藻(も)を詠める歌5
巻3-0250:玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
◎「野島(のしま)」は淡路島の北端。場面が播磨(兵庫)へ移っているわけです。「一本(あるほん)に云はく」の異説は、人麿自身がこの歌を記録として記すときに別案で詠んだものでしょうか。
歌の内容としては、「美しい藻を刈る敏馬を離れて夏草の茂る野島の崎に舟は近づきました。」との、自身の旅の様子をそのまま表現しただけのものにも読めますが、前半の柔和な景色から後半の夏草の茂る野島へ近づいてゆく心の動揺がそこには感じられるように思います。おそらくは夏草が茂って荒れ果てた野島の地に上陸しようとする不安なこころの動揺を、歌を詠むことによって鎮めようとしたものなのでしょう。自身の姿を歌として詠うことで、人麿は自分という魂の形を現世に繋ぎとめようとしているのです。
巻3-0278:志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
◎この歌は、石川少朗(いしかはのをといらつこ)が詠んだ一首。
「石川少朗」は左注によると「石川朝臣君子(いしかはのあそみきみこ)」のことで男性のようですね。詳細は不明です。
そんな石川君子が詠んだ一首ですが「志賀の海人のおとめは海藻を取ったり塩を焼いたりと暇がないので髪を梳く小櫛を手に取ってみることもないのだろう…」と、志賀の海人のことを詠った内容となっています。
読みようによっては田舎の海人をからかった歌とも取れて解釈が分かれている一首ですが、これはやはり髪の手入れをする暇もないほどに生業に勤しむ海人を讃えている歌と解釈したほうがよいのではないでしょうか。
同時に、旅路で見た海人のおとめに心を寄せて詠うことで、旅の不安に動揺する自身の心を鎮めようとした歌のようにも感じられます。
巻3-0293:潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む
◎角麿(つののまろ)が詠んだ四首の歌のうちのひとつです。角麿については伝不詳です。「三津(みつ)」は「御津(みつ)」で難波の港。「くぐつ」は海藻を入れる籠のこと。
そんな「潮の引いた海岸で三津の海女がくぐつを持って藻を刈っているようだ。さあ行って見よう。」との、御津の海女を詠った一首です。
ただ、この歌も単なる観光の歌ではなく、おそらくは海女が玉藻を刈る御津をたたえることでその土地の神の加護を得ようとした土地讃めの歌なのでしょう。この時代、「見る」とは誉める行為であり、「いざ行きて見む」とはそれだけ価値のあるものだとの賞讃の言葉なわけですね。
巻3-0360:潮干なば玉藻刈りつめ家の妹が浜づと乞はば何を示さむ
◎山部宿禰赤人(やまのべのすくねあかひと)が詠んだ旅の歌六首のうちのひとつです。「つと」は土産のことで、「浜(はま)づと」は海の土産です。
つまりは「潮が引いたならあの美しい玉藻を刈りなさい。家で待つ妻が海辺の土産を乞うたなら何もあげるものがないではないか。」と、奈良の都で待つ妻の土産にするために海岸の玉藻を刈ろうと詠っています。
これまでの歌では大和を詠うことでそこに残してきた妻への思いを詠っていましたが、こちらの歌でははっきりと妻への思いが詠われています。
まあ、「玉藻を土産にする」と言っていますが実際に玉藻を刈って持って帰るわけではなくて、家に残してきた妻のことを思って詠うことで妻と自身の心との結びつきを深めようとした歌の言霊の一首なわけです。
このようにして妻との結びつきを確認することで、旅先で孤独に引き込まれそうになる自身の心を現世に結び付けておこうとしたわけです。
巻3-0362:みさご居る磯廻に生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも
◎山部宿禰赤人(やまのべのすくねあかひと)が詠んだ旅の歌六首のうちのひとつ。「みさご」は雎鳩(みさご)で、浜辺に棲む猛禽類。
そんな「みさごのいる磯に生える名乗藻のように、名前を教えてよ。親に知られたとしても。」との、女性に対する恋歌ですね。
この時代、女性が異性に名前を教えることは求婚に応じる意味がありました。
「親」はこの場合は娘の親で、娘を見守り監督する立場にありましたが、この歌の結句はそんな「親に知られてもかまわない」との本気の求婚であることを示しています。
巻3-0363:みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
巻3-0390:軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
※紀皇女(きのおうじょ、生没年不明)
飛鳥(あすか)時代、天武天皇の皇女です。母は石川大蕤娘(おおぬのいらつめ)。恋の歌2首が「万葉集」にのります。その1首には、高安(たかやすの)王にひそかに通じて世間から非難されたときにつくったという伝承がありますが、年代があわず多紀(たきの)皇女の誤写とする説もあります。異母兄弓削(ゆげの)皇子の「紀皇女を思(しの)ぶ」相聞歌などがのこされています。
巻3-0433:葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
◎真間の手児奈
伝説によると、手児奈は現在の市川市真間の地に暮らしていました。その容姿がとても美しかったため、多くの男性が手児奈に恋心を抱き、それが原因で男性たちの争いがたえなかったほどでした。男性たちが醜い争いを続けるなか、手児奈は次のような感慨を抱きます。「自分の心は幾つにでも分けることができる。しかし、身体は一つしかない。もしも、自分が誰かのもとに嫁げば、ほかの人を不幸にしてしまう」。夕陽が海の下へと沈んでいくのを目にした手児奈は我が身に絶望し、海に身を投げてしまったのでした。手児奈の悲劇は遠く都にまで届き、都人はその話に涙したといいます。『万葉集』に手児奈の恋物語を題材にした歌が複数収録されていることは、その証であるといえるでしょう。
真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)の創建は奈良時代。寺伝によると、奈良時代の高僧・行基が手児奈の霊を弔うために創建したのがはじまりであるといわれています。鎌倉時代以降、地元の豪族・千葉氏の庇護を受けて発展。真間宿と呼ばれる門前町が形成されるほどの賑わいを見せました。
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