瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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()を詠める歌6
巻4-0491:川上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも

※吹芡刀自(ふふきのとじ、生没年不明)
 飛鳥(あすか)時代の歌人です。天武天皇4(675)十市(とおちの)皇女にしたがって伊勢神宮にもうでたときによんだ歌が「万葉集」巻11首、巻4には相聞歌が2首みえる。吹黄(ふきの)刀自ともあらわします。
◎「いつ藻」は「斎藻」で美しい藻のことです。そんな「いつ藻」という言葉の響きから「いつもいつも」を引き出して詠んだ「調べ(リズム)」の美しい一首です。
 万葉集の時代の歌には祈りの呪文としての意味合いも強かったので、この歌のような口ずさんだ時の「調べ(リズム)」のよさは非常に重視されていたのだろうと想像できます。
 妻が夫に対して「いつもいつも来てください」と詠い掛けるのは現代人の感覚では少し違和感を感じるかも知れませんが、この時代の婚姻は結婚後も妻は自分の生家に住んでいて夫が毎晩妻の家に通う「通い婚」が普通でした。ですので、現代に比べれば婚姻関係が薄弱で、ある日突然夫が来なくなって婚姻関係が終わるということもよくあったようです。
 (逆に妻のほうが夫を拒むという感じで婚姻関係が終わることもあったようですが…)
 それゆえに婚姻関係にある夫婦の間でも、この歌のように妻が夫の来訪を待ちわびる切ない恋愛感情が失われずに成立したのでしょう
巻4-0511:我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ

◎持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕した夫(当麻麻呂)を待つ妻が都で詠んだ詩となります。作者は当麻麻呂妻(たいまのまろのつま)です。
 夫である当麻麻呂についても、持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕したこと以外よくわかっていません。
巻4-0619:おしてる難波の菅のねもころに君が聞こして.......(長歌)
標題:大伴坂上郎女怨恨歌一首[并短歌]
標訓:大伴坂上郎女の怨恨(うらみ)の歌一首〔并て短歌〕
原文:押照 難波乃菅之 根毛許呂尓 君之聞四乎 年深 長四云者 真十鏡 磨師情乎 縦手師 其日之極 浪之共 靡珠藻乃 云々 意者不持 大船乃 憑有時丹 千磐破 神哉将離 空蝉乃 人歟禁良武 通為 君毛不来座 玉梓之 使母不所見 成奴礼婆 痛毛為便無三 夜干玉乃 夜者須我良尓 赤羅引 日母至闇 雖嘆 知師乎無三 雖念 田付乎白二 幼婦常 言雲知久 手小童之 哭耳泣管 俳徊 君之使乎 待八兼手六
             万葉集 巻4-0619
           作者:大伴坂上郎女
よみ:押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞(きこ)しを 年深く 長くし云()へば 真澄鏡(ますかがみ) ()ぎし情(こころ)を 許してし その日の極(きは)み 波の共(むた) 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 憑(たの)める時に ちはやぶる 神か離()くらむ 現世(うつせみ)の 人か禁()ふらむ 通(かよ)はしし 君も来まさず 玉梓の 使(うかひ)も見えず なりぬれば 痛(いた)もすべ無み ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)を無み 思へども たづきを知らに 手弱女(たわやめ)と 言はくも著(しる)く 手童(たわらは)の 哭()のみ泣きつつ た廻(もとは)り 君が使(つかひ)を 待ちやかねてむ

