瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 本夕は塾友の忘年会。徘徊は取り止め。
b377edbf.JPG 「普天間」越年、小沢氏の影=連立優先に首相逆らえず ―― 鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場移設問題の年内決着を断念した背景には、来年の通常国会や参院選を見据え、連立相手の社民党に配慮する小沢一郎民主党幹事長の意向があった。日米関係より連立を優先し、基地問題を政局と絡めたことで、決着への道筋は一層不透明となってきた。/「政策の話のつもりかもしれないが、政局になって困るのはあんたらだ」。/先月30日午後、参院本会議散会後の国会。社民党の又市征治副党首は小沢氏に近い民主党の輿石東参院議員会長に対し、普天間問題の結論を先送りさせなければ、連立政権からの離脱も辞さないと迫った。社民党の姿勢に危機感を抱いた輿石氏は「その通り。何であんなに急ぐ必要があるのか」と、年内決着への流れをつくりつつあった政府への不満を示し、小沢氏に直接電話するよう促した。/又市氏からの電話に、小沢氏は最初「内閣の話なんだから、中で福島(瑞穂社民党党首)さんが頑張ればいい」と、政策課題からは距離を置く姿勢を示した。しかし、又市氏が「これは連立の問題なんだから、あんたがやらなきゃいかん」と調整を求めると、小沢氏は「分かった、分かった」と応じたという。/同じころ、首相官邸で開かれた基本政策閣僚委員会では、福島氏が「(名護市の)辺野古沿岸部に基地を造ることにはきっぱり反対する」と表明。国民新党の亀井静香代表も「3党連立で決めないと、社民党は離脱するよ」と加勢した。平野博文官房長官は「3党を飛び越えて決めることは絶対にありません」と約束せざるを得なかった。/この日の夜、輿石氏は同じ「参院民主党」の北沢俊美防衛相を食事に誘った。普天間問題の年内決着を目指していた北沢氏に、輿石氏は小沢氏の意向を踏まえて「年内に慌てて決めることはない。無理してもろくなことはない」とクギを刺した。/翌1日、首相は官邸に岡田克也外相と北沢氏を呼び、平野氏を交えて対応を協議した。平野氏が前日の基本政策閣僚委での福島、亀井両氏の強硬姿勢を伝えると、北沢氏は「連立政権が壊れるようなことがあってはならない」と発言。突然の方針転換の裏に小沢氏の影を感じたのか、首相は異論を挟まず、年内決着見送りが事実上決まった。/民主党は参院での単独過半数獲得に向け、通常国会で子ども手当などの重点政策を実現させた上で、参院選に臨むのが基本戦略だ。だが、社民党が連立を離脱すれば、与党は参院で過半数割れとなるばかりか、衆院での法案再可決もできなくなり、鳩山政権はたちまち窮地に陥る。/「参院選までは辛抱だ」。民主党幹部はこう語り、小沢氏が当面、そうした危険を冒すような選択をすることはないと強調した。(jijicom、2009/12/04-22:51)

 世説新語にある王戎の逸話をもう少し書き写すことにする。任誕篇第二十三に曰く、《裴成公(258~291年、裴頠)の妻は王戎の娘である。王戎は朝早く裴成公の家を訪れ、案内を請わないでそのまま入り込んだ。裴成公は寝台の南側から下り、娘は北側から下りて、王戎と向かい合って主客の挨拶をしたが、悪びれた様子は全くなかった。14》
 王戎の父・王渾(おうこん、生没年不詳)と阮籍とは共に尚書郎を務めたことがあり、友人同士だった。阮籍はしばしば王渾の所へ行ったが、王渾の所へはほんの少しだけいて「君と話すより戎君と話すほうがよい」と言い、王戎の部屋へ行ってはいつも長居して、日が暮れてから帰ったという。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。やがて王戎は阮籍と共に竹林の遊びに加わるようになった。だが、まだ若い王戎は世俗を超越することができていなかったらしい。排調篇第二十五に曰く、《嵆康、阮籍、山濤、劉伶が竹林で盛んに酒を飲んでいた。そこへ王戎が遅れてやってきた。歩兵(阮籍)はいった。「俗物めがまたぞろやってきて、人の気分をぶちこわしおる」王戎は笑っていった。「君たちの気分は、やはりぶち壊せるていどのものだったのか」4》
84a1d162.JPG 王戎の晩年ははろくなものも食べず、家計は豊かであったのに質素な生活をしていて、ありあまる財宝も使わずひたすら貯蓄にはげみ、それでもなお足りない様子だったという。しかし、王戎は根っからの吝嗇漢ではなく、他の六人と同じようにもともと財産には執着しない性質であった。その王戎が、ある時を境に突然別人のように吝嗇漢になった。今までの王戎を知る人々はその変貌ぶりに驚き戸惑ったことだろう。だが、これが王戎なりの韜晦法であり処世術であったのだともいえる。王戎は保身のためにわざと吝嗇を装ったのであろう。倹嗇篇第二十九には9つの逸話を載せるが、そのうち4つが王戎に纏わるものである。《王戎はけちんぼだった。自分の従子(おい)が結婚するとき、単(ひとえ)の着物を一枚やったが、あとで改めて代金を請求した。2》《司徒の王戎は、地位も高く家も富み、家屋敷や召使、さては美田や水碓(すいたい、精米、製粉のための水車)といったものは、都の洛陽でも比類がなかった。勘定書や証文の処理に追われ、いつも夫人と一緒に灯(ともしび)の下で、計算棒をあたり一面に撒き散らしながら勘定していた。3》《王戎の家にはよい李の木があり、いつもその実を売っていた。人がその種を手に入れることを恐れ、必ずその核(さね)に錐で穴を開けておいた。4》  《王戎は娘が裴頠(はいき)の家に嫁入りするとき、数万銭を貸してやった。娘が里帰りすると、王戎は不機嫌 そうな顔をしている。娘があわてて銭を返すと、やっと機嫌が直った。5》
 最後に、惑溺篇三十五に曰く、《王安豊(王戎)の妻は、いつも王安豊を「*君」と呼んだ。王安豊はいった。「妻が夫のことを呼ぶのは、礼の定めでは不敬にあたることだ。これからのちは、もうやめたがよい」すると妻はいった。「君に親しみ、君を愛すればこそ、君を君と呼ぶのではありませんか。もし、わたしが君を君と呼ばなければ、たれがいったい君を君と呼べばよいのですか」かくて、いつも君と呼ぶことを許すことになった。6》*原文では「卿(けい)」。六朝時代の用法としては、卿はぞんざいな呼び方で、同等もしくは以下の者にたいする二人称として用いられていた。

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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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