瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[445] [444] [443] [442] [441] [440] [439] [438] [437] [436] [435]
0d654fce.jpg
59435969.jpg 風邪っ気を理由に3日間の徘徊取り止め。風邪は完全に抜けた訳ではないが、久し振りに起き抜け徘徊に出掛ける。そろそろ6時になろうかというのにまだ暗い。隅田川沿いに北上、水神大橋を渡って、東白鬚公園にはいる。梅若橋南の木母寺前では冬場では珍しくラジオ体操が行われていた。木母寺前の紅葉が真っ赤に色づいているのでカメラに収めたが、ピンボケで使い物にならず。墨堤通りを南下して桜橋を渡り帰宅した。桜橋を渡っていると言問橋の方からアサヒビールのビルを照らす朝日を背に給油船が川を溯ってくる。橋下でスピードを緩めるところをみると、橋場の給油所に向うのであろう。本日の記録は10052歩、6.5㎞。

 山濤(さんとう、205~283年)は、三国時代の魏及び西晋の文人。 姓は山、字は巨源。河内郡懐県(現在の河南省)の人。幼時に父の山曜を亡くしたために貧窮した生活を送った。老荘思想に耽って阮籍、嵆康らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、嵆康を朝廷に推薦したときに「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突きつけられた。しかし、嵆康の刑死の際には後に残す息子の行く末を託されたことからみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。曹爽(そう そう、? ~249年)の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿(しばい、179~251年)のクーデターで粛清されると再び出仕。264年、司馬昭が鍾会(しょうかい、225~264年)の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、鄴の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹子一族を鄴(ぎょう、大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県)に軟禁していた。山濤はその監視を任された(これは司馬昭の母方の祖母山氏が山濤の大叔母に当たったため、親戚として任命されたからである)。西晋代になって吏部尚書、太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。また、鍾会の讒言により殺された、嵆康の遺児である嵆紹(けいしょう、253~304年)らを推挙している。
f8e986be.JPG 世説新語・政事篇に曰く、《山公は人物だというので朝廷で声望高く、七十歳を越えながら、まだ時の政治の重要な任務に就いていた。貴族の青年たち、たとえば和(嶠)や裴(楷)や王(済)といった連中はみなそろって山公を尊び謳歌した。そこである者が役所の柱に書き付けた。閣東に大牛あり、和嶠は鞅(むながい)をあて、裴楷は鞦(しりがい)をつけ、王済は剔嬲(てきどう)して、休むを得ず」/一説では、これは潘尼(はんじ)の作であるという》また、曰く《山司徒がこれまでに行ってきた選考は、ほとんど百官のすべてにゆきわたり、その推挙で人材を見誤ったものはなかった。かれが推挙の際につけた人物評も、すべてその言葉通りに正しいものであった。ただ、陸亮(りくりょう)を登用したのは詔勅に従ったものであり、山公の意見とちがっていたので、反対したけれども従われなかった。その陸亮も、やがて収賄のため失脚した。》さらに曰く、《嵆康が誅を受けて後、山公は嵆康の子の紹を秘書丞に推挙した。紹が山公に自分が官職につくべきかどうかを相談すると、公はいった。「わしは君のためにずっと前からそのことを考えていたのだよ。天地四時にさえ陰陽の盛衰がある。まして人間の場合はなおさらだ」》
 世説新語・賢媛篇に曰く、《山公は嵆康・阮籍と一度あっただけで、金蘭のような交わりを結んだ。山公の妻の韓氏は、公と二人が尋常の交わりでないことをさとり、公に訊ねた。公は言った。「わしが一生のうちで友としてよいものは、ただこの二人だけだ」妻は言った。「*1負羈(ふき)の妻も、自分の目で狐偃(こえん)と趙衰(ちょうし)とを確かめたといいます。私もそっと見たいのですが、宜しいでしょうか?」/他日、二人がやって来た。妻は二人を泊めるように勧め、酒肉を調えた。夜になって、墉(かき)に穴を開け覗き込み、朝になるまで帰るのを忘れる有様であった。公は部屋に入ってきて訊ねた。「ふたりはどうだね」「あなたは、才能ではとても太刀打ちできません。もっぱら見識と度量とでつきあいなさいませ」/公は言った。「あの連中も、いつもわしの度量が勝れているのを認めているよ」》
 註 *1 春秋時代の曹の国に、僖負羈(きふき)という者がいたが、諸国を放浪していた重耳(ちょうじ、後の晋の文公)が、臣下の狐偃と趙衰とを連れてその国を訪れた。そのとき僖負羈の妻は2人の従者を見て、公子を助けて天下の覇者にするであろうと予言した。

この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新コメント
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[爺 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/