さびしさに耐えかねて家を出てあたりを見渡すと、どこも同じ寂しい秋の夕暮れだ。
金葉集・雑上・550
「和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、
『歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん』など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる 」
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず天の橋立
現代語訳
「(小式部の母の)和泉式部が(夫の)藤原保昌に付いて丹後国(現在の京都府北部)にいました時、都で歌合がありました時に、小式部内侍が参加歌人に選ばれました所、定頼卿が、(小式部の)局にやって来て、
『歌はどのようになさいますか、丹後へ使者はやりましたか、使者は戻ってきませんか、どれほど心細くお思いでしょう』とか、からかってから立ち上がったのを、(小式部が)引き留めて詠みました。」
大江山を越え、生野を経て行く道が余りに遠いので、まだ丹後にある天橋立も踏んでもいませんし、丹後にいる母からの手紙を見てもおりません。
十訓抄『大江山の歌』
和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるを、小式部内侍、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼の中納言たはぶれて、小式部内侍ありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなく思すらむ。」と言ひて、局の前を過ぎられけるを、御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖を控へて
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立
と詠みかけけり。思はずに、あさましくて、 「こはいかに、かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。
これはうちまかせて理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知られざりけるにや。
現代語訳
和泉式部が、藤原保昌の妻として、丹後の国に赴いた頃のことですが、京都で歌合わせがあったときに、(そこに和泉式部の娘の)小式部内侍が、歌の詠み手に選ばれて歌を詠んだのを、定頼の中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(お母さんに歌を詠んでもらうために)丹後におやりになった人は(帰って)参りましたか。(使いが帰ってくるのを)さぞかし待ち遠しくお思いのことでしょう。」と言って、局の前を通り過ぎられたところ、(小式部内侍は)御簾から半分ほど(体を)乗り出して、少し(定頼の中納言の着ている)直衣の袖を引き止めて、
[小式部内侍が詠んだ歌]
大江山を越えて、生野へとたどっていく道が遠いので、私はまだ天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も見ておりません。
と詠んで返歌を求めました。(定頼の中納言は)思いがけないことで、驚きあきれて
「これはどういうことか。このようなことがあるものか、いやない。」とだけ言って、返歌もできずに、袖を引っ張って離してお逃げになりました。小式部内侍は、この件以来歌詠みの世界で評判が広まりました。
これは(和泉式部の血をひいた小式部内侍にとっては)ふつうの道理にかなっていることなのですが、あの卿(定頼の中納言)の心には、これほどの歌を、すぐに詠んで披露することができるとは、おわかりではなかったのでしょうか。
今昔物語集 巻24第51話 大江匡衡妻赤染読和歌語
今昔、大江匡衡が妻は赤染の時望(ときもち)と云ける人の娘也。其の腹に挙周をば産ませたる也。其の挙周、勢長して、文章の道に止事無かりければ、公に仕りて、遂に和泉守に成にけり。
其の国に下けるに、母の赤染をも具して行たりけるに、挙周思懸けず身に病受て、日来煩けるに、重く成にければ、母の赤染、歎き悲て、思ひ遣る方無かりければ、住吉明神に御幣(みてぐら)を奉らしめて、挙周が病を祈けるに、其の御幣の串に書付て奉たりける、
かはらむとをもふ命はおしからでさてもわかれむほどぞかなしき
と。其の夜、遂に愈(いえ)にけり。
亦、此の挙周が官望ける時に、母の赤染、鷹司殿に此なむ読て奉たりける、
おもへきみかしらの雪をうちはらひきえぬさきにといそぐ心を
と。御堂、此の歌を御覧じて、極く哀がらせ給て、此く和泉守には成させ給へる也けり。
亦、此の赤染、夫の匡衡が稲荷の禰宜が娘を語ひて、愛し思ひける間、赤染が許に久く来たらざりければ、赤染、此なむ読て、稲荷の禰宜が家に、匡衡が有ける時に遣ける、
わがやどの松はしるしもなかりけりすぎむらならばたづねきなまし
と。匡衡、此れを見て「恥かし」とや思ひけむ、赤染が許に返てなむ棲て、稲荷の禰宜が許には通はず成にけりとなむ語り伝へたるとや。
現代語訳
今は昔、大江匡衡(おおえのまさひら)の妻は、赤染時望(あかぞめのときもち)という人の娘でした。匡衡は、この妻に挙周(たかちか)を産ませたのです。その挙周は成長して、文章(もんじょう・漢詩文)の道に才能を現し、朝廷に仕えて、遂には和泉守になりました。
