百人一首71~80について調べました。
71.大納言経信 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く(金葉集)
大納言経信(だいなごんつねのぶ) 源経信(みなもとのつねのぶ、1016~1097年)は平安後期の公卿・歌人。俊頼の父。三船(詩・歌・管弦)の才を合わせ持ち、有職故実にも通じていた。
現代語訳 夕方になると、家の門前の稲の葉に音を立てて、蘆葺きの小屋に秋風が吹いてくることだ。
※武芸に秀でているだけでなく、たいへんな学問のあった人で、歌会にも度々出場しているのですが、面白い逸話があります。
ある日、源経信が紀貫之の和歌を詠んでいたところ、風流を好んだ朱雀門院の鬼がやってきて源経信の前で漢詩を吟じたといいます。
72.祐子内親王家紀伊 音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ(金葉集)
祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい、生没年不詳)は安後期の歌人。平経方の娘で紀伊守重経の妹か。後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。
現代語訳 噂に名高い高師の浜のいたずらに立つ波は、かけないように気をつけましょう。袖が濡れると困りますから。 ― 噂に高い浮気者のあなたの言葉なんて信用しませんよ。袖を涙で濡らすことになるのは嫌ですから。
※この歌は1102年5月に催された「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」で詠まれたそうです。「艶書合」というのは、貴族が恋の歌を女房に贈り、それを受けた女房たち が返歌をするという洒落た趣向の歌会です。そこで70歳の紀伊に贈られたの29歳の藤原俊忠の歌に応えたのがこの歌でした。
73.権中納言匡房 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ(後拾遺集)
権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ) 大江匡房(おおえのまさふさ、1041~1111年)は平安後期の学者・歌人。匡衡・赤染衛門の曾孫。後三条天皇に登用され、摂関家にはばかることなく政治改革を推進しました。
現代語訳 遠くの山の峰の桜が咲いたことだ。人里近い山の霞よ、立たないでほしい。
※大江匡房は16歳で文章生に選ばれた後、京都・宇治市の平等院建立にあたって、時の関白藤原頼通が「寺院の門が北向きだが、古今に例はあるのだろうか」と問われ、すらすらと答えたとのエピソードがあります。
74.源俊頼朝臣 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを(千載集)
源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん) 源俊頼(1055~1129年)は平安後期の歌人。経信の三男。俊恵の父。白河法皇の院宣による勅撰集『金葉和歌集』の撰者。斬新な表現や技巧を凝らした作風で歌壇の革新的存在となり、保守派を代表する藤原基俊と対立した。
現代語訳 私の愛に応えてくれず、つらく思ったあの人を振り向かせてくれるように初瀬の観音様に祈りはしたが。初瀬の山おろしよ、ひどくなれとは祈らなかったのに。
※天治1年には白河法皇の命を受けて『金葉集』を選進。2度の改編を経て三奏本が嘉納されました。
75.藤原基俊 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり(千載集)
藤原基俊 (ふじわらのもととし、1060~1142年)は平安後期の歌人。藤原道長の曾孫で右大臣俊家の子。万葉集の次点(訓点)をつけた一人。藤原定家の父俊成に古今伝授を行った。保守派歌壇の代表的人物で、革新派の源俊頼と対立。人望がなかったため、学識・家柄の割に官位は上がらず、従五位上左衛門佐にとどまった。
現代語訳 お約束くださいましたお言葉を、よもぎの葉に浮かんだ恵みの露のように、命と思って期待しておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。
※「させも」は、さしも草で、よもぎのこと。基俊の息子は、奈良の大きなお寺・興福寺のお坊さん光覚(こうかく)です。興福寺では10月10日から16日まで維摩経(ゆいまきょう)を教える維摩講が行われますが、この名誉ある講師に光覚を、と前の太政大臣・藤原忠通にたびたび頼んでいました。
熱心な頼みに忠通は「しめぢが原」と答えます。古今集にある清水観音の歌に
なほ頼め しめぢが原の さしも草 われ世の中に あらむ限りは
(私を一心に頼りなさい。たとえあなたがしめじが原のヨモギのように思い悩んでいても)
というものがあり、「大丈夫だ、私に任せておけ」との意味です。が、その年も息子・光覚は講師に選ばれませんでした。だからその恨みをこめ、作者は「約束したのに、ああ、今年の秋も過ぎていくのか」と嘆いてみたのです。
76.法性寺入道前関白太政大臣 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波(詞花集)
法性寺(ほっしょうじ)入道前関白太政大臣 藤原忠通(ふじわらのただみち、1097~1164年)は平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となります。一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われますが、保元の乱で頼長を倒して回復します。書にも優れ、法性寺流を開きました。
現代語訳 大海原に漕ぎ出して見渡すと、雲かと見まがうばかりの沖の白波だ。
※『詞花集』の詞書によると、この歌は、崇徳天皇の御前で「海上遠望」を題に詠んだ歌とありますが、皮肉なことに、忠通は、保元の乱で敗れた崇徳上皇を讃岐に流しました。
77.崇徳院 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(詞華集)
崇徳院(すとくいん) 崇徳天皇(1119~1164年)は在位1123~1142 第75代天皇。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第1皇子。5才で即位するも、22才の時、鳥羽上皇の命で異母弟の近衛天皇に譲位。近衛天皇崩御の後に即位した同母弟の後白河天皇と保元の乱で争い敗れて讃岐に配流され、同地で崩御。
現代語訳 川瀬の流れが速いので、岩にせき止められる急流が、一度は別れても再び合流するように、愛しいあの人と今は障害があって別れていても、行く末は必ず添い遂げようと思う。
※崇徳院は、18年間位についたものの、当時の鳥羽上皇に強引に譲位させられます。さらに息子・重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり上皇の考えで後白河天皇に位を奪われます。そして上皇の死後、後白河天皇と、どちらの皇子を天皇にするかで争って破れたのが「保元の乱」でした。後世には、崇徳院の不遇な生涯とこの歌を結びつけ、強引に譲位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者もいます。それほど激しい想いを感じさせる歌でもあります。78.源兼昌 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守(金葉集)