意訳:天と地との両方から照らされる難波に生える菅の根のように、密に心を込めて貴方がおっしゃて「年永く末長い仲であれば」と云うと、願うと見たいものを見せると云う真澄鏡を磨ぐような澄み切った私の思いを貴方に許して、その日を境として波と共に靡く玉藻のように、あれこれと揺れ動く気持ちは持たず、大船のように貴方を信頼している時に、神の岩戸を押分けて現れた神が二人の仲を割くのでしょうか、この世の人が止めるのでしょうか、私の許を通っていた貴方もやって来ず、美しい梓の杖を持つ立派な使いも来て姿を見せないようになったので、心を痛めてもどうしようもなく、漆黒の夜は夜通し、明るい昼間は日が暮れるまで、身の不幸を嘆くのですが、その甲斐もなく、貴方を恋い慕っても便りを行う手段も知らないので、手弱女と言われる通りに幼子のように、さめざめと泣いて床に身をよじる。そんな私に貴方からの使いを待つことが出来るでしょうか。
この歌は大伴坂上郎女が詠んだ恋の怨恨(うらみ)の長歌です。年久しく末永く共に暮らそうと声をかけてくれた男を頼りにしていたのに、次第に男が疎遠になって、嘆き悲しみ男の使の来るのを待つしかない女心の切なさが素敵に詠われています。
 歌の前半で男が声をかけてくれた時の喜びを詠って大船に乗っているかのように頼りにしきっていた様子を表現することで、後半の不安で切ない気持ちがよりいっそう強調されていますね。
 まあ、ほんとうのところはこの歌は「怨恨(うらみ)の歌」という主題で詠まれた題詠歌であるらしく、実際に坂上郎女がこのような恋をしていたわけではないようですが、それにしても男の存在をこころの拠り所にして待つしかない女性の心情がよく表現されていますよね。あるいは恋愛経験の豊富な坂上郎女だからこそ詠めた題詠といったところでしょうか。
 坂上郎女は大伴家の刀自(とじ)として女性の立場から大伴家を支えた才女のイメージがありますが、その強さの根本にはこの歌に詠まれたような切ない恋を何度も繰り返してきた経験の積み重ねがあったのかも知れませんね。
巻4-0625:沖辺行き辺を行き今や妹がため我が漁れる藻臥束鮒

※大原高安(おおはらの-たかやす、?743年)
 奈良時代の官吏。天武天皇の曾孫(そうそん)。川内王の子。
 はじめ高安王と称しました。和銅6年従五位下にすすみ,養老3年伊予守(いよのかみ)のとき按察使(あぜち)を兼任します。のち衛門督(かみ)。天平(てんぴょう)11年弟の桜井王らとともに大原真人(まひと)の氏姓をあたえられました。「万葉集」に歌3首がおさめられています。天平141219日死去。
巻4-0659:あらかじめ人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ  ........(藻そのものを詠んだ歌ではありません)

◎大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)が詠んだ六首の歌のうちの一首です。「まだ恋が始まったばかりなのにもうこんなに人の噂になるとは。これではあなた、この先どうなることでしょう…」との、他人に噂される恥ずかしさを詠っています。
 この時代の人々にとって、現代人が思う以上に自分の名は汚してはならない大切なものでした。また、恋はまさしく「秘め事」であり、恋の浮名が立つことを非常に嫌っていたようです。
そんな大切な自分の名が恋の始まりからもう人の噂に立っているようではこれから先どうなるのか…、と噂好きの人々にうんざりしているのでしょう。
 女性にとっては自分の恋の噂が立つことは嫌っても、他人の恋の噂話が楽しくて仕方がないのはいまも昔も変わらないのかも知れませんね。
巻4-0782:風高く辺には吹けども妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻ぞ

※紀女郎(きのいらつめ、生没年未詳)
 紀朝臣鹿人の娘。名は小鹿(おしか)。安貴王の妻。万葉集巻八には「紀少鹿女郎」ともあります。小鹿(少鹿)は諱(いみな=本名)か字(あざな=通称)か不明です。
 養老年間(717724)以前に安貴王に娶られます。安貴王は養老末年頃因幡の八上采女を娶った罪で本郷に退却せしめられ、紀女郎の「怨恨歌」(万葉集巻四)はこの事件ののち夫と離別する際の歌かと言われます。天平十二年(740)の恭仁京遷都前後、家持と歌を贈答しています。遷都後早い時期に新京に仮住居を建てていることが知られ、女官だったかと推測されます。家持との関係は程なく解消されたようです。万葉集巻四・八に計十二首の歌を載せています(すべて短歌)。技巧的で妖艶、万葉後期の典型的な作風を示す歌人の一人です。


 

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