その任地である和泉国に下る時に、母の赤染(赤染衛門のこと。歌人として著名)も連れて行きましたが、挙周は思いがけず病気となり、何日も病床に伏し、しだいに重くなっていったので、母の赤染は嘆き悲しんで、どうすることも出来ないままに、住吉明神(すみのえのみょうじん・住吉大社のこと)に御幣を奉らさせて、挙周の病気快復を祈りましたが、その御幣の玉串に歌を書き付けて奉りました。
『 かはらむと をもふ命は おしからで さてもわかれん ほどぞかなしき 』と。
( 子と代わろうと 思うこの命は 惜しくはないが そのためにこの子と別れなければ ならないとが悲しい )
その夜、挙周の病気は快復しました。
また、この挙周がある官職を望んだ時、母の赤染は鷹司殿(藤原道長の妻倫子のこと。赤染衛門は倫子に仕えていた。)にこのように詠んで奉りました。
『 おもへきみ かしらの雪を うちはらひ きえぬさきにと いそぐ心を 』と。
( わが君よお考え下さい わが白髪にかかる雪を打ち払い 消えないうちにわが子を官職につけたいと思う 急ぐ親の切ない心を。)
御堂(みどう・藤原道長)はこの歌をご覧になって、たいそう哀れに思われて、このように和泉守に就任させたのでした。
また、この赤染は、夫の匡衡が稲荷(伏見稲荷大社)の禰宜(ねぎ)の娘とねんごろになり愛しく思い、赤染のもとに久しく訪れなかったので、赤染はこのように詠んで、稲荷の禰宜の家に匡衡が行っている時に送りました。
『 わがやどの 松はしるしも なかりけり すぎむらならば たづねきなまし 』と。
( 我が家の松には あなたを引き付けるしるしはないのですね。 松ではなく 稲荷社の杉むらならば あなたは訪ねられるのでしょうね。)
匡衡はこれを見て、恥ずかしく思ったのか、赤染のもとに返って来て住み、稲荷の禰宜のもとには通わなくなりました、このように語り伝えたということです。
紫式部日記第二部第一章の五 和泉式部、赤染衛門、清少納言の批評
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
現代語訳
和泉式部という人は、興趣深い手紙をやり取りしました。けれど和泉は感心しない面がありましたが、気を許して手紙をさらさらと書いた時に、その方面の才能のある人は、ちょっとした言葉遣いに色つやが見えるようです。和歌はとても趣きがあります。古歌の知識や、和歌の理論などは本格的な歌人とはいえないようですが、口にまかせて詠んだ歌などには、かならず趣きのある一点が、目にとまるものとして詠み込まれています。それほどの人でさえ、他人が詠んだ和歌を、非難したり批評したりしていますのは、さあ、そこまでは分かっていないで、口をついて自然に詠んでいるようだと、見えたる詠みぶりです。こちらが恥じ入るほど歌人だとは思われません。
丹波守の北の方を、中宮様や殿などのあたりでは、匡衡衛門(赤染衛門)と呼んでいます。特に優れた歌詠みではないが、本当にまことに風格があって、歌詠みとしてどのような場面にも歌を詠み散らすことはないが、知られている歌はすべて、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥じ入るほどの詠みぶりです。ややもすれば、上句と下句とがばたばらなほど離れた腰折れ歌を詠み出して、また何ともいえぬ由緒ありげなことをして、自分一人悦に入っている人は、憎らしくも気の毒にも思われることです。
清少納言は、実に得意顔に偉そうにしていた人です。あれほど賢がって、漢字を書き散らしています程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。このように、他人とは違おうとばかり思っている人は、かならず見劣りがし、先行きは悪くなっていくことばかりですから、思わせぶりの振る舞いが身についてしまった人は、ひどく無風流でつまらい時でも、しみじみと情趣にひたったり、また興趣深いことを見過ごすまいとしているうちに、自然とその折に適切ではない軽薄な振る舞いになるものです。そのように実意のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いことがありましょうか。
紫式部日記第二部第二章の四 日本紀の御局と少女時代回想
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ心憂きしりうごとの多う聞こえはべりし。
内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、
「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」
と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、
「いみじうなむ才がる」
と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。
この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし。
それを、「男だに才がりぬる人は、いかにぞや。はなやかならずのみはべるめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。
