瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
風邪がぶり返したらしい。咽喉がいがいが、洟水たらたら、徘徊は取りやめる。
本日のウェブニュースに曰く、《「真実追求、将来に有益」沖縄密約証言の元局長 ―― 1972年の沖縄返還を巡る「密約」の存在を、当時の外務省局長が公の場で証言した。東京地裁で1日、開かれた情報公開訴訟の法廷。吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)と、密約の存在を訴え続けていた原告の元毎日新聞記者・西山太吉さん(78)が約37年ぶりに法廷で顔を合わせた。/ 証人尋問が行われたのは同地裁の103号法廷。吉野氏がいったん法廷を出ようとしたとき、原告席にいた西山さんが立ち上がってがっちりと握手し、笑顔で吉野氏の肩をたたいた。/吉野氏は、西山さんが約37年前、国家公務員法違反に問われた同じ東京地裁の公判で証人として出廷し、密約の存在を否定していた。この日の尋問後、東京・霞が関の司法記者クラブで開かれた記者会見で西山さんは、「法廷という厳正な場所で証言してくれた。相当の覚悟があってのことで、信ぴょう性を高く評価している」と感慨深げに話した。/一方、吉野氏も尋問後の記者会見で、「西山さんがたくさんの時間をかけて裁判に挑んでおり、信念の強さに感心していた」と評価。報道機関の取材に対して密約の存在を認めてきたが、法廷で証言した理由について問われると、「過去の真実を追求することが、日本の将来のために有益と信じるようになった。歴史を忘却したり歪曲(わいきょく)したりすると、歴史を作る国民にとってマイナスになることが大きい」と話した。/この日午後開かれた口頭弁論では、吉野氏が駐日米公使との間で、沖縄返還協定などで米側が支払うとされていた米軍使用地の原状回復補償費400万ドルと米短波放送中継局の国外への移転費1600万ドルを日本側が肩代わりすると、秘密裏に合意したと証言。局長室で公使と会い、合意文書に「BY」と、イニシャルで署名したことも認めた。/補償費の合意文書の作成経緯については「公使から、米議会から追及された場合に説得するためと要請された」と説明。文書の写しは、「日本側の立場では必要はないので処分したと思う」と述べた。(2009年12月2日09時59分 読売新聞)》
王戎(おうじゅう、234~305年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏、晋に仕えた。字は濬沖(しゅんちゅう)。徐州瑯邪(ろうや)郡臨沂(りんぎ)県(山東省臨沂市)の出身(瑯琊王氏)。祖父は幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた王雄(507~564年)、父は涼州刺史を務めた王渾(生没年不詳、王渾玄沖とは別人)。従弟に王衍。子に王万、王興、娘『晋書』に伝がある。幼いときはその神童ぶりに定評があり、曹叡(206or204~239年、明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父の王渾とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。涼州刺史であった父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問におとずれたが、王戎は付け届けの類をすべて受け取らず、名声を高めた。王戎は体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼にこだわることはなくなった。話し好きで知られ、酒をたしなみながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐におもむく鍾会(225~264年)に相談を持ちかけられた際に、道家の言葉を引きつつ語った発言は鍾会の運命を見通したものであったため、識者に評価された。父の爵位を継ぎ、司馬昭(211~265年、晋の太祖文帝)の招聘を受けて以降、魏、晋で官職を歴任することになる。相国の縁から吏部黄門、散騎常侍、河東太守、荊州刺史と出世を重ねたが、荊州刺史のときに役人を私的な用事に使ったために免職となりそうだったのを、罰金で済まされた。その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。279年からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、呉の武昌(現在の武漢氏武昌)に侵攻して王濬(おうしゅん、206~285年)と共に呉を滅亡に追い込む武功を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いもかけられた。武帝(236~290年、司馬炎)はそれを庇っている。『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで上ったとしている。光録大夫・吏部尚書まで官職が上ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、母に対して親孝行であったために、見る見るうちにやつれていった。その様は劉毅(?