源兼昌 (みなもとのかねまさ、生没年不詳)は平安後期の歌人。
現代語訳 淡路島との間を飛び交う千鳥の鳴く声のせいで、幾夜目を覚ましたことであろう、須磨の関守は。
※ 摂津国須磨(現在の神戸市須磨)といえば、平安時代は流謫の地で、在原業平の兄、行平が流れ住んでいた場所です。その故実に基づいて創作されたのが、源氏物語の「須磨の巻」だと言われています。老いた光源氏は退隠していたこの須磨で、
友千鳥 もろ声に鳴く暁は ひとり寝覚の 床もたのもし
(いつものようにうとうととなされぬ明け方の空に、千鳥がとても悲しい声で鳴いている。「友千鳥が声を合わせて鳴いている明け方は独り寝覚めて泣くわたしも心強い気がする」)
という歌を詠みます。この歌は、それを踏まえた歌なのです。
兼昌は実際に須磨の地でこの歌を詠んだのではなく、歌合せの「関路ノ千鳥」という題から創作したものだと言います。
79.左京大夫顕輔 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ(新古今集)
左京大夫顕輔 (さきょうのだいぶあきすけ) 藤原顕輔(1090~1155年)は平安後期の歌人。清輔の父。崇徳院の院宣による勅撰集『詞花和歌集』の撰者。
現代語訳 秋風のためにたなびいている雲の切れ間からこぼれ出る月の光の何と明瞭なことか。
80.待賢門院堀河 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ(千載集)
待賢門院堀河 (たいけんもんいんのほりかわ、生没年不詳)は平安後期の歌人。源顕仲の娘。待賢門院に仕えた。
現代語訳 あなたが末長く心変わりしないということは信じがたいのです。お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心も乱れて、あれこれともの思いにふけるばかりです。
袋草紙 巻三 馬から下りて
人々大原なる所に遊行するにおのおの馬に騎る。而して俊頼朝臣が俄に下馬す。 人々驚きてこれを問ふ。 答へて云はく。
「此所は良暹が旧房なり。いかでか下馬せざらんや」と。人々感嘆して皆もって下馬すと云々。
これ能因の先蹤か。能因、兼房の車の後に乗りて行くの間、二条東洞院にて俄かに下りて数町歩行す。 兼房驚きてこれを問ふ。答へて云はく、
「伊勢の御の家の跡なり。かの御の前栽の植松、今に侍り。いかでか乗り乍ら過ぐべけんや」と云々。
松の木の末の見ゆるまで車に乗らずと云々。件の良暹が房、いまだ消えず。
現代語訳
源俊頼が人々と馬に乗って、遊びに出ました。 大原というところに行くと、急に俊頼は馬を下りました。 人々が驚いて問うと、
「ここは良暹法師が昔住んでいたところだ。どうして馬から下りずにおられようか。失礼だろう」と言いました。それを聞いて皆、感嘆して、馬を下りました。
これは能因法師の話で、先例があります。能因が藤原兼房の車の後ろに乗っていると、二条東洞院で能因が急に車を降りて、数町歩きました。 兼房は驚いてこれを問いました。 能因が答えて言うには
「伊勢の御のお屋敷の跡でした。あの伊勢の御が詠われた庭先の結び松が、今もありました。どうして車に乗ったまま通り過ぎることができましょうか」 と言いました。
松の木の梢の先が見えなくなるまで、車に乗らなかったといいます。例の良暹の棲んでいた旧房はそのまま消えずに在ります。
※良暹法師や伊勢が歌人として、後の時代の歌人たちから尊敬されていたことをあらわす逸話です。 ちなみに、伊勢の“結び松”の歌は不詳です。
古今著聞集 (能因法師と白河の関)
能因法師は、いたれるすきものにてありければ、
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」
とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、
「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。
現代語訳
能因法師は、とても風流人で、
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」
と詠んだのを、都にいてこの歌を披露することは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当たって焼いてから
「みちのくに修行したついでに歌を詠みました。」と披露しました。
※実際には、奥州行脚の折りに詠まれたということです。現代と違い当時は、都を春に立っても秋に着くのですから、まさしく「みちのおく」ですね。
芭蕉が奥の細道で能因法師を引用している所をピックアップしてみましょう。
1. 白河の関
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。
「いかで都へ」
と便り求しも理なり。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉のこずえなほあはれなり。
卯の花の白妙(しろたえ)に、いばらの花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
現代語訳
不安で落ち着かない日々を重ねるうちに、白河の関にさしかかって旅をするんだという心が決まった。
(昔、平兼盛が白河の関を越えた感動を) 「どうにかして都に(伝えたい)。」
と(思いを伝える)つてを求めたのも理にかなっている。数ある関所の中でも(この白河の関は)三関の1つに数えられ、風雅の人が心を寄せる場所である。能因法師の歌を思い出すと、秋風が耳に残るようであり、源頼政の歌を思い出すと、今はまだ青葉である梢の葉もよりいっそう趣深く感じる。
卯の花が真っ白に咲いているところに、いばらの花が咲き混じっていて、雪の降る白河の関を越えるような心地がする。昔の人たちは、冠を正し衣装を改めてから関を越えたということが、藤原清輔の書き物にも記されている。
卯の花を花飾りにして、白河の関を越えるための晴れ着としよう 曾良
※いかで都へ:平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」を引用
※秋風:能因法師が詠んだ「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」を引用
※紅葉:源頼政が詠んだ「都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散り敷く白河の関」を引用
2. 武隈の松
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)、むつのかみにて下りし人、此木を伐(きり)て名取川の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ふものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月超し
現代語訳
武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。
まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。
そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。
その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。
門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。
武隈の松見せ申せ遅桜
(遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください)
今それに答えるような形で、一句詠んだ。
桜より松は二木を三月超シ
(桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ)
※松は此たび跡もなし:「後拾遺和歌集」に能因法師が詠んだうたとして、
みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ とあります。
3. 野田の玉川(塩釜付近 沖の石、末の松山といっしょに出てくる)
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。
松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
其夜目盲法師*の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
現代語訳
それより、能因法師の歌「夕されば汐風こえて陸奥(みちのく)の野田の玉川鵆(ちどり)なく也」で有名な野田の玉川、二条院讃岐の「我恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」と詠まれた沖の石を訪ねた。
古今集の歌「君をゝきてあだし心をわがもたば末のまつ山波もこえなむ」や、藤原元輔の歌「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつゝすゑの松山波こさじとは」などで有名な末の松山だが、今では寺をつくってこれを末松山という。松林の中はいたるところ墓場で、この歌のように比翼連理の契りを結んだとはいえ、終のすみかはここなのかと、悲しい想いをしながら、「みちのくのいづくはあれど塩がまの浦こぐ舟の網手かなしも」と詠まれた塩がまの浦の入相の鐘を聞いた。
五月雨の空もうっすらと晴れて、夕月夜のうすくらがりの中に、「我せこをみやこにやりて塩がまの笆の島にまつぞわびしき」と歌に詠まれた籬が島もほど近い。蜑たちが小舟を連ねて港に戻ってきて、魚を分ける声に「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の網手かなしも」と読んだ源実朝の心も偲ばれてもののあわれを感じることひとしお。
その夜、盲目の琵琶法師たちの演ずる奥浄瑠璃というものを聴いた。平家琵琶でもなく、幸若舞でもない。ひなびた調子を寝ている枕近くで語るのでうるさくもあるのだが、こんな辺境に、忘れずに古来の伝統を残していることは殊勝なことだと感じ入った。
4. 象潟
江山水陸の風光数を尽くして、今象潟(きさかた)に方寸を責む。酒田の港より東北の方、山を越え、 磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、 雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の 晴色またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。
その朝、天よく霽(は)れて、 朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居 の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老い木、西行法師の 記念(かたみ)を残す。
江上に御陵(みささぎ)あり、神功后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。 この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の 中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、 道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越といふ。江の 縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。 寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何食ふ神祭 曾良
蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 低耳
岩上にみさごの巣を見る
波越えぬ契りありてやみさごの巣 曾良
現代語訳
海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。
象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。
太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。
暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。
次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。
まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。
それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。
水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。
この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。
南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。
北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。
寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。
象潟や雨に西施がねぶの花
(意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。蘇東坡(蘇拭)の詩「飲湖上初晴後雨(湖上に飲む、初め晴れ後雨ふる)」を踏まえる。「西湖をもって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃沫総て相宜し」 汐越や鶴はぎぬれて海涼し
(意味)汐越の浅瀬に鶴が舞い降りた。その脛が海の水に濡れて、いかにも涼しげだ。衣が短くすねが長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、まさに鶴はぎだなぁと感心した。
ちょうど熊野権現のお祭りに出くわした。
象潟や料理なに食ふ神祭り 曾良
(意味)熊野権現のお祭りにでくわす。海辺の象潟であるのに、熊野信仰によって魚を食べるのを禁じられ、何を食べるのだろうか。
蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳
(意味)漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台のかわりにして、夕涼みを楽しんでいる。風流なことだ。
岩の上にみさごが巣を作っているのを見て、
波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良