読みし書などいひけむもの、目にもとどめずなりてはべりしに、いよいよかかること聞きはべりしかば、いかに人も伝へ聞きて憎むらむと、恥づかしさに、御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを、宮の御前にて『文集』の所々読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより、「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる、隠しはべり。
宮もしのびさせたまひしかど、殿も内裏もけしきを知らせたまひて、御書どもをめでたう書かせたまひてぞ、殿はたてまつらせたまふ。まことにかう読ませたまひなどすること、はた、かのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかに誹りはべらむものと、すべて世の中ことわざしげく憂きものにはべりけり。
現代語訳
左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。
内裏の主上様が『源氏物語』を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、
「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ」
と、仰せになったのを、ふと当て推量に、
「たいそう学識を鼻にかけている」
と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。
わたしの弟の式部丞という人が、子供で漢籍を読んでいました時、側で聞き習っていて、弟は理解するのが遅かったり、すぐに忘れるところがあったりしたのを、わたしは不思議なほど習得が早かったので、漢籍の学問に熱心であった心父親は、「残念なことだ。男子でなかったのが不幸なことであった」と、いつも嘆いておられました。
それなのに、「男性でさえ学識を鼻にかける者は、どのようなものでしょうか。栄達はしないもののようですよ」と、だんだんと人が言うのを耳にするようになってからは、一という漢字さえ書くことをしませんので、まったく無学であきれる様でいます。
かつて読んだ漢籍などといったものは、目にもとめなくなっていましたのに、ますますこのような渾名を聞きましたので、どんなに人が伝え聞いて憎むことだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてある字句をさえ読まない顔をしていましたのに、中宮様の御前で『白氏文集』の所々を読ませなさったりなどして、その方面のことをお知りになりたげなご意向であったので、たいそうこっそりと女房の伺候していない何かの合間合間に、一昨年の夏ごろから、「新楽府」といふ書物二巻を、きちんとではないがお教え申し上げていますが、このことも隠しています。
中宮様もお隠しになっていましたが、殿も主上も様子をお知りになって、漢籍類を立派に書家にお書かせになって、殿は中宮様に献上なさる。本当にこのようにわたしに読ませなさったりすることは、それでもやはり、あの口うるさい内侍は、まだ聞きつけていないでしょう。これを知ったならば、どんなに悪口を言いましょうかと、総じて世の中というものは煩雑で嫌なものでございますね。
紫式部日記『和泉式部と清少納言』
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。
うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。
ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみ添へ侍り。
それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌も詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢには侍るかし。
恥づかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず。
清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人。
さばかりさかしだち、真名(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにも侍るべし。
そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。
現代語訳
和泉式部という人は、趣深く手紙をやり取りした(人です)。しかし、和泉式部には感心しない面がある。
気軽に手紙を走り書きした時に、その方面の才能のある人で、ちょっとした言葉の、つやのある美しさも見えるようです。歌は、たいそう興味深いものですよ。
古歌についての知識や、歌の理論、本物の歌人というふうではないようですが、口にまかせて詠んだ歌などに、必ず趣深い一点で、目にとまるものが詠み添えてあります。
それほど(の歌人)であるのに、他の人が詠んだ歌を非難したり批評したりしているようなのは、いやもうそれほどまで(和歌を)心得てはおらず、口をついて実に自然と歌が詠まれるようだと、思われる(和歌の)作風でございますよ。
(こちらが)恥ずかしくなるほどのすばらしい歌人だなとは思われません。
清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人(です)。
あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております(その)程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い。
このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう。
その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか。(いや、よくないでしょう。)
大鏡 三船の才 藤原公任のこと
ひととせ、入道殿の、大井川に逍遥せさせたまひしに、作文の船、管弦の船、和歌の船と分かたせたまひて、その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言の参りたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」とのたまはすれば、「和歌の船に乗りはべらむ。」とのたまひて、詠みたまへるぞかし、
小倉山あらしの風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき
申し受けたまへるかひありてあぞばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。
一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出でたまひけむは、いにしへもはべらぬことなり。(太政大臣頼忠)
現代語訳
ある年、入道殿(=藤原道長)が大井川で船遊びをなさった時に、(船を)漢詩文の船、音楽の船、和歌の船とお分けになって、(それぞれの船に)その(漢詩・音楽・和歌の)道に十分な力のある人々をお乗せになりましたが、この大納言殿(=藤原公任)が参上なさったところ、入道殿が、「あの大納言は、どの船に乗りなさるのがよいだろうか。」とおっしゃると、(公任は)「和歌の船に乗りましょう。」とおっしゃって、お詠みになった歌だよ、
小倉山や対岸の嵐山から吹き下ろす山風が寒いので、紅葉の(葉が人々の衣に散りかかって)錦の(美しい)衣を着ない人はいないことだ(みな錦の衣を着ているようだ)
(自分から)お願い申し上げてお引き受けなさっただけあって、(みごとに)お詠みになったことよ。ご自分でもおっしゃったとかいうことは、「漢詩の船に乗ればよかったよ。そうしてこれほどの(和歌と同等の)漢詩をもし作ったとしたら名声の上がることも(和歌で得た名声よりも)まさっていたことだろう。残念なことであったなあ。それにしても入道殿が、『どの船に(乗ろう)と思うか。』とおっしゃったことには、我ながら自然と得意になったことだ。」とおっしゃったということだ。
一つの事がすぐれていることでさえ難しいのに、このようにどの道も他の人よりすぐれていらっしゃったとかいうことは、昔にもございませんことです。
『蜻蛉日記』 うつろひたる菊
さて九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりにあけて見れば、人のもとにやらむとしける文あり。あさましさに、見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
うたがはし ほかにわたせる 文見れば ここやとだえに ならむとすらむ
など思ふほどに、うべなう、十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬ時あり。つれなうて、「しばし試みるほどに」など気色あり。これより夕さりつかた、
「うちのがるまじかりけり」とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、「町の小路なるそこそこになむとまり給ひぬる」
とて来たり。さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありてあかつきがたに門をたたく時あり。さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
なげきつつ ひとり寝る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る
と、例よりもひきつくろひて書きて、うつろひたる菊にさしたり。返りごと、
「明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。
げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは わびしかりけり」
さても、いとあやしかりつるほどに、ことなしびたる。しばしは忍びたるさまに、「内裏に。」など言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや。
現代語訳
さて、九月あたりになって、(夫が)外出してしまったところに、箱があるので手慰みに開けてみると、(夫が他の女の)人の所へ送ろうとしていた手紙がある。驚きと呆れに、(私がこの手紙を)見たことだけでも知らせようと思って、書き付けた。
疑わしいことだ。他の女に宛てた 手紙を見てしまったので、あなたがここへ来るのも途絶えてしまうようになるのでしょうか。