~285年)に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は王戎に薬を与え医者にかからせた。武帝の没後、外戚の楊駿(ようしゅん、?~291年)が実権を握ると、太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇((?~304年)が勝手な振る舞いをしたためこれを諌めた。司馬繇はまもなく罪を得て失脚した。王戎は光禄大夫、中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。王戎がそれでも地位を保てたのは外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。297年、官位はついに三公である司徒まで上ったが、300年に娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も政府の要職にあったに関わらず八王の乱(西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱)の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかったが、それゆえ殺害されることもなかった。305年没。子の王万は若死し、王興は庶子であったため家に入れず、縁戚の者に跡を継がせた。
幼い頃から「神童」と呼ばれ、回りからちやほやされて育った王戎――若い頃から阮籍らと交流をしていくうちに、彼らを理想とし、将来は自分も隠遁生活を送りたいと思っていただろう。ところが現実はそう甘いものではない。仲間の一人、嵆康が処刑されてしまった。王戎は嵆康にも強い憧れを抱いていたと思われる。その嵆康は、自分の意志を貫き通したばかりに処刑されるという憂き目に遭った。それを目の当たりにした王戎は戸惑い、同時に世の中の厳しさを改めて思い知る。そして、阮籍も嵆康の死後一年でこの世を去る。人生の師とも言うべき二人を失った王戎は、その後全く生き方を変え、自分なりの韜晦(とうかい)法として吝嗇(りんしょく)を選んだ。王戎が吝嗇という道を選んだのはなぜだろうか。古今を通じて様々な人がその理由を論じてきたらしい。
《王戎の利殖行為と極端な物惜しみについては、当時からさまざまな見方があった。/曰く、「王戎を三公として仰ぐには、どうも重みが足りない」/曰く、「わざとああやって、韜晦しているのさ」/曰く、「王戎は晋朝の危機の時代を韜晦することでやりすごした。明哲保身の道といっていい」/ 曰く、「重臣の身で、そんな態度が許されるものか」(『三国志Ⅴ 不服従の思想』に拠る)》
本日のウェブニュースに曰く、《「真実追求、将来に有益」沖縄密約証言の元局長 ―― 1972年の沖縄返還を巡る「密約」の存在を、当時の外務省局長が公の場で証言した。東京地裁で1日、開かれた情報公開訴訟の法廷。吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)と、密約の存在を訴え続けていた原告の元毎日新聞記者・西山太吉さん(78)が約37年ぶりに法廷で顔を合わせた。/ 証人尋問が行われたのは同地裁の103号法廷。吉野氏がいったん法廷を出ようとしたとき、原告席にいた西山さんが立ち上がってがっちりと握手し、笑顔で吉野氏の肩をたたいた。/吉野氏は、西山さんが約37年前、国家公務員法違反に問われた同じ東京地裁の公判で証人として出廷し、密約の存在を否定していた。この日の尋問後、東京・霞が関の司法記者クラブで開かれた記者会見で西山さんは、「法廷という厳正な場所で証言してくれた。相当の覚悟があってのことで、信ぴょう性を高く評価している」と感慨深げに話した。/一方、吉野氏も尋問後の記者会見で、「西山さんがたくさんの時間をかけて裁判に挑んでおり、信念の強さに感心していた」と評価。報道機関の取材に対して密約の存在を認めてきたが、法廷で証言した理由について問われると、「過去の真実を追求することが、日本の将来のために有益と信じるようになった。歴史を忘却したり歪曲(わいきょく)したりすると、歴史を作る国民にとってマイナスになることが大きい」と話した。/この日午後開かれた口頭弁論では、吉野氏が駐日米公使との間で、沖縄返還協定などで米側が支払うとされていた米軍使用地の原状回復補償費400万ドルと米短波放送中継局の国外への移転費1600万ドルを日本側が肩代わりすると、秘密裏に合意したと証言。局長室で公使と会い、合意文書に「BY」と、イニシャルで署名したことも認めた。/補償費の合意文書の作成経緯については「公使から、米議会から追及された場合に説得するためと要請された」と説明。文書の写しは、「日本側の立場では必要はないので処分したと思う」と述べた。(2009年12月2日09時59分 読売新聞)》