(意味)岩場の、いかにも波が飛びかかってきそうな危うい位置にみさごの巣がある。古歌に「末の松山波こさじとは」とあるが、強い絆で結ばれたみさごの夫婦なんだろう。
※ 蜑(あま)の苫屋:世の中はかくても経けり象潟の蜑の苫屋をわが宿にして(能因法師 後拾遺集)
(歌意)人の世というのは、こんなふうにしてもどうにか暮らせるものだったよ。象潟の海人の小屋を自分の住まいにして。
※飲湖上初晴後雨:
飲湖上初晴後雨(湖上に飲す初めは晴れ後に雨降る)
水光瀲艶晴方好 水光瀲艶(れんえん)として晴れてまさに好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛(くうもう)として雨も亦奇なり
欲把西湖比西子 西湖を把って西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧濃抹(たんしょうのうまつ)総べて相い宜し
訳) 晴れた日は光り輝く水の面
雨の日は 風情を添える霧の山
西湖を西施にたとうれば
派手な着物も美しく、地味な身なりもまた似合う
『大鏡』 上巻 六十七代三条天皇居貞
次の帝(みかど)、三条院と申(まう)す。これ、冷泉院(れいぜいゐん)の第二の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)超子(てうし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、貞元(ぢやうげん)元年丙子(ひのえね)正月三日、生まれさせ給(たま)ふ。寛和(くわんな)二年七月十六日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。同じ日、御元服(げんぶく)。御年十一。寛弘(くわんこう)八年六月十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年三十六。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと五年。
院にならせ給(たま)ひて、御目を御覧(ごらん)ぜざりしこそ、いといみじかりしか。
こと人(ひと)の見奉(たてまつ)るには、いささか変はらせ給(たま)ふこと御座(おは)しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座(おは)しましける。御まなこなども、いと清らかに御座(おは)しましける。
いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉(みす)の編諸(あみを)の見ゆる」なども仰(おほ)せられて。一品宮(いつぽんのみや)ののぼらせ給(たま)ひけるに、弁(べん)の乳母(めのと)の御供に候(さぶら)ふが、さし櫛(ぐし)を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰(おほ)せられけれ。
この宮をことのほかにかなしうし奉(たてまつ)らせ給(たま)うて、御髪(みぐし)のいとをかしげに御座(おは)しますを、さぐり申(まう)させ給(たま)うて、「かくうつくしう御座(おは)する御髪を、え見ぬこそ、心憂(こころう)く口惜(くちを)しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給(たま)ひけるこそ、あはれに侍(はべ)れ。
わたらせ給(たま)ひたる度(たび)には、さるべきものを、かならず奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。三条院の御券(ごけん)を持(も)て帰りわたらせ給(たま)うけるを、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「かしこく御座(おは)しける宮かな。幼き御心に、古反古(ふるほぐ)と思(おぼ)してうち捨てさせ給(たま)はで、持てわたらせ給(たま)へるよ」と興(きよう)じ申(まう)させ給(たま)ひければ、「まさなくも申(まう)させ給(たま)ふかな」とて、御乳母(めのと)たちは笑ひ申(まう)させ給(たま)ける。
冷泉院(れいぜいゐん)も奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候(さぶら)ふ所の、いまさらに私(わたくし)の領になり侍(はべ)らむは、便(びん)なきことなり。おほやけものにて候(さぶら)ふべきなり」とて、返し申(まう)させ給(たま)ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院(すざくゐん)の同じことに侍(はべ)るべきにこそ。
この御目のためには、よろづにつくろひ御座(おは)しましけれど、その験(しるし)あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風(かぜ)重く御座(おは)しますに、医師(くすし)どもの、「大小寒(だいせうかん)の水を御頭(みぐし)に沃(い)させ給(たま)へ」と申(まう)しければ、凍(こほ)りふたがりたる水を多くかけさせ給(たま)けるに、いといみじくふるひわななかせ給(たま)て、御色もたがひ御座(おは)しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参(まゐ)らせけるとぞ承(うけたまは)りし。
御病(やまひ)により、金液丹(きんえきたん)といふ薬(くすり)を召(め)したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病(や)む」など人は申(ま)ししかど、桓算供奉(くわんざんぐぶ)の御物(もの)の怪(け)にあらはれて申(まう)しけるは、「御首(くび)に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申(まう)したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍(はべ)りけれ。
御位(くらゐ)去らせ給(たま)しことも、多くは中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)はむとなり。さりしかど、のぼらせ給(たま)ひて、さらにその験(しるし)御座(おは)しまさざりしこそ、口惜(くちを)しかりしか。
やがておこたり御座(おは)しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。
されば、いとど山の天狗(てんぐ)のし奉(たてまつ)るとこそ、さまざまに聞(き)こえ侍(はべ)れ。
太奏(うづまさ)にも蘢(こも)らせ給(たま)へりき。さて仏の御前(おまへ)より東の廂(ひさし)に、組入(くみれ)はせられたるなり。
御鳥帽子(えぼうし)せさせ給(たま)ひけるは、大入道(おほにふだう)殿(どの)にこそ似奉(たてまつ)り給(たま)へりけれ。御心(こころ)ばへいとなつかしう、おいらかに御座(おは)しまして、世の人いみじう恋ひ申(まう)すめり。
「斎宮(さいぐう)下らせ給(たま)ふ別れの御櫛(みぐし)ささせ給(たま)ては、かたみに見返らせ給(たま)はぬことを、思(おも)ひかけぬに、この院はむかせ給(たま)へりしに、あやしとは見奉(たてまつ)りし物(もの)を」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。
現代語訳
次の帝は三条院と申し上げます。冷泉院の第二皇子でいらっしゃいます。御母は贈皇后宮超子と申し上げます。太政大臣兼家のおとどの、ご長女でいらっしゃいます。