などと考えていると、もっともなことだ、十月の末あたりに、三晩続いて(夫が)姿を見せないときがあった。(夫は)平気な様子で、「ちょっと(お前の愛を)試してみただけだよ」などといったそぶりである。これから(夫は)夕方に、「(用事から)逃れることができなかった」
といって出て行ったので、何だか分からなかったので、人をつけて尾行させると、「町の小路にある、どこどこにお止まりなさった」
といって戻ってきた。やはりだと、とても辛いと思ったが、(夫に)どう言ったものか分からずにいる間に、二、三日ほどたってから明け方に門を叩くことがあった。そう(夫が来たの)であろうとは思うが、うんざりしていて開けなかったところ、例の(小路の女の)家とおぼしき方へ行ってしまった。早朝、何もしないではいられまいと思って、
嘆きながら ひとりで寝る夜の 明けるまでがいかに長いものか あなたは知っていますか
と、いつもよりは体裁を整えて書いて、盛りの過ぎている菊にさし結んで送った。(夫からの)返事は、
「夜が明けるまで(門が開くのを)待ってみようとしたが、急ぎの使いが来合わせたので、待たずに去った。(あなたが私に対して怒るのは)たいへんもっともであったよ。
なるほど本当に 冬の夜が明けるのは遅いが そうでなくてもまきの戸が遅く開くのは つらいのだなあ。 」
それでも、とても不審がっているうちに、(夫は)素知らぬ顔をしてまた他の女のところへ通っている。しばらくは隠すように「宮中へ。」などと言いながら行くのが当然であるが、ますます気に入らなく思うこと、この上ないなあ。
『撰集抄』巻八第十八 実方中将桜狩ノ歌ノ事
昔、殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨ふりて、人々げにさわぎ給へりけるに、 実方の中将、いとさわがず、木の本に立ち寄りて、
桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
と詠みて、かくれ給はざりければ、花よりもりくだる雨に、さながらぬれて、装束しぼりかね侍り。 此の事、興有ることに人々おもひあはれけり。
現代語訳
昔、殿上人たちが花見のために東山に出かけたのですが、心ない俄か雨で大騒ぎになりました。 その中にあって実方の中将は少しも動じず、桜の木の下に身を寄せて
<さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にやどらん>
と詠みました。 他の人たちのように牛車に避難したりなどしなかったので、実方は桜の木から滴り落ちてくる雨のしずくで 濡れそぼり、装束をしぼりかねてしまうほどになっていました。
「花見に来たら雨が降ってきた。どうせ濡れてしまうのなら桜のかげで雨宿りをいたしましょうや」という 歌そのものの所業を、見ていた人々は「なんと風流な」と感心したことです。
※東山での花見の一件を聞いた、能書家で三蹟の一人である藤原行成は「歌は面白し、実方はをこ(馬鹿)なり」と申したところ、後日、その話を聞いた実方が怒りのあまり殿上に於いて、行成の冠を取り、庭へ投げ棄て去ってしまいました。その状況をご覧になった一条天皇は、「行成は召使うべき物」と蔵人頭に命じ、実方には「歌枕みてまゐれ」と、実質左遷のような形で、長徳元年(995年)9月27日に多くの人たちに別れを惜しまれながら、華やかな日々を過ごした京の都を後にして陸奥国の国司として赴任させられました。しかしながら、赴任後の実方は陸奥国の国司として昼夜問わず精力的に奉仕し、武士や庶民からも絶大な信頼と尊敬を受けていました。そうして、陸奥守として各地を巡閲してまわった際に、この地にて蝦夷鎮護・陸奥国長久平和を願い「夷之社」(後の廣田神社)を創建しました。
十訓抄 第八 諸事を堪忍すべき事
大納言行成卿、いまだ殿上人にておはしける時、実方中将、 いかなるいきどほりかありけん、殿上に参り合ひて、言うこともなく、行成の冠を打ち落として、小庭に投げ捨てけり。
行成、少しも騒がずして、主殿司を召して、 「冠、取りて参れ」とて、冠して、守り刀よりかうがい抜き取りて、鬢かいつくろひて、居直りて、 「いかなる事にて候ふやらん、たちまちにかうほどの乱罰にあづかるべきことこそ、おぼえはべらね。 そのゆゑをうけたまはりて後の事にやはべるべからん」 と、ことうるはしく言はれけり。 実方しらけて、逃げにけり。
折しも、半蔀より、主上御覧じて、「行成はいみじき者なり。かくおとなしき心あらんとこそ思はざりしか」 とて、そのたび蔵人頭あきけるに、多くの人を越えてなされにけり。 実方をば、中将を召して、「歌枕、見て参れ」とて、陸奥の国の守になしてぞつかはされける。 やがてかしこにてうせにけり。 実方、蔵人頭にならでやみにけるを恨みにて、執とまりて、雀になりて、 殿上の小台盤に居て、台盤を食ひけるよし、人言ひけり。
一人は不忍によりて前途を失ひ、一人は忍を信ずるによりて褒美にあへるたとへなり。
現代語訳
大納言行成卿が、まだ殿上人でいらっしゃった時、実方の中将は、どのような憤りがあったのであろうか、(行成・実方が)共に殿上に参ったところ、実方は何も言わずに、行成の冠を打ち落とし、小庭に投げ捨てた。
行成は少しも騒がずに、主殿司をお呼びになり、「冠をとって参れ。」と命じ、冠をかぶり守刀より笄を抜き出して、鬢を整え、座り直し、「いかなることでございましょう。にわかにこれほどの乱罰にあづかるような覚えはございません。(このような乱罰を受けるのならば)その理由を承って、後のことであるべきではないでしょうか。」と、礼儀正しくおっしゃった。