王戎(おうじゅう、234~305年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏、晋に仕えた。字は濬沖(しゅんちゅう)。徐州瑯邪(ろうや)郡臨沂(りんぎ)県(山東省臨沂市)の出身(瑯琊王氏)。祖父は幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた王雄(507~564年)、父は涼州刺史を務めた王渾(生没年不詳、王渾玄沖とは別人)。従弟に王衍。子に王万、王興、娘『晋書』に伝がある。幼いときはその神童ぶりに定評があり、曹叡(206or204~239年、明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父の王渾とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。涼州刺史であった父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問におとずれたが、王戎は付け届けの類をすべて受け取らず、名声を高めた。王戎は体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼にこだわることはなくなった。話し好きで知られ、酒をたしなみながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐におもむく鍾会(225~264年)に相談を持ちかけられた際に、道家の言葉を引きつつ語った発言は鍾会の運命を見通したものであったため、識者に評価された。父の爵位を継ぎ、司馬昭(211~265年、晋の太祖文帝)の招聘を受けて以降、魏、晋で官職を歴任することになる。相国の縁から吏部黄門、散騎常侍、河東太守、荊州刺史と出世を重ねたが、荊州刺史のときに役人を私的な用事に使ったために免職となりそうだったのを、罰金で済まされた。その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。279年からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、呉の武昌(現在の武漢氏武昌)に侵攻して王濬(おうしゅん、206~285年)と共に呉を滅亡に追い込む武功を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いもかけられた。武帝(236~290年、司馬炎)はそれを庇っている。『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで上ったとしている。光録大夫・吏部尚書まで官職が上ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、母に対して親孝行であったために、見る見るうちにやつれていった。その様は劉毅(?~285年)に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は王戎に薬を与え医者にかからせた。武帝の没後、外戚の楊駿(ようしゅん、?~291年)が実権を握ると、太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇((?~304年)が勝手な振る舞いをしたためこれを諌めた。司馬繇はまもなく罪を得て失脚した。王戎は光禄大夫、中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。王戎がそれでも地位を保てたのは外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。297年、官位はついに三公である司徒まで上ったが、300年に娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も政府の要職にあったに関わらず八王の乱(西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱)の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかったが、それゆえ殺害されることもなかった。305年没。子の王万は若死し、王興は庶子であったため家に入れず、縁戚の者に跡を継がせた。
幼い頃から「神童」と呼ばれ、回りからちやほやされて育った王戎――若い頃から阮籍らと交流をしていくうちに、彼らを理想とし、将来は自分も隠遁生活を送りたいと思っていただろう。ところが現実はそう甘いものではない。仲間の一人、嵆康が処刑されてしまった。王戎は嵆康にも強い憧れを抱いていたと思われる。その嵆康は、自分の意志を貫き通したばかりに処刑されるという憂き目に遭った。それを目の当たりにした王戎は戸惑い、同時に世の中の厳しさを改めて思い知る。そして、阮籍も嵆康の死後一年でこの世を去る。人生の師とも言うべき二人を失った王戎は、その後全く生き方を変え、自分なりの韜晦(とうかい)法として吝嗇(りんしょく)を選んだ。王戎が吝嗇という道を選んだのはなぜだろうか。古今を通じて様々な人がその理由を論じてきたらしい。
《王戎の利殖行為と極端な物惜しみについては、当時からさまざまな見方があった。/曰く、「王戎を三公として仰ぐには、どうも重みが足りない」/曰く、「わざとああやって、韜晦しているのさ」/曰く、「王戎は晋朝の危機の時代を韜晦することでやりすごした。明哲保身の道といっていい」/ 曰く、「重臣の身で、そんな態度が許されるものか」(『三国志Ⅴ 不服従の思想』に拠る)》
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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