瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝のNHKテレビよりニュース2つ その1→ 6時04分:鳩山総理大臣の政治資金をめぐる問題で、元公設秘書が資金管理団体の収支報告書に記載したうその収入の総額は、5年間で2億数千万円に上る疑いがあることが関係者への取材でわかりました。東京地検特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で捜査を進めています。/この問題は、鳩山総理大臣の資金管理団体「友愛政経懇話会」が、実際には献金していない人から寄付を受けたと政治資金収支報告書にうその内容を記載していたもので、東京地検特捜部は、会計事務を担当していた元公設秘書から事情を聞くなど捜査を進めています。「友愛政経懇話会」の収支報告書には、去年までの5年間で個人からの献金やパーティー券代などとして6億7000万円余りの収入があったと記載しています。しかし、関係者によりますと、うその記載があったとしてすでに訂正している平成17年から20年の個人からの献金2177万円に加え、16年の個人からの献金の一部、それに、この5年分の匿名の小口献金、1億7000万円余りの大半のあわせて2億数千万円については、元秘書がうその内容を記載していた疑いがあることがわかりました。元秘書は、事務所にある名刺や鳩山家に関係のある団体の名簿などから、勝手に名前を使って個人からの献金を装っていたということです。しかし、実際は、鳩山氏の口座から引き出した資金などが充てられたということです。元秘書が鳩山氏の口座から引き出した現金は1年間に平均でおよそ5000万円だったとされていますが、このうちどのくらいが、毎年、政治資金に使われていたのかやこのほかに使われた資金がないのかは、明らかになっていません。特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で、献金などを装った巨額の資金をどのようにねん出していたかなど解明を進めています。
その2→ 6時59分: 中東のイエメンで、今月15日に武装した地元の部族に連れ去られた日本人技術者の真下武男さん(63)が犯人グループから解放され、日本大使館に無事保護されました。/この事件は、イエメンの首都サヌアの郊外で今月15日、JICA=国際協力機構の支援事業に携わる技術者の真下武男さんが、銃で武装した地元部族によってイエメン人の運転手とともに連れ去られたものです。犯人側が刑務所に収監されている仲間の釈放を要求したのに対し、イエメン政府は、地元の有力者を仲介者にたて、真下さんらの解放に向けた交渉を続けてきました。その結果、真下さんは、日本時間の24日未明、犯人グループから解放され、現地時間の23日夜、日本時間の24日午前3時すぎサヌア州の州庁舎に到着しました。1週間以上も拘束されていた真下さんは、疲れた表情を見せていましたが、しっかりとした足取りで、州庁舎に入りました。このあと記者会見した真下さんは、まず英語で「交渉に尽力してくれた地元有力者のグループ、日本政府、日本大使館、イエメン政府の協力に感謝します。とてもうれしいです。どうもありがとうございました」と述べました。また日本語で「体は大丈夫です。ずっとシャワーに入れなかったので、シャワーを浴びたいです。拘束中は4畳半から6畳ほどの部屋にいて外に出られませんでした。無事解放され安心しています」と話しました。真下さんが解放された経緯やイエメン政府が犯人グループの要求を受け入れたかどうかなどは明らかにされていませんが、サヌア州のドゥワイド知事は、記者会見で「仲介者の努力に感謝している」と述べ、解放に向けた交渉では地元部族の有力者たちが仲介役として大きな役割を果たしたことを明らかにしました。ドゥワイド知事は、また「イエメンの発展に協力してくれている日本人の身にこうしたことが起こり、たいへん申し訳なく思う」と述べました。真下さんはこのあと日本大使館で健康状態のチェックを受けたあと、日本時間の24日夕方あらためて記者会見することにしています。(以上、ウェブニュースよりコピー掲載)
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
此処に掲げる阮籍の詩は、詠懐の序章のである。「訳:深夜眠るに眠られず、起き直ってひき琴をかき鳴らす。/薄い帳(とばり)にくっきり明月の影はうつり、清(すず)やかな風が衿元(えりもと)をなでる。/群れを離れた鴻(ひしくい)は野外に叫び、空翔ぶ鳥は北の林になく。/さまよいつつなにをみようとするのか。《中国古典文学大系「漢・魏・六朝詩集」に拠る》」
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
その2→ 6時59分: 中東のイエメンで、今月15日に武装した地元の部族に連れ去られた日本人技術者の真下武男さん(63)が犯人グループから解放され、日本大使館に無事保護されました。/この事件は、イエメンの首都サヌアの郊外で今月15日、JICA=国際協力機構の支援事業に携わる技術者の真下武男さんが、銃で武装した地元部族によってイエメン人の運転手とともに連れ去られたものです。犯人側が刑務所に収監されている仲間の釈放を要求したのに対し、イエメン政府は、地元の有力者を仲介者にたて、真下さんらの解放に向けた交渉を続けてきました。その結果、真下さんは、日本時間の24日未明、犯人グループから解放され、現地時間の23日夜、日本時間の24日午前3時すぎサヌア州の州庁舎に到着しました。1週間以上も拘束されていた真下さんは、疲れた表情を見せていましたが、しっかりとした足取りで、州庁舎に入りました。このあと記者会見した真下さんは、まず英語で「交渉に尽力してくれた地元有力者のグループ、日本政府、日本大使館、イエメン政府の協力に感謝します。とてもうれしいです。どうもありがとうございました」と述べました。また日本語で「体は大丈夫です。ずっとシャワーに入れなかったので、シャワーを浴びたいです。拘束中は4畳半から6畳ほどの部屋にいて外に出られませんでした。無事解放され安心しています」と話しました。真下さんが解放された経緯やイエメン政府が犯人グループの要求を受け入れたかどうかなどは明らかにされていませんが、サヌア州のドゥワイド知事は、記者会見で「仲介者の努力に感謝している」と述べ、解放に向けた交渉では地元部族の有力者たちが仲介役として大きな役割を果たしたことを明らかにしました。ドゥワイド知事は、また「イエメンの発展に協力してくれている日本人の身にこうしたことが起こり、たいへん申し訳なく思う」と述べました。真下さんはこのあと日本大使館で健康状態のチェックを受けたあと、日本時間の24日夕方あらためて記者会見することにしています。(以上、ウェブニュースよりコピー掲載)
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
此処に掲げる阮籍の詩は、詠懐の序章のである。「訳:深夜眠るに眠られず、起き直ってひき琴をかき鳴らす。/薄い帳(とばり)にくっきり明月の影はうつり、清(すず)やかな風が衿元(えりもと)をなでる。/群れを離れた鴻(ひしくい)は野外に叫び、空翔ぶ鳥は北の林になく。/さまよいつつなにをみようとするのか。《中国古典文学大系「漢・魏・六朝詩集」に拠る》」
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
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目高 拙痴无
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