実方はそれを聞き、興ざめしてにげてしまった。
折しも、子蔀より天皇が(事の次第を)ご覧になっていて、「行成はすばらしい人物である。これほど落ち着いた心の持ち主であるとは思わなかった。」とその時、ちょうど蔵人頭の席が空いていたので、多くの人々を超え、その席に行成を任命なさった。
一方、実方の方は中将の官職をお取り上げになり、「歌枕を見て参れ。」と、陸奥守に任命して派遣なさった。そして実方はそのままその地で亡くなってしまった。
実方は、蔵人頭になれずに終わってしまった事を恨み、執着が残って、(死後)雀となり、殿上の小台磐にとまって、台磐をたべていたということを、人々が言っていた。
一人は忍耐することができずに、前途を失い、一人は忍耐の心を信じたことにより褒美にあずかったという例である。
百人一首51~60についても同じように調べてみます。
51.藤原実方朝臣 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(後拾遺集)
藤原実方(?~998 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。左近中将となったが、宮中で不祥事を起こして陸奥守に左遷され、任地で没しました。多数の女性と交遊関係を持ち、清少納言も愛人の一人であったといいます。
現代語訳 「こんなに愛している」とさえ言えないのですから、伊吹山のさしも草(もぐさ)ではありませんが、それほどとはご存じないでしょう。あなたへの燃える思いを。
※後世、実方と行成(ゆきなり)が口論した際、主上が実方の粗暴なふるまいをとがめて「歌枕(うたまくら)見てまいれ」と断じて下命した(『古事談』『十訓抄』ほか)という伝説も派生しました。
52.藤原道信朝臣 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな(後拾遺集)
藤原道信朝臣 藤原道信(972~994年)は平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。23歳で早世。
現代語訳 夜が明けてしまうと、必ず暮れて、あなたに逢えるとは知ってはいるものの、それでも恨めしい夜明けだなあ。
※非常に和歌に秀で、奥ゆかしい性格と評されたといます。懸想し恋文を贈った婉子女王(えんしじょおう、為平親王の娘)が藤原実資に嫁してしまったのちに詠んだ和歌が『大鏡』に伝わります。また、藤原公任・実方・信方などと親しかったいいのす。
53.右大将道綱母 歎きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る(拾遺集)
右大将道綱母 藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは、?~995年)は実名不明。平安中期の歌人。藤原倫寧(ともやす)の娘。藤原兼家の妻で道綱の母。『蜻蛉日記』の作者。
現代語訳 あなたが来てくださらないことを嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの間は、どれほど長いものかご存知でしょうか。ご存知ないでしょう。
※『拾遺集』の詞書には、「入道摂政(兼家)まかりたりけるに、門を遅く開けければ、『立ちわづらひぬ』と言ひ入れて侍りければ」とあり、『蜻蛉日記』には、夫に他の妻ができたことを知った作者が、その来訪を知りながら決して門を開けようとせず、新しい妻の家へ立ち去ってから、しおれかけの菊とともに贈った歌とあります。いずれにせよ、この歌の背景には、夫に別の妻ができたことに対する嫉妬が存在するようです。また、それが道綱を出産して間もない時期であったため、一層、精神的な負担を増大させていたことがうかがえます。もっとも、藤原道綱母自身が兼家の妻とはいえ、実質的には第二夫人であり、藤原中正(なかまさ)の女が産んだ道隆、道長が兼家の後を継ぐこととなりました。
54.儀同三司母 忘れじの行末までは難ければ 今日をかぎりの命ともがな(新古今集)
儀同三司母(ぎどうさんしのはは、?~996年)は高階成忠(たかしなりなりただ)の娘、貴子。藤原道隆の妻で伊周(これちか、儀同三司)、隆家、定子の母。平安中期の歌人。
現代語訳 忘れはしまいとおっしゃるお言葉は、遠い未来まではあてにしがたいので、今日を限りの命であってほしいものです。
※藤原道隆は、この歌が詠まれた当時、10代後半であって官位は低く、父の兼家が、伯父の関白兼通から疎まれていたため、必ずしも順風満帆という状況ではありませんでした。その後、兼通の死去により兼家が政界の中枢に復帰すると、道隆もまた急激に官位を進めました。道隆が関白になると、定子は一条天皇の中宮に、嫡男伊周(儀同三司)は10代でありながら公卿に列するなど、貴子の産んだ子供たちは、朝廷内で重要な役割をはたすこととなります。しかし、道隆が43歳の若さで亡くなり、伊周が叔父道長との政争に敗れ、隆家が花山法皇を襲撃するという暴挙に及んだことにより、兄弟そろって地方に左遷されました。こうした混乱の最中、貴子は伊周に同行することを求めますが許されず、失意のうちに病を得て亡くなります。
55.大納言公任 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ(拾遺集)
大納言公任(きんとう) 藤原公任(ふじわらのきんとう、966~1041年)は平安中期の歌人。藤原定頼の父。諸芸に優れ、『和漢朗詠集』、『拾遺抄』、『三十六人撰』を撰し、歌論書『新撰髄脳』、『和歌九品』、有職故実書『北山抄』、家集『公任集』などを著す。