三条天皇は貞観元年丙子(976)正月三日にお生まれになりました。寛和二年(986)七月十六日東宮にお立ちになります。同日、御元服。御歳十一歳でございました。寛弘八年(1011)六月十三日、三六歳で即位なさいました。世をお治めになられる事、五年。
その後、院におなりになりました。御目が見えなくなってしまったのは、たいそうお気の毒な事でございます。
他の人が帝のご様子を見申し上げましたところ、少しもおかしな所はありませんでしたので、目が見えないというのは嘘のように思われました。帝の瞳もたいへん美しかったのです。
どういう折にか、時々は見える事もございました。「御簾の編み目が見える」などとおっしゃられた事もございます。 一品の宮偵子内親王さまが帝の所へお出でになられた時、宮さまの乳母の、弁の乳母も一緒に参上いたしました。その弁が挿し櫛を左に挿していたので、帝は「弁よ、どうしてそんなにみっともなく櫛を挿しているのだね」とおっしゃられたのですから。
帝はこの宮を殊の外にかわいがられました。宮の御髪がとてもかわいらしくいらっしゃるのを指でお探りになられて、「このように美しくあられる御髪を見る事が出来ないなんて、何と辛く悲しい事であろう」とほろほろとお泣きになられました。とても、しみじみと感じ入る事でございます。
宮が帝へとお渡りになるときには、然るべきものを必ず宮にお差しあげになられました。宮が三条院の御所領の御券を持って帰ってお出でになったのを、入道道長殿が御覧になって、「頭の良い宮でございますな。まだお小さいのに、古いいらない紙だと思ってお捨てにならないで、持ってお戻りになられましたよ」と興味深そうに申し上げられました。「みっともないことをおっしゃいますこと」と、宮の乳母達は笑いました。
帝は冷泉院も宮に差し上げましたが、道長殿が「冷泉院は昔より天皇の御領でございます。今さら宮様の私領になりますのは具合の悪い事です。冷泉院は公のものであるのがよろしいでしょう」と申して、ご返却させなさいました。そもそも冷泉院は天皇の代々の伝領物であって、朱雀院と同じような物であるべきでしょう。
帝はこの御目のご病気のために、様々な治療をなさいました。しかし、その効果が現れる事がなかったのは、とてもおいたわしいことでございます。前々から御風を重く患っておられ、医師共が「小寒から大寒の間の水を、御髪におかけになって下さい」と申し上げたので、帝は氷の張った水をたくさんおかけになりました。ひどく震えわななかれ、お顔の色も真っ青になってしまったので、お付きの人々はとても切なく悲しく見守られたのだとお伺いしました。
このご病気のために金液丹という薬をお召し上がりになっていたので、「その薬を飲む人はこのように目を患うのだ」と申した人もおります。しかし、桓算という供奉僧が物の怪として現れ、申し上げたところによると「私が帝の御首に座って、左右の羽でお顔を覆っているので目が見えないのだ。そして、羽をばたつかせて動かすときに、帝は少しものごとを御覧になるのだ」と言う事でございますよ。
ご退位なさったのも、多くは比叡山の根本中堂にお登りになろうと思ったからでございます。それなのに帝が根本中堂にお出でになっても、少しもその効き目が現れなかったとは、何とくちおしい事でしょう。例えすぐに快方に向かわなくても、少しの効果はあって当然だったはずです。
そんなことがありますから、ますます山の天狗の仕業であると人々は噂したのですね。
帝は太秦の広隆寺にもおこもりになられました。それで、仏様の御前より東の廂の間には格天井が張られたのです。
御烏帽子をお召しになったお姿は、たいそう大入道兼家殿に似ていらっしゃいました。お心映えがとても親しみやすく、穏やかでいらっしゃる方なので、世の人はたいそう恋しく偲ばれたようでございます。
齋宮が伊勢にお向かいになるので、別れの御櫛を帝が挿す儀式の時、普通はお互いに振り向かない事になっているのに、「思いもよらずこの三条院さまは振り返られたので、奇妙だなと拝見したのですよ」と道長殿はおっしゃられました。
千載集(964)の周防内侍の歌の詞書
二月ばかり月明き夜 二条院にて人人あまた居明して物語りなどし侍りけるに 内侍周防寄り臥して 枕をがなと 忍びやかに言ふを聞きて 大納言忠家これを枕にとて腕を御簾の下より差し入れて侍りければ よみ侍りける
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
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現代語訳
夜更けまで人々が話しなどしている時に、内侍周防が物に寄りかかって横になっていました。周防が、ふと「枕が欲しいわ」とつぶやきました。耳にした藤原忠家が、「これを枕に」と自分の腕を御簾の下から差し入れてきました。それに対して詠んだ歌。
春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。
※周防の返事は「他人の噂になるような遊びに乗るつもりはありませんよ」 という、洒落た断り文句。大納言忠家は、藤原俊成の祖父にあたる高位の貴族です。地方役人の娘である周防とは身分が違います。あきらかに遊びで声を掛けてきたを分かる男へ、即興の歌ではぐらかします。“春の夜の夢”は、実際の“2月(春)の夜”と、“はかない実現性の無い夢”という意味を持たせています。“かいなく”は、“甲斐がない(それほどの値打ちもない)”と、差し出された“腕(かいな)”を掛けています。技巧を駆使した見事な句に、忠家は、こう返します。
契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき
(前世からの契りがあったので、春の夜更けにわたしたちはこうしてここにいます。御簾深く差し入れた手枕を、ただの春の夢にしてしまうのは、もったいないじゃないですか?)
無理矢理に関係を持たせようとするときの口説き文句です。“春の夜”や“かひなき”、“夢”など、周防の歌の句を使ったこちらも、技巧派の歌で返しています。雅な大人の恋の駆け引きでしょう。
奥の細道35 月山
八日、月山(がっさん)にのぼる。
木綿(ゆう)しめ身(み)に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(ごうりき)といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひょうせつ)を踏(ふみ)てのぼること八里(はちり)、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(い)るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身(み)こごえて頂上(ちょうじょう)にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕(まくら)として、臥(ふし)て明(あく)るを待(ま)つ。
日出(い)でて雲消(きゆ)れば湯殿(ゆどの)に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛治小屋(かじごや)といふあり。
この国の鍛治(かじ)、霊水(れいすい)をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔(つるぎ)を打(うち)、終(ついに)月山(がっさん)と銘(めい)を切(きっ)て世に賞(しょう)せらる。
かの龍泉(りゅうせん)に剣(つるぎ)を淬(にらぐ)とかや。
干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。
