瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
山濤(さんとう、205~283年)は、三国時代の魏及び西晋の文人。 姓は山、字は巨源。河内郡懐県(現在の河南省)の人。幼時に父の山曜を亡くしたために貧窮した生活を送った。老荘思想に耽って阮籍、嵆康らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、嵆康を朝廷に推薦したときに「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突きつけられた。しかし、嵆康の刑死の際には後に残す息子の行く末を託されたことからみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。曹爽(そう そう、? ~249年)の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿(しばい、179~251年)のクーデターで粛清されると再び出仕。264年、司馬昭が鍾会(しょうかい、225~264年)の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、鄴の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹子一族を鄴(ぎょう、大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県)に軟禁していた。山濤はその監視を任された(これは司馬昭の母方の祖母山氏が山濤の大叔母に当たったため、親戚として任命されたからである)。西晋代になって吏部尚書、太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。また、鍾会の讒言により殺された、嵆康の遺児である嵆紹(けいしょう、253~304年)らを推挙している。
世説新語・賢媛篇に曰く、《山公は嵆康・阮籍と一度あっただけで、金蘭のような交わりを結んだ。山公の妻の韓氏は、公と二人が尋常の交わりでないことをさとり、公に訊ねた。公は言った。「わしが一生のうちで友としてよいものは、ただこの二人だけだ」妻は言った。「*1負羈(ふき)の妻も、自分の目で狐偃(こえん)と趙衰(ちょうし)とを確かめたといいます。私もそっと見たいのですが、宜しいでしょうか?」/他日、二人がやって来た。妻は二人を泊めるように勧め、酒肉を調えた。夜になって、墉(かき)に穴を開け覗き込み、朝になるまで帰るのを忘れる有様であった。公は部屋に入ってきて訊ねた。「ふたりはどうだね」「あなたは、才能ではとても太刀打ちできません。もっぱら見識と度量とでつきあいなさいませ」/公は言った。「あの連中も、いつもわしの度量が勝れているのを認めているよ」》
註 *1 春秋時代の曹の国に、僖負羈(きふき)という者がいたが、諸国を放浪していた重耳(ちょうじ、後の晋の文公)が、臣下の狐偃と趙衰とを連れてその国を訪れた。そのとき僖負羈の妻は2人の従者を見て、公子を助けて天下の覇者にするであろうと予言した。
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目高 拙痴无
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