現代語訳 滝の音は聞こえなくなってから長い年月がたったが、音の評判だけは世間に流れて、今もなお聞こえているなあ。
※「滝」は、『拾遺集』の詞書から、大覚寺にあった人工の滝。大覚寺は、もともと嵯峨天皇(796~842年)の離宮として造営され、後に真言宗の寺院となりました。
56.和泉式部 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな(後拾遺集)
和泉式部(いずみしきぶ、生没年不詳)は平安中期の歌人。大江雅致(まさむね)の娘。和泉守橘道貞の妻。小式部内侍の母。『和泉式部日記』の作者。不貞により離縁され、父からも勘当された後、藤原保昌と再婚したが、不遇のうちに生涯を終えたとされる。
現代語訳 私は、そう長くは生きていないでしょう。あの世へ行ったときの思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです。
※同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されています(『紫式部日記』)。
57.紫式部 巡りあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな(新古今集)
紫式部(むらさきしきぶ、970年代~1010年代)は平安中期の作家、歌人。藤原為時の娘。藤原宣孝の妻。大弐三位の母。『源氏物語』、『紫式部日記』の作者。幼少期から文学的才覚を現し、一条天皇の中宮彰子に仕えたころから『源氏物語』の執筆をはじめたとされます。
現代語訳 めぐりあって見たのがそれだったのか、それでなかったのかも判らない間に雲隠れしてしまった夜中の月のように、(幼なじみの)あなたはあっという間にいなくなってしまいましたね。
※歌を見る限り、“月”が主題であるように思えますが、新古今集の詞書には<はやくより童友だちに侍りける人の 年ごろ経て行きあひたる ほのかにて七月十日ごろ月にきほいてかへり侍りければ 新古今集・雑上>とあり、幼馴染とのつかの間の再会を詠っている。当時、紫式部と同程度の中流貴族階級の女性は、受領として赴任する父や夫とともに地方に下ることが多く、この歌は、そうした状況に伴う再会の喜びと別れの寂寥感を詠み込んでいます。
58.大弐三位 有馬山猪名のささ原風吹けば いでそよ人を忘れやはする(後拾遺集)
大弐三位(だいにのさんみ) 藤原賢子(ふじわらのかたこ、999~?年)は平安中期の歌人。藤原宣孝と紫式部の娘。大宰大弐高階成章の妻。後冷泉天皇の乳母。
現代語訳 有馬山、猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てる。さあ、そのことですよ。(あなたは、私が心変わりしたのではないかと気がかりだなどとおっしゃいますが、)私がどうしてあなたのことを忘れたりするものですか。
※後朱雀天皇の第一皇子・親仁親王(ちかひとしんのう=のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)の一人となり、親仁親王が即位するにあたって、典侍(ないしのすけ)に任ぜられ従三位に昇進。「大弐三位」という女房名は、夫の成章の官名・大宰大弐と賢子自身が三位であることにちなむ。
59.赤染衛門 やすらはで寝なましものを小夜更けて 傾くまでの月を見しかな(後拾遺集)
赤染衛門 (あかぞめえもん、生没年不詳)は平安中期の歌人。赤染時用(ときもち)の娘。実父は、母の前夫平兼盛か? 大江匡衡(まさひら)の妻。匡房の曾祖母。中宮彰子に仕えました。『栄花物語』の作者という説もあります。
現代語訳 いらっしゃらないことがはじめからわかっていたなら、ためらわずに寝てしまったでしょうに。今か今かとお待ちするうちに夜も更けてしまい、西に傾くまでの月を見たことですよ。※息子の大江挙周が重病を患っていた際、「大江挙周の重病の原因は住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は挙周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき」との和歌を住吉神社の祭殿に奉納しました。赤染衛門の挙周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、挙周の重病は根治したといいます。
60.小式部内侍 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立(金葉集)
小式部内侍 (こしきぶのないし、?~1025年)は平安中期の歌人。橘道貞と和泉式部の娘。年少の頃から歌の才能を現しましたが、20代で早世。
現代語訳 大江山を越えて生野を通って行く道は遠いので、まだ天の橋立に行ったこともなければ、母からの手紙も見ていません。
※当時、10代半であった小式部内侍の歌が優れていたため、それらの作品は丹後に赴いていた母の和泉式部による代作ではないかとの噂がありました。『金葉集』の詞書に、この歌は、歌合の前に藤原定頼が、「代作を頼むために丹後へ人を遣わされましたか」と小式部内侍をからかったことに対する返答として即興で詠まれたものであると記されています。
大鏡 第三巻20段 伊尹伝より