岩に腰(こし)かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅(おそ)ざくらの花の心わりなし。
炎天(えんてん)の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。
行尊僧正(ぎょうそんそうじょう)の哥(うた)の哀(あわ)れもここに思ひ出(い)でて、猶(なお)まさりて覚(おぼ)ゆ。
そうじてこの山中(さんちゅう)の微細(みさい)、行者(ぎょうじゃ)の法式(ほうしき)として他言(たごん)することを禁(きん)ず。
よりてて筆(ふで)をとどめて記(しる)さず。
坊(ぼう)に帰れば、阿闍利(あじゃり)のもとめによりて、三山(さんざん)順礼(じゅんれい)の句々(くく)短冊(たんじゃく)に書く。
涼(すず)しさや ほの三か月(みかづき)の 羽黒山(はぐろさん)
雲の峯(みね) 幾(いく)つ崩(くず)れて 月の山
語(かた)られぬ 湯殿(ゆどの)にぬらす 袂(たもと)かな
湯殿山(ゆどのさん) 銭(ぜに)ふむ道の 泪(なみだ)かな 曽良(そら)
現代語訳
八日、月山に登る。木綿注連を首に掛け、宝冠に頭を包み、強力という者に先導されて、雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした中を、氷雪を踏んで八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうかと思いながら、息絶え絶えに、冷え切った身体で頂上に到着すると、折から日が暮れて、既に出ていた月が鮮明となった。笹を敷き、まとめた篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待つ。朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った。
谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶、月山という人が、霊験のある水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。
岩に腰かけてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、つぼみを半分ほど開きかけていた。降り積もった雪の下に埋まりながら、春を忘れずに花を開こうとする遅ざくらの花の心は実に健気である。「炎天の梅花」が、ここに花の香を匂わしているようであり、行尊僧正のおもむき深い歌も思い出されて、いっそうしみじみとした思いに駈られた。
一般に、湯殿山の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。南谷の宿坊に帰ったのち、阿闍梨の求めに応じて、三山順礼の発句を短冊に書いた。
日の落ちた羽黒山に佇み、西の空を眺めれば、はるかな山のあたりに三日月が出ているよ。たちこめる山気の中に見る月は、神々しくさえ感じられることである。
昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、明かりに照らされた月の山が嫋(たお)やかに横たえているばかりであるよ。
いにしえより恋の山と聞こえた湯殿の里に分け入れば、語らず聞かずの幽谷の奥に尊き神秘を拝し、袂を濡らしたことであるよ。
湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている。こうした訳からだろうか、参道は、お賽銭を散り敷いたような有様であるよ。これを踏みつつお参りに上がると、かたじけない思いで涙がこぼれるのである。(曾良)
相模集から
仲春
なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫つませじ(相模集)
【通釈】何を思い煩うのです。何を歎くのです。春の野で、あなた以外の人に菫を摘ませたりしません。
【補記】自分自身を菫に譬え、男に対する一途な思いを強い調子で歌っている。治安三年(1023)、「はじめの春」から始めて四季歌と雑歌からなる百首歌。
子をねがふ
光あらむ玉の男子をのこご見てしがな掻き撫でつつも生おほしたつべき(相模集)
【通釈】光かがやく玉のような男の子をお授けくださいな。心から愛しみながら育てられるような男の子を。
【補記】夫の公資と共に任国の相模国に住んでいた作者は、治安三年(1023)正月、箱根権現に参詣し、百首歌を奉納した。夫との仲は思わしくなく、さまざまな悩みを抱えていた時期であった。その時の一首。
うれへをのぶ
いづれをかまづ憂へまし心にはあたはぬことの多くもあるかな(相模集)
【通釈】どれから最初に悩めばよいのか。心には、思い通りにゆかないことが、なんて沢山あるのだろうか。
【語釈】◇憂(うれ)へまし 心配しようか。「まし」は反実仮想の助動詞と呼ばれるが、このように疑問の助詞「か」と共に用いられた時は、迷いの気持を表わす。◇あたはぬこと 能わぬこと。なし得ぬこと。思うようにゆかぬこと。
【補記】これも上の歌と同じく箱根権現に奉納した百首歌。以下の三首も同様。
心のうちをあらはす(二首)
しのぶれど心のうちにうごかれてなほ言の葉にあらはれぬべし(相模集)
【通釈】いくら堪え忍んでも、思いというものは、心の中で動くのはとめられなくて、やっぱり言葉にあらわれてしまうものなのだろう。
【補記】単に内心を詠んだ、というのではなく、心と言葉の関係をめぐる省察そのものを歌にしている。以前の和歌になかった姿勢と言える。
手にとらむと思ふ心はなけれどもほの見し月の影ぞこほしき(相模集)
【通釈】手に取ろうと思う気持はないけれども、かすかに見た月の光が恋しくてならないのだ。
【補記】初句「てにとらむ」、第二句「と思(も)ふこころは」であって、初句が字余りなのではない。
ゆめ
いつくしき君が面影あらはれてさだかにつぐる夢をみせなむ(相模集)
【通釈】凜として美しいあなたの御姿が現れて、はっきりと良きことを告げる夢を見せてほしい。
【補記】同題の一つ前の歌「寝(ぬ)る魂(たま)のうちにあはせしよきことをゆめゆめ神よちがへざらなむ」からすると、「君」は神を指すか。前の歌と切り離して「君」を恋人と解すれば、恋人と逢う予知夢を願った歌とも取れる。この場合、「つぐる夢」とは「逢えることを予告する夢」の意であろう。
※平安中期を代表する女性歌人相模(さがみ)、その女房名は夫の大江公資(おおえのきんすけ きんより)が相模守(さがみのかみ)だったことに由来します。赴任する夫とともに相模に下って数年を過ごしていますが、その間に箱根権現(=箱根神社)に百首歌を奉納したことが家集『相模集』に記されています。
心ならずも東路(あずまじ)に下って三年も経ったので由緒あるところを見ておこうと箱根に詣でたとあり、信心ではなく観光気分で参詣したことがわかります。
時は治安(じあん)三年(1023年)正月。相模は旅宿でのつれづれに思いつくまま百首をしたため、「社のしたにうづませ」ました。寺社へ和歌を奉納するのはめずらしくありません。しかし相模の場合は、驚くべき展開が待っていました。その年の四月十五日、権現からの返事だといって百首の和歌が届けられたというのです。
宇治拾遺物語 巻第三 三三五 小式部内侍定頼卿の経にめでたる事
今は昔小式部内侍に定頼中納言物云ひ渡りけり それにまた時の関白通ひ給ひけり 局に入りて臥し給ひたりけるを知らざりけるにや中納言寄り来て敲きけるを局の人 かく とや云ひたりけん沓をはきて行きけるが少し歩みのきて経をはたと打あげて読みたりけり 二声ばかりまでは小式部内侍きと耳を立つるやうにしければこの入りて臥し給へる人 怪し と思しけるほどに少し声遠うなるやうにて四声五声ばかり行きもやらで読みたりける時 う と云ひてうしろざまにこそ伏し反りたれ
