瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 横浜のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2016年9月16日11時36分 Re: 中国の海外進出のヒント
 日高節夫様
 空〈飛行機)に関する質問全部、ご教示ありがとう。
 門司中学の校庭に暁部隊が掘った防空壕を狙った飛行機は、偵察機であるはずもないから君の言うように、あれはグラマン戦闘機だろうね。いまでもあのプロペラの回る音が耳に残っているよ。異常な金属音という言葉がふさわしい音でした。
 今月の下旬に、航空自衛隊に売り渡される(アメリカから引き渡される)予定のステルス戦闘機F35は、いまの航空自衛隊の戦闘機部隊の主力がいる百里基地でなく、宮崎県の新田原(ニュータバル)基地でもなくて、米軍のお膝元、三沢基地に置かれるらしい。書店に売っていない『選択』という月刊誌に載っていた。
 さて「グレイ産業、やがては日の目を見る」論。
 グレイ? 産業が表街道に出てくることは、よくあること。
 まだ日本では傭兵はいないだろうが、フランスの外人部隊に入って一時的に大金を設けた青年の話はよく聞いた。
 ローマ法王庁は昔から、番兵はスイスの傭兵だと聞いている。
 蛇足だけれど、バチカンの傭兵は、腹巻をするのが決まりだと、有名なアメリカの美術館長の本で読んだことがある。理由は「バチカンの建物はすべて石造りで、その中で勤務するから、おなかを冷やす。下痢をするので、そこで傭兵には腹巻を支給していて、その規則に違反した者には罰を加える。美術館の職員も環境は同じだが、腹巻は支給しない」と書いてあった。
 その出典を明らかにしようと思うのだけれど、過去の読書抜き書き帳では見つからない。だから私のホラ話と思ってくれていい。
 会社勤めをしているときに、一度だけ、ラブホテルにたった一人で泊まったことがある。
 新宿西口支店に勤務しているときで交通ゼネストのある前夜のこと。
 職掌柄、責任者は是が非でも、店を開けなければならないという日の前夜。
 新宿地区の普通のホテルはみんな満員札止め。同僚の総務課長さんが、高校時代の友人がラブホテルのマネージャーをしているから、そこでよければ取れます」と言ってくれて、歌舞伎町に近い、西武新宿線の新宿駅近くだった。
 周囲に鏡を張り詰めた部屋に布団が敷いてあって、あとの設備はホテルとそう違わなかった。
 私が用心したのは、性病が移らないように浴槽はご遠慮して、シャワーだけで汗を流せば、周りが鏡であろうとなんであろうと、ぐっすりと寝た。起きてみたらストは払暁に解決して、電車はふつう通りに動いていた。職場の近くのパン屋で朝食の菓子パンを食って、出勤した。その経験から行くと、ラブホテルだろうと、ノン・ラブホテルであろうと、機能は同じだと思った。
 あのラブホテル代は、社費で払ってもらったが、いま観光庁が、ホテル不足に対処しようと、ラブホテルに目をつけたのも、30年も前にわたしが選んだ宿探しも同じような対処方法だと思うね。
 それはそうと、どうして民進党だけは、村田蓮舫と戸籍通りの名前で登録しないで済んでいるのだろうね。蓮舫で選挙に出ることは、私で言えば Ituro だけで世の中を歩くようなものと違うのだろうか。蓮舫ちゃんには、姓はいらないのかな。
 今の世の中のことはもうどうでもいいのだけれど、ここ十数年、隣りの国の中国が海洋開発に目覚めて、考古学の古い陳腐な手を使って、古い陶器を証拠に「ここは昔から中国の土地だ」という主張をするようになった。このヒントはどこにあったのか?
 わたしは明代の鄭和の大航海がヒントになっているのではなかろうかと思っています。
 鄭和は、明の永楽帝の時代に何回も大艦隊を率いて海外遠征を試みた宦官だけれど、彼が死んだあと、あまりにも膨大な予算を使い過ぎ、国費に莫大な負担を強いたので、同じ時代の官僚、劉大夏(1436-1516)が、鄭和の遠征記録を焼却して、後の皇帝が二度と海外に目を向けないようにしたという資料が出てきたのではあるまいかと勘ぐっているのです。
 官僚としてはありそうなことですが、資料はなくっても、今の時代、昔よりもっと島の地政学上での価値は高まっていますから、所有権を主張するのには、鄭和がどこの島に行ったのかを明らかにできれば、インド洋やオセアニアの島が中国領になる可能性もあるのでしょう。
 中国の古典に詳しい君なら、鄭和の秘密が解けるのではないでしょうか。
 ご教示のお礼と、次なる質問?  IN

 昨日取り上げた五柳先生ではないが、「書を読むことを好めども、甚解を求めず」と言います。判る範囲で鄭和について調べてみました。


 
  中国ではしばしば明朝時代の鄭和の大航海の再来になぞらえられています。鄭和は大艦隊を率いて計七回にわたって遠征を行ない、南シナ海からマレー海峡を経てインド洋にまで至りましたが、その間、沿岸の様々な諸国に寄港し、最終的には中近東やアフリカ東岸の諸国にまで赴いたといいます。中国では7月11日が「航海の日」と定められているそうです。その日は鄭和の記念すべき第一回目の大航海の出発日とされているといいます。
 コロンブスがアメリカに上陸し、バスコ・ダ・ガマがインドに到着する1世紀近く以前に、中国の艦隊は何をしたのでしょう。
 明朝の永楽帝は、世界の国々を探検し、貿易を行うために、大艦隊を送り出しました。永楽帝が航海の司令官として選んだのが、宦官の最高職の太監であった鄭和でした。 鄭和は、およそ30年(140533年)にわたって、7度の西方への航海にでますが、その規模と範囲は、前例のないものでした。大艦隊は、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾、そして、アフリカの東海岸にまで到達しました。これらの航海に使われた船は、考古学的な証拠によれば、全長が120メートルを超えており、コロンブスが大西洋を航海した船の何倍もの大きさだったといいます。これらの航海によって、明朝の力と富がいかんなく示されたのです。より重要なのは、これらの航海が、訪問国に長く続く影響を与えたということです。この地域のモスクには、鄭和と名付けられたものが数多くあり、鄭和の現地社会への貢献を讃えているといいます。


 


 もし、歴史的な主張によって海洋の管轄権が決まるというのであれば、中国人は、600年前にこれらの海域を誰にも妨げられることなく航海した事実を指摘するでしょうね。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはありませんでした。


 
 鄭和が航海をしていた当時、アジアではすでに活発に交易が行われていました。明朝には、物資は十分にあったと言われます。産業革命までは世界の基軸はアジアであり、生活水準もヨーロッパに比べ高かったことが判っています。これに対してヨーロッパは、海を渡って他国を侵略して食料や原料、市場を得なければ、自国の発展はありませんでした。自国の発展のために、さまざまな新しいものを持ち帰ったコロンブスと物質的に満たされていて新たなものを積極的には求めなかった鄭和の航海の目的の差が、歴史に与えた影響の差となっているのではないでしょうか。


 


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