瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[3229] [3228] [3227] [3226] [3225] [3224] [3223] [3222] [3221] [3220] [3219]

()を詠める歌3
巻2-0162: 明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし.......(長歌)
標題:明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇/天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
標訓:明日香清御原宮に御宇天皇の代(みよ)、天渟中原瀛真人天皇、謚(おくりな)して曰はく天武天皇/天皇の崩(かむあが)りましし後八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌(おほみうた)一首
原文:明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子
           万葉集 巻2-0162
         作者:持統天皇(沙羅羅大后)
よみ:明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)()のみ 香(かほ)れる国に 御()(こも)りし あやにともしき 高照らす 日の御子

意訳:明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。
◎この歌は天武天皇の崩御された後の持統七年、九月九日に行われた御斎会(ごさいゑ)の夜に天武天皇の霊と夢で逢った持統天皇(沙羅羅大后)が詠まれた一首。実際には持統天皇の代わりに夢の中で霊と対話する占い師が存在してその者が詠んだ歌と思われますが、形式上、持統天皇の作となっています。
 内容としては明日香の浄御原で即位して天下をお治めになった天皇…と天武天皇を讃え、その天武天皇の魂が伊勢の国に行ってしまわれたと、天皇の亡くなられたことを哀しんでいます。
 歌の中では「香れる国に」のあとに、天皇が「おいでになってしまわれた」と続く部分が省略されているわけですね。
 そして「あやに(不思議なほどに)慕わしい天高き日の御子よ」と、天武天皇への愛情の深さを詠って天武天皇の魂を慰めている訳です。
 一応、代作でありますが、この時代の歌はあくまで言霊としての呪術的意味合いのあるなものなので誰の作であるかはあまり問題ではなく、実際に口に唱えて霊に詠い掛けることが出来ればそれでよかったわけです。持統天皇(沙羅羅大后)もきっと、この歌を何度も何度も口ずさんで、遠き伊勢の国にいる天武天皇の魂にその慕わしい思いを語り掛けたことでしょう。
巻2-0194: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる玉藻は.......(長歌)
標題:柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌
標訓:柿本朝臣人麿の泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献(たてまつ)れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸経 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔庸尚乎 釼刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無(一云、何礼奈牟) 所虚故 名具鮫魚天 氣留敷藻 相屋常念而(一云、公毛相哉登) 玉垂乃 越乃大野之 旦露尓 玉裳者泥打 夕霧尓 衣者沽而 草枕 旅宿鴨為留 不相君故
            万葉集 巻2-0194
          作者:柿本人麻呂
よみ:飛ぶ鳥の、明日香(あすか)の川の、上(かみ)つ瀬に、生()ふる玉藻(たまも)は、下(しも)つ瀬に、流れ触らばふ、玉藻(たまも)なす、か寄りかく寄り、靡(なび)かひし、嬬(つま)の命(みこと)の、たたなづく、柔肌(にきはだ)すらを、剣太刀(つるぎたち)、身に添へ寝ねば、ぬばたまの、夜床(よとこ)も荒()るらむ、[一云、荒()れなむ]、そこ故(ゆゑ)に、慰(なぐさ)めかねて、けだしくも、逢ふやと思ひて、[一云、君も逢ふやと]、玉垂((たまだれ)の、越智(をち)の大野の、朝露(あさつゆ)に、玉裳(たまも)はひづち、夕霧(ゆふぎり)に、衣(ころも)は濡()れて、草枕(くさまくら)、旅寝(たびね)かもする、逢はぬ君故(きみゆゑ)