この入り臥し給へる人の さばかり堪へ難う恥かしかりし事こそなかりしか と後に述給ひけるとかや
現代語訳
昔、小式部内侍に、中納言・藤原定頼が情を交わしていた それにまた、時の関白・藤原教通も通っていた 局に入って、臥していたのを知らなかったのか、中納言がやって来て、戸を叩くので、局の人が しかじか と言ったのだろう、沓を履いて行ったが、少し歩み退き、経をいきなり声高に読みはじめた 二声ほどまでは、小式部内侍が、急に耳を立てるようにしたので、この入って臥していた人が あやしい と思っていると、少し声が遠くなるようで、四声五声ほど、行きもせず読んだ時 わっ と言って、後ろへのけぞり返ってしまった この入って臥していた人が あのときほど堪えがたく恥ずかしかったことはなかった と、後に語ったという
西行上人談抄
水もなく 見え渡る哉 大堰川 きしの紅葉は 雨とふれとも
此歌は、中納言定頼歌なり。一條院御時大堰川の行幸に、歌よませられける時、四條大納言わが歌はいかでありなん。中納言よくよめかしと思はれけるが、すでに此歌を、水もなく見えわたる哉大堰川とよみあげたるに、はや不覚してけりと顔の色を違えて思はれたるに。きしの紅葉は雨とふれどもとよみあげたりけるに、秀歌仕りて候けりといひて、顔の色出来てぞ思はれける。上句平懐なれども、かようによき歌もあり。
※一条天皇の大堰川行幸のお供で、定頼が歌を詠ませられた時のことです。大堰川は今の嵐山渡月橋付近から桂橋までの称で、今も紅葉の名所で有名です。
父である藤原公任も同席していました。一条天皇の大堰川行幸が何年だったかは不明ですが、一条天皇の崩御の1011年、定頼は16歳でしたので、行幸当時はもっと若く、父の公任は、巧く詠んでくれるとよいがと、さぞや気をもんだと思われます。定頼の歌が読み上げられます。
「大堰川の水も無く、見え渡ることよ」
公任は「早くも失敗している」と思い、顔色を失いました。大堰川の水は目の前に滔々と流れています。水も無く、とはとんでもないことです。続きが読み上げられます。
「岸の紅葉は、雨のように川面に降っているというのに」
公任、「秀歌を献上したことよ」と喜んで、顔色を取り戻しました。雨のように降り注ぐ紅葉の葉で、水も見えぬほどおおい尽くされた大堰川。「水もなく」の謎解きが、下の句でされました。一条天皇、公任を始めとして、同席した全ての人が、下の句を聞いて、あっと驚いたに違いありません。
『西公談抄』の著者、蓮阿の感想で、この話は締めてあります。「上の句はつまらないけれど、このようによい歌もある」と。
十八史略より 鶏鳴狗盗
靖郭(せいくわ)君田嬰(でんえい)なる者は、斉の宣王の庶弟なり。 薛(せつ)に封ぜらる。子有り(あり)文と曰ふ(いう)。 食客数千人。 名声諸侯に聞こゆ。 号して孟嘗君(まうしやうくん)と為す。 秦の昭王、其の賢を聞き、乃すなはち先づ質(ち)を斉に納(い)れ、もって見まみえんことを求む。 至れば則ち止め、囚へて之を殺さんと欲す。 孟嘗君人をして昭王の幸姫に抵いたり解かんことを求めしむ。 姫(き)曰はく、「願はくは君の狐白裘(こはくきう)を得ん」と。 蓋けだし孟嘗君、嘗もって昭王に献じ、他の裘(きゅう)無し。 客に能よく狗盗を為す者有り。 秦の蔵中(ぞうちゅう)に入り、裘を取りて姫に献ず。 姫為に言ひて釈(ゆる)さるるを得たり。 即ち馳せ去り、姓名を変じ夜半に函谷関に至る。 関の法、鶏鳴きて方に客を出だす。秦王の後に悔いて之を追はんことを恐る。 客に能く鶏鳴を為す者有り。 鶏尽ことごとく鳴く。遂に伝を発す。出でて食頃(しよくけい)にして、追う者果たして至るも及ばず。孟嘗君、帰りて秦を怨み、韓魏と之を伐ち函谷関に入る。秦城を割きて以て和す。
現代語訳
靖郭君田嬰(せいかくくん でんえい)という人は、斉(せい)の宣王(せんおう)の異母弟である。薛(せつ)に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文(ぶん)という。食客(しょくかく)は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君(もうしょうくん)と呼ばれた。秦の昭王(しょうおう)がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。
孟嘗君は配下に命じて、昭王の寵愛(ちょうあい)している姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘(こはくきゅう)がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて、狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関についた。
関所の法では、鶏が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、(孟嘗君が不安に思ってたとおりに)やはり追う者がやってきたが、追いつくことはできなかった。
孟嘗君は帰国すると秦をうらんで、韓(かん)・魏(ぎ)とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。
枕草子より
頭辨の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日御物忌なるにこもるべければ、丑になりなば惡しかりなん」とてまゐり給ひぬ。
つとめて、藏人所の紙屋紙ひきかさねて、「後のあしたは殘り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の聲に催されて」と、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし。御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷關を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の關の事なり」とあれば、
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ
心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。
立ちかへり、
逢阪は人こえやすき關なればとりも鳴かねどあけてまつとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき。後々のは御前にて、
「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。「さてその文は、殿上人皆見てしは」との給へば、實に覺しけりとは、これにてこそ知りぬれ。「めでたき事など人のいひ傳へぬは、かひなき業ぞかし。また見苦しければ、御文はいみじく隱して、人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、ひとしうこそは」といへば、「かう物思ひしりていふこそ、なほ人々には似ず思へど、思ひ隈なくあしうしたりなど、例の女のやうにいはんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ、よろこびをこそ聞えめ」などいふ。「まろが文をかくし給ひける、又猶うれしきことなりいかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞えん」などの給ひて、後に經房の中將「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。一日の文のついでに、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の譽めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにの給ふもをかし。「うれしきことも二つにてこそ。かの譽めたまふなるに、また思ふ人の中に侍りけるを」などいへば、「それはめづらしう、今の事のやうにもよろこび給ふかな」との給ふ。
