瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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藻(も)を詠める歌8
巻6-0943:玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ

巻6-0946:御食向ふ淡路の島に直向ふ敏馬の浦の.......(長歌)
標題:過<敏馬>浦時山部宿祢赤人作歌一首[并短歌]
標訓:敏馬の浦を過りし時に、山部宿祢赤人が作りし歌一首、短歌を幷せたり
原文:御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松採 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見巻欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二
           万葉集 巻6-0946
         作者:山部赤人
よみ:御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし

意訳:御食(みけ)の国、淡路島に、まっすぐ正面に向かい合う敏馬(みぬめ)の浦。その沖では海中深くの海草、海松(みる)を採取する。浦の海岸周辺では名のりそを刈り取るという。深海松は是非見たいし、名のりそは名のるのが惜しくて、使いの者もやらず、どうしようもない。なので、生きた心地がしない。
左注:右作歌年月未詳也 但以類故載於此次
注訓:右ノ作歌、年月詳ラカナラズ。但類ヲ以テノ故ニ此ノ次ニ載ス。
巻6-0958:時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな

※大弐小野老(だいにおののおゆ、?~737年)
 奈良時代の官人で万葉歌人です。天平10(738)年を没年とするあります。神亀年間(724~29)には大宰少弐として『万葉集』に歌をのこしていす。大宰大弐のままで死去しています業績については、高橋牛養を南島(沖縄諸島)に遣わして、漂着船のためにそれぞれの島に島の名,船の泊所、給水所および本土からの距離を記したを建てたと『続日本紀』に記されています。このようなの仕事は当時、遣唐使は南海路を通ることが多かったこともあって、律令政府には南島への関心があったことの表れでもあります。
巻6
-1065:八千桙の神の御代より百舟の泊つる泊りと.......(長歌)
標題:過敏馬浦時作歌一首[并短歌]
標訓:敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
原文:八千桙之 神乃御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風尓 浦浪左和寸 夕浪尓 玉藻者来依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人毎尓 語嗣 偲家良思吉 百世歴而 所偲将徃 清白濱
             万葉集 巻6-1065
           作者:田邊福麻呂
よみ:八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊りと 八島国 百舟人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白真砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜

意訳:大国主の命の神の御代から多く舟が停泊する所と八島国(日本中)の舟人が定めてきた敏馬の浦。朝風が吹くと波が立ち騒ぎ、夕波時には海藻が寄せてくる。白砂の清らかな浜辺は行きつ戻りつしていつまで眺めていても飽きない。なるほど、見る人見る人が語り継ぎ、なつかしがるわけだ。この先、いついつまでも褒め称えてゆこうではないか。この清らかな白浜を。
左注:右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也
注訓:右の二十一首は、田邊福麻呂の歌集の中に出でたり
※田辺 福麻呂(たなべ の さきまろ、生没年不詳)
 奈良時代の下級官人です。万葉歌人。姓は史(ふひと)。
 田辺氏(田辺史)は百済系渡来氏族で、西文氏のもとで文筆・記録の職掌についた史部の一族と想定されます。
 天平20年(748年)、造酒司の令史のとき、橘諸兄の使者として越中守・大伴家持のもとを訪れ、ここに新しき歌を作り、幷せて便ち古詠を誦(よ)み、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を延ぶ」とあります。また、越中掾の久米広縄の館でも饗宴を受け、歌を詠んだともあります。福麻呂の和歌作品は『万葉集』に44首が収められています。巻18に短歌13首があり、巻6・巻9にある長歌10首とその反歌21首は「田辺福麻呂の歌集に出づ」とあります。それらの歌は用字・作風などから福麻呂の作と見られています。

ウェブニュースより
 浅草の名所が消滅危機 伝法院通りで不法占拠問題が表面化「なぜ今」店主は困惑 ―― 東京の名所・浅草寺の境内に隣接するレトロな商店街が消滅の危機を迎えている。「伝法院でんぽういん通り」と呼ばれる一角で40年以上にわたり営業してきたが、地元の台東区が、店舗の立つ場所は公道上で不法占拠に当たるとして立ち退きを求めているためだ。店主たちは「なぜ今なのか」と戸惑い、営業継続に向けて署名活動を始めた。

◆浅草観光の定番コースで何が
 
伝法院通りは、浅草寺の仲見世商店街と交差する形で東西に約300メートル伸び、両脇に土産物店などが並ぶ。2000年代に入ってからのリニューアル事業で江戸の町並みが再現された。メンチカツや大学芋の人気店も進出し、着物姿で食べ歩きする客も多い。人力車の定番コースにもなっている東京を代表する観光スポットだ。

 台東区から立ち退きを求められているのは仲見世通りの西側に連なる32店舗。舞台衣装や作業着、雑貨などを売る店が多く、昭和の味わいある雰囲気が残っているが、区は「区道の上に許可なく立っている。道路法違反に当たる」と説明する。
◆「掘っ立て小屋ならともかく…」
 
この32店舗でつくる「浅草伝法院通り商栄会」によると、起源は1977年、浅草公会堂が完成したころだという。公会堂の建設に合わせた区の周辺整備の一環で建てられ、この場所で終戦直後からバラックで営業していた露天商たちが入居した。
  商栄会側は、当時の内山栄一区長(故人)の指示で建てられたと主張する。西林宏章会長(59)は「掘っ立て小屋ならともかく、鉄筋造りの連なる店舗を勝手に並べられるわけがない。当然、区に認められていると思って商売してきた」と話す。
◆口ごもる区職員 背景に何が
 
波風が立ち始めたのは2014年。区が不法占拠であることを商栄会に告げ、その後も説明会を開いたり戸別訪問を繰り返したりして、立ち退きを求めるようになった。
 区道路管理課の斎藤洋課長は本紙の取材に「建てられた当時から違法状態だったと認識している」としつつも、なぜ近年になって問題化したかについては「その時々の担当者がどう対応してきたかは分からないので…」と言葉を濁した。
 図面など建設の経緯が分かる資料は区にも商栄会側にも残っていない。主張は対立したまま、互いに代理人を立てて交渉している。ある地元関係者は「区が一代限りで認めたらしい」と明かした。

 店主たちは5月、営業継続への賛同を求め、週末の街頭署名活動を始めた。これまでに7000筆を集め、今後、区に提出する予定だ。西林会長は「商店街の一員として浅草の発展を支え、個人事業主としても所得税などを納めてきた。店がなくなれば生活の糧を失ってしまう」と訴えている。
◆専門家「行政は歩み寄ってもいいのでは」
 
中央大法科大学院の土田伸也教授(行政法学)は、問題が表面化した背景について、「不法占拠の解消を首長に求める住民訴訟が近年増加するなど適性管理への社会的なニーズが高まってきている」と指摘する。
 一方、「不法占拠ながら観光面での貢献や事業主として納税があったのなら、行政にも得があったわけなので、代替地を考えるなど歩み寄ってもいいのでは」と語った。   (東京新聞 202165 2000分)


 

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