瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
嵆康(けいこう、224~262or263年)は、三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。字は叔夜(しゅくや)。譙国銍(しょうこくちつ、現在の安徽省宿州市)の人。曹操(155~220年)の曽孫の長楽亭を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。子に嵆紹(253~304年)がいる。非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の山濤(205~283年)が自分の後任に嵆康を吏部郎に推薦した時には「与山巨源絶交書」(『文選』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に息子の嵇紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
「訳:幽憤の詩 嵆康/ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった/成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾らぬを志し 本質をつちかい真実を貫こうとした/だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く *1子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 昔の人では*2柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では*3孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う かくして*4厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた/ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい事に巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ/雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ *5万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう/光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 遅きを恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ ―― 平凡社刊、中国古典文学大系に拠る」
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
「訳:幽憤の詩 嵆康/ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった/成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾らぬを志し 本質をつちかい真実を貫こうとした/だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く *1子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 昔の人では*2柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では*3孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う かくして*4厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた/ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい事に巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ/雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ *5万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう/光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 遅きを恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ ―― 平凡社刊、中国古典文学大系に拠る」
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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