男君たちは、代明の親王の御女の腹に、 前少将挙賢・後少将義孝とて、 花を折り給ひし君たちの、殿失せ給ひて、 三年ばかりありて、天延二年甲戌の年、皰瘡おこりたるに、 煩ひ給ひて、前少将は、朝に失せ、後少将は、 夕にかくれ給ひにしぞかし。 一日がうちに、二人の子をうしなひ給へりし、母北の方の御心地いかなりけむ、 いとこそ悲しく承りしか。
かの後少将は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座し、 年頃きはめたる道心者にぞ御座しける。 病重くなるままに、生くべくもおぼえ給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、
「おのれ死に侍りぬとも、とかく例のやうにせさせ給ふな。 しばし法華経誦じ奉らむの本意侍れば、 かならず帰りまうで来べし」
と宣ひて、方便品を読み奉り給ひてぞ、 失せ給ひける。その遺言を、母北の方忘れ給ふべきにはあらねども、 物も覚えで御座しければ、思ふに人のし奉りてけるにや、 枕がへしなにやと、例の様なる有様どもにしてければ、え帰り給はずなりにけり。 後に、母北の方の御夢に見え給へる。
しかばかり契りし物を渡り川かへるほどには忘るべしやは
とぞよみ給ひける。いかにくやしく思しけむな。
さて後、ほど経て、賀縁阿闍梨と申す僧の夢に、この君たち二人御座しけるが、 兄、前少将いたう物思へるさまにて、 この後少将は、いと心地よげなるさまにて御座しければ、阿闍梨、
「君はなど心地よげにて御座する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給ふめれ」と 聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて
しぐれとは蓮の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ
など、うちよみ給ひける。
さて後に、小野宮の実資の大臣の御夢に、おもしろき花のかげに御座しけるを、うつつにも語らひ給ひし御中にて、 「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申し給ひければ、その御いらへに、
昔ハ契リキ、蓬莱宮ノ裏ノ月ニ 今ハ遊ブ、極楽界ノ中ノ風ニ (昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風 )
とぞ宣ひける。極楽に生れ給へるにぞあなる。斯様にも夢など示い給はずとも、 この人の御往生疑ひまうすべきならず。
現代語訳
伊尹公の男の御子様方には,代明親王の姫君が御産みになられた前少将挙賢と後少将義孝という 大層華やかな見目麗しい姿の御子息がありました。 父伊尹が御亡くなりになってから三年程経た天延二年甲戌の年(西暦974年)、 流行り病の天然痘を患い、まず前少将が朝に御亡くなりになって、後少将は夕方に御亡くなりになりました。 一日に二人の御子様を亡くしてしまった母君の北の方の御心持ちは、いかばかりだったことでしょう。 実に悲しみ深い事です。
その義孝という後少将は御容姿がとても美しく、ずっと熱心な仏教信者でした。 自分の病気が重くなり、助かりそうに無いと自分でも悟って、 母上の代明親王の姫君にお話になりました。「私が死んでも、あれこれと普通に死者を扱う様にしないでください。 もうすこし法華経を読経したいと思っていますので、必ずやこの世に戻ってきます。」
と言い、 法華経の中でも臨終で念じるものでは無いお経の方便品を詠んで亡くなりました。 その遺言ともいう臨終の言葉を母上が忘れるはずもないのですが、 御嘆きのあまりに混乱し、周囲の人々がなすがままに枕を北向きに直し、 何やかやと普通の作法で後少将を送ってしまいました。 ゆえに、後少将はこの世に戻ってくることができなくなってしまったのです。 後で母上の御夢に立った後少将は
<しかばかり契りし物を渡り川かへるほどには忘るべしやは>
(あれほど約束したのに、私が三途の川から戻ってくる束の間にすでに約束を忘れてしまうとは)
と詠みました。
それを聞いた母君はどんなにか後悔したことでしょう。
賀縁阿闍梨という僧の夢に、この兄弟が出てきました。 沈んでいる兄に対して義孝は実に心楽しげです。 阿闍梨はその様子を不思議に思い、
「なぜそのように楽しげなのでしょう。お母上は兄上様よりもあなたを深く愛し、恋しくも思っておいでであるのに」 とたずねました。
すると義孝は納得できないような顔をして答えました。
<時雨とははちすの花そちりまよふなにふるさとに袖ぬらすらむ>
(そちらの世界では時雨のころなのでしょうか。私がいるこちらの世界では蓮の花がとても美しいのです。 母上はなにを嘆き悲しみになってお泣きなのでしょうか。)
生前親しくしていた小野宮流藤原実資もまた、義孝を夢に見たとのことです。 美しく咲いた花の陰に座っていたので「なぜこんなところにいらっしゃるのですか? ここはどこなのでしょう?」 と声をかけました。すると「私は生きていた時に、蓬莱宮のような宮中で、あなたと月を眺めては楽しみましたよね。 今は極楽浄土の風に吹かれて、楽しく暮らしているのですよ。」とお話になったとのことでした。
わざわざ夢に出て来て教えてくれなくとも、義孝が極楽に行かれたことは疑いの余地がありません。
sechin@nethome.ne.jp です。
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