現代語訳
頭の弁(=藤原行成)が、職の御み曹ぞう司しに参上なさって、お話などしていらっしゃった時に、(頭の弁が、)「夜もたいそう更けた。明日は天皇の物忌なので、(宮中に)こもらなければならないから、うしの刻こく(=午前二時ごろ)になってしまったら、(日付が変わって)よくないだろう。」と言って、(宮中へ)参内なさった。
翌朝、蔵人所の紙屋紙を折り重ねて、(頭の弁が、)「今日は、心残りが多い気することです。夜を通して、昔話も申し上げて夜を明かそうとしたのだが、鶏の声に催促されて(帰ってしまいました)。」と、たいそう多くのことをお書きになっているのは、実にみごとだ。ご返事に、(私が、)「たいそう夜深くに(鳴いて)ございました鶏の声は、孟嘗君の(食客による偽鶏の鳴きまねの)ことでしょうか。」と申し上げたところ、折り返し、(頭の弁から、)「孟嘗君の鶏は、函谷関を開いて、三千人の食客がかろうじて逃げ去った、と(漢籍に)あるけれども、これは(同じ関でも、愛し合う男女が逢うという方の)逢坂の関のことです。」とあるので、
(私は、)「夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねでだまそうとしても、(函谷関の関守ならばともかく、)この逢坂の関は、けっして許すことはないでしょう。
利口な関守がおります。」と申し上げる。
また折り返し、(頭の弁が、)
「逢坂は人が越えやすい関なので、鶏が鳴かなくても関の戸を開けて待つとか(いうことです)。」
と書いてあった手紙を、初めの手紙は僧都の君がたいそう額をついてまでも、お取りになってしまった。後の手紙は中宮様のところに。
ところで、逢坂(=逢坂は人超えやすき~)の歌は圧倒されて、返歌もできなくなってしまった。たいそうよろしくない。そして、(頭の弁が、)「(あなたが書いた)その手紙は殿上人がみな見てしまったよ。」とおっしゃるので、(私が、)「(あなたが私の事を)本当にお思いになっていたのだなあと、これで自然と分かりました。すばらしいことなどを、人に言い伝えないのは、かいのないことですものね。また、見苦しいことが(世間に)広まるのはつらいので、(あなたの)お手紙は、しっかりと隠して人にまったく見せてございません。(私とあなたの)お心配りの程度を比べると、等しいのでございましょう。」と言うと、(頭の弁は、)「このように物をわきまえて言うところが、やはり他の人とは違うように思われる。『(手紙の内容を人に見せるのは)思いやりがなく、悪いことをしてしまった』などと、普通の女性のように言うだろうと思った。」などと言って、お笑いになる。(私は、)「これはどうして(そのようなことをおっしゃるのでしょうか)。(恨み言を言うどころか、むしろ)お礼を申し上げましょう。」などと言う。(頭の弁は、)「(あなたが)私の手紙をお隠しになったのは、また、やはりしみじみとうれしいことであるよ。(もし、あなたが私の手紙を人に見せていたら、)どんなに不快でつらいことだっただろうか。これからも、そのように(あなたのご配慮を)頼みに思い申し上げよう。」などとおっしゃって、(その)後に、経房の中将がいらっしゃって、(経房の中将が、)「頭の弁がたいそう(あなたのことを)褒めなさっていることは知っているか。などと、真面目におっしゃるのも面白い。(私が、)「うれしいことが二つで、あの(頭の弁が)褒めなさるとかいうのに(加えて)、また、(あなたの)『思い人』の中に(私が)ございましたのを(知って)。」と言うと、(経房の中将は、)「それをめったにない、今初めて知ったことのようにお喜びになるなあ。」などとおっしゃる。
『古本説話集』九「伊勢大輔の歌の事」
今は昔、紫式部、上東門院に、うた読みいふものにて、さぶらふに、大斎院より、春つ方、「つれづれにさぶらふに、さりぬべきものがたりや候ふ」と、たづね申させ給ひければ、御そうしども、とりいださせ給ひて、「いづれをか、まゐらすべき」など、えりいださせ給ふに、むらさき式部、「みなめなれてさぶらふに、あたらしくつくりて、まゐらせ給へかし」と申しければ、「さらばつくれかし」とおほせられければ、源氏はつくりて、まゐらせたりけるとぞ。
いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにてさぶらふほどに、伊勢大輔まゐりぬ。それもうたよみのすぢなれば、殿、いみじうもてなさせ給ふ。ならより、としに一度、やへざくらををりて、もてまゐるを、紫式部、とりつぎてまゐらせなど、うたよみけるに、式部、「ことしは、大輔にゆづり候はむ」とて、ゆづりければ、とりつぎてまゐらするに、との、「遅し遅し」と仰せらるる御声につきて、
・いにしへの奈良都の八重桜けふここのへににほひぬるかな
とりつぎつるほどほどもなかりつるに、いつのまにおもひつづけけむと、人もおもふ、殿もおぼしめしたり。
めでたくてさぶらふほどに、ちじの中納言のこの、ゑちぜむのかみとて、いみじうやさしかりける人の妻に成りにけり。
現代語訳
今となっては昔のことですが、紫式部が、上東門院(彰子、一条天皇皇后)に、優れた歌人として仕えていたが、大斎院(選子内親王、当時、文化的なサロンを形成して趣味のよい貴婦人として知られていた)から、春のことで、「退屈でございますので、しかるべき(おもしろい)物語などございますか?」と、おたずねがありましたので、物語の草子など、お取り出しになって、(上東門院が)「どちら(の物語)を、(大斎院に)さしあげましょうか」などと、お選びになったとき、紫式部が、「みんな見慣れたものでございますから、新しく(物語を)作ってさしあげなさいませ。」と申し上げましたので、(上東門院は)「それなら(おまえが)作りなさい」とおっしゃっり、源氏物語を作って、さしあげたということです。
(紫式部は)いよいよ心づかいの優れた、すばらしい女房として(上東門院に)お仕えしているうちに、伊勢大輔が(上東門院に女房として)参上しました。彼女も歌人の家系なので、殿(上東門院の父、藤原道長)は、たいそう大切になさいました。奈良から、毎年一度、八重桜を折って、(上東門院に)持って参るのを、紫式部は、(桜を)とりついで(上東門院に)さしあげなどして(慣例として)、歌を詠んでいましたが、紫式部が、「ことしは、伊勢大輔に(歌を詠む役を)お譲りしましょう」と言って、譲りましたので、(桜を)とりついでさしあげるのに、殿(道長)が、「(歌を詠むのが)遅いぞ遅いぞ」とおっしゃるお声について、(伊勢大輔がこう詠んだ)
いにしへの奈良都の八重桜けふここのへににほひぬるかな
(古い奈良の都の八重桜が 今日 ここのえ(このあたり、と宮中の掛詞)に咲き匂っていることですね)
取り次ぐあいだの時間が(わずかしか)なかったのに、いつのまに(こんな歌を)思いついたのだろうと、(そこにいた)人も思い、殿(道長)もお思いになりました。
(彼女は)すばらしい女性だったので、おやめになった中納言の息子が、越前守になっていて、たいそう優しかった(趣味もよい)人の妻になったのでした。
sechin@nethome.ne.jp です。
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