瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
阮咸(げんかん、生卒年不詳)は、竹林の七賢の一人。字は仲容。三国時代の魏および西晋の文人。陳留郡尉氏県(いしけん、河南省開封市)の人。魏の武都太守・阮熙の子であり、步兵校尉・阮籍の従子に当たる。阮瞻(げんせん)、阮孚(げんふ)の父である。竹林の七賢中では、存命中の事跡が非常に少なく、『世説新語』『新書』及び唐宋代の類書中に見えるのみである。その年齢は王戎(おうじゅう)に比較してやや年長であり、竹林の七賢中で二番目に年少である。若くして叔父の阮籍と共に飲酒宴遊した。散騎侍郎に任じられたが、西晋の時代、山濤が阮咸を吏部郎に推挙した時、武帝(司馬炎)は、その虚浮の談を尊び、飲酒の度が過ぎることを理由に用いなかった。阮咸は、その人となりが放誕で、礼法に拘らず、当時の儒士に誹謗された。また、琵琶を善くし、音律に精通していた。そこから、阮咸が亀玆(クチャ)伝来の琵琶を改造した、という説が生まれ、後世にはまた、その琵琶を阮咸と呼んだ。略称は阮。後に、荀勗(じゅんきょく、?~289年)荀に憎まれて、始平太守(しへいたいしゅ)に出されたので、後人は彼を阮始平と称した。後に長寿によって没した。楽器の阮咸は、正倉院に伝わっている。唐代の作で、通常の琵琶とは異なり、胴の部分が円形をしている。弦は4弦。秦制と漢制を併せて作られているので、秦琵琶、秦漢子の別称がある。
世説新語・賞譽篇に曰く、《山公(山濤)は阮咸を吏部郎に推挙しようとし、評語を書いた。「清らかで真実があり、寡欲である。いかなるものも彼の心を動かすことは出来ない」》また、術解篇に曰く、《荀勗(じゅんきょく)はよく音楽を解したので、当時の人々は天才的な理解力の持ち主であると評判した。ついには律呂(十二の音階があり、これを陰陽に二分し陽の六を律、陰の六を呂という)の音階を整え、雅楽の在り方を正すまでになり、朝廷の儀式に殿庭で音楽を演奏するたびに、自分で宮商(五音のこと。宮・商・角・徴・羽であるが、ここでは宮・商で音階のすべてを代表させている)の音階をととのえたが、いずれも韻律にかなわないものはなかった。/阮咸は音楽のすぐれた鑑賞家で、当時の人々は絶妙な鑑賞力の持ち主であると評判していた。いつも朝廷の会合で音楽が演奏されるたびに、心中それが音階にかなっていないものと思っていた。しかし、それについて一言も口に出さなかったので、荀勗は内心これを憎み、そのため阮咸を始平太守に転出させてしまった。/のち一農夫が野で耕していたところ、周代の玉製の尺を発見した。これこそ天下の標準となる正尺であった。荀勗は試みに自分が調整した鐘や太鼓をはじめ、金・石・糸・竹などで作った様々な楽器について測定してみたところ、みな粟粒一つ分だけ短いことに気付いた。そこで始めて阮咸の絶妙な鑑識力に敬服した。》さらに、任誕篇には次のような逸話が載せられている。
①《阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)とは道路の南側に住み、他の阮氏は道路の北側に住んでいた。北の阮氏はみな富裕だったが、南の阮氏は貧乏だった。七月七日には、北の阮氏は盛大な衣装の虫干しをした。どれも薄絹や錦のきらびやかなものばかりである。阮仲容は竿の先に大きな布の犢鼻褌(ふんどし)をぶら下げ、家の中庭に立てた。ある人が怪しんで訊ねると、答えて言った。「未だ俗を免るる能わず、聊か復た爾るのみ(まだ俗気から抜け切ることができないので、ちょっとこうやってみたまでさ)」》 ②《阮氏の一族はみなよく酒を飲んだ。阮仲容は一族の処へ言って集会を開くときには、ありきたりの盃でやりとりせず、大きな甕(かめ)に酒を盛り、車座になって向かい合いながらぐいぐいとやった。