意訳:明日香(あすか)の川の上流の瀬に生える玉藻は、下流の瀬に流れて触れ合います。その玉藻のように寄り添い寝た夫の君の柔肌さえも、(剣や刀のように)身に添えては寝ないので、夜の床も荒れていることでしょう(一つには、荒れてゆくでしょう)
 そのために、慰めることもできなくて、もしかしたら逢えるのではと思って(一つには、君に逢えるかと)、越智(をち)の大野の朝露(あさつゆ)に玉裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、旅寝をするのでしょうか。逢うことのできない君ですから。
左注:右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨。
注訓:右は或る本に曰はく「河嶋皇子を越智野に葬(はふ)りし時に、泊瀬部皇女に献(たてまつ)れる歌なり」といへり。日本紀に曰はく「朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大参皇子河嶋薨(かむあが)りましぬ」といへり。
巻2-0196: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋渡し.......(長歌)
標題:明日香皇女木瓲殯宮之時、柿本人麻呂作歌一首并短歌
標訓:明日香皇女の木瓲(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡(一云、石浪) 下瀬 打橋渡 石橋(一云、石浪) 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾生乃 立者 玉藻之如許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 唯見不献 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゞ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨(一云、所己乎之毛) 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬(一云、為乍) 朝鳥(一云、朝霧) 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此為
             万葉集 巻2-0196
           作者:柿本人麻呂
よみ:飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生()ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも 吾が生()ふの 立てば 玉藻のごところ 臥せば 川藻の如く 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背(そむ)き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢ)かざし 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛()づらしみ 思ほしし 君と時々 幸(いでま)して 遊び給ひし 御食(みけ)向ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはふ 目()(こと)も絶えぬ 然(しか)あるかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思い萎えて 夕(ゆふ)(つつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 遣()り問()ふる 情(こころ)もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも 絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代(よろづよ)までに 愛しきやし わご王(おほきみ)の 形見かこれは

意訳:飛ぶ鳥の明日香川の川上には石橋を渡し、川下には杭を打って木橋をかける。石橋のたもとに生えて靡く玉藻は、なくなればまた生え育つ。木橋のたもとに生えている川藻も、枯れてはまた芽生えて来る。それなのに、私を養われる、立つと玉藻のようで、身を横たえると川藻のような、その皇女が靡いてお慕いした相応しい夫君が、貴女と過ごした朝宮をどうしてお忘れになるのでしょう。また、貴女と過ごす夕宮をお嫌いになるでしょうか。この世の現実のことと思われた時には、春は花を折り髪にかざし、秋になると黄葉を髪にかざして、夜の敷いた床の栲の上でお互いの袖を交わして、鏡のように見ても飽きない満月のように、ますます慕わしくお思いになっていた夫君とともに、時々に、お出ましになり遊ばれた。その皇女に御食を捧げる城上の宮を永遠の宮とお決めになり、二匹の味鴨が寄り添うように貴女が夫君に寄り添い、お目にかかることも何か申される辞もなくなってしまった。そのためでしょう、いいようもなく悲しく、ぬえ鳥が片恋する妻、その朝鳥が心を妻に通わすように亡き妻に心を通わす夫君が、夏草のように悲しみしおれ、夜空の星が移り行き、大船が揺れるように心が揺れ動いているのを見ると、行ってお気持ちを尋ねる思いもありません。そのために、夫君に対してどのようにすれば良いのでしょうか。皇女のお噂だけでも、御名だけでもいつまでも天地のともに永久にお慕いしていきましょう。お名前にかかわる明日香川は、万年の後までも夫君の愛しい皇女の形見でしょうか。ここは。
◎明日香皇女(あすかのひめみこ、生年不明)
 天智天皇皇女です。飛鳥皇女とも表します。母は橘娘(父:阿倍内麻呂)です。同母の妹は新田部皇女です。忍壁皇子の妻とする説があります。
 持統天皇6年(692年)8月17日に持統天皇が明日香皇女の田荘に行幸しています。持統天皇8年(694年)8月17日に明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家させました。
 文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去。もがりの折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げいます。
 明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けています。


 

この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 9 11
12 14
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[傍若在猫 05/07]
[EugenePum 04/29]
[m1WIN2024Saulp 04/22]
[DavidApazy 02/05]
[シン@蒲田 02/05]
[нужен разнорабочий на день москва 01/09]
[JamesZoolo 12/28]
[松村育将 11/10]
[爺の姪 11/10]
[爺の姪 11/10]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/