あるとき豚の群れが酒を飲みにやってきた。阮仲容は構わず迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。》 ③《阮仲容は以前から姑(おば)の家の鮮卑(せんぴ)の侍女を寵愛していたが、そののち母の喪に服していたところ、姑が遠方へ移ることになった。初めはその侍女を残しておくといっていたが、いざ出発となると、これはしたり、連れて行くと言うのである。阮仲容は喪服をつけたまま、客の驢馬(ろば)を借りて追いかけ、馬を連ねて帰ってきたが、つぶやいた。「子だねは絶やしてはいけないよ」その鮮卑の侍女は阮遥集(阮孚)の母である。》
世説新語・賞譽篇に曰く、《山公(山濤)は阮咸を吏部郎に推挙しようとし、評語を書いた。「清らかで真実があり、寡欲である。いかなるものも彼の心を動かすことは出来ない」》また、術解篇に曰く、《荀勗(じゅんきょく)はよく音楽を解したので、当時の人々は天才的な理解力の持ち主であると評判した。ついには律呂(十二の音階があり、これを陰陽に二分し陽の六を律、陰の六を呂という)の音階を整え、雅楽の在り方を正すまでになり、朝廷の儀式に殿庭で音楽を演奏するたびに、自分で宮商(五音のこと。宮・商・角・徴・羽であるが、ここでは宮・商で音階のすべてを代表させている)の音階をととのえたが、いずれも韻律にかなわないものはなかった。/阮咸は音楽のすぐれた鑑賞家で、当時の人々は絶妙な鑑賞力の持ち主であると評判していた。いつも朝廷の会合で音楽が演奏されるたびに、心中それが音階にかなっていないものと思っていた。しかし、それについて一言も口に出さなかったので、荀勗は内心これを憎み、そのため阮咸を始平太守に転出させてしまった。/のち一農夫が野で耕していたところ、周代の玉製の尺を発見した。これこそ天下の標準となる正尺であった。荀勗は試みに自分が調整した鐘や太鼓をはじめ、金・石・糸・竹などで作った様々な楽器について測定してみたところ、みな粟粒一つ分だけ短いことに気付いた。そこで始めて阮咸の絶妙な鑑識力に敬服した。》さらに、任誕篇には次のような逸話が載せられている。
①《阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)とは道路の南側に住み、他の阮氏は道路の北側に住んでいた。北の阮氏はみな富裕だったが、南の阮氏は貧乏だった。七月七日には、北の阮氏は盛大な衣装の虫干しをした。どれも薄絹や錦のきらびやかなものばかりである。阮仲容は竿の先に大きな布の犢鼻褌(ふんどし)をぶら下げ、家の中庭に立てた。ある人が怪しんで訊ねると、答えて言った。「未だ俗を免るる能わず、聊か復た爾るのみ(まだ俗気から抜け切ることができないので、ちょっとこうやってみたまでさ)」》 ②《阮氏の一族はみなよく酒を飲んだ。阮仲容は一族の処へ言って集会を開くときには、ありきたりの盃でやりとりせず、大きな甕(かめ)に酒を盛り、車座になって向かい合いながらぐいぐいとやった。あるとき豚の群れが酒を飲みにやってきた。阮仲容は構わず迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。》 ③《阮仲容は以前から姑(おば)の家の鮮卑(せんぴ)の侍女を寵愛していたが、そののち母の喪に服していたところ、姑が遠方へ移ることになった。初めはその侍女を残しておくといっていたが、いざ出発となると、これはしたり、連れて行くと言うのである。阮仲容は喪服をつけたまま、客の驢馬(ろば)を借りて追いかけ、馬を連ねて帰ってきたが、つぶやいた。「子だねは絶やしてはいけないよ」その鮮卑の侍女は阮遥集(阮孚)の母である。》
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