藻(も)を詠める歌1
藻は海や淡水の水性植物、たとえば昆布や若布(わかめ)などの総称です。古くは藻葉などと言われたそうです。海藻類は、塩焼き、食用として使われていました。海藻類にはミネラル(鉄やカルシウムなど)・ビタミンAが豊富に含まれているので当時の健康食品としては最適だったのでしょうね。
万葉集には80首以上に登場します。厳藻(いつも)、藻塩(もしお)、奥つ藻、玉藻(たまも: 藻の美称)などとして登場します。
海藻類の当時の呼び名は次のようなものがありました。
(中公新書 食の万葉集 廣野卓著 1998年12月20日発行より)
現在名 万葉時代の名
あまのり 無良佐木乃利(むらさきのり)
あらめ 阿良米(あらめ)
てんぐさ 古留毛波(こるもは)
ふのり 布乃利(ふのり)
ほんだわら 莫告藻(なのりそ)
みる 海松(みる)
わかめ 和可米(わかめ)
巻1‐0023: 打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
※麻続王(おみのおおきみ、生没年未詳)
伝未詳。麻続は正しくは麻績でしょうが、万葉集の古写本には「麻續王」とあります(續は続の正字)。日本書紀によれば、三位の位にあった天武四年(675)四月、罪により因幡に流されます。同時に一子は伊豆島(伊豆大島か)、別の一子は血鹿(ちか)の島(長崎県の五島列島)に流されたといいます。如何なる罪を犯したかなど、詳しいことは不明です。この時ある人が詠んだ歌が万葉集に載りますが、詞書に「伊勢国伊良虞島」に流されたとあります。この歌に和した麻続王の歌は、後年の仮託の作と見られています。なお『常陸国風土記』の行方郡板来村(今の茨城県の潮来)の条には、同地を麻続王の配所とする記事を伝えています。
巻1‐0024: うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む
巻1‐0041: 釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
巻1‐0043: 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
※作者は当麻麻呂妻(たいまのまろのつま)です。
夫である当麻麻呂についても、持統天皇が伊勢に御幸された際に従駕したこと以外よくわかっていません。
◎41、43番には、次の「左注」が付いています。
左注:右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス。是ニ中納言三輪朝臣高市麻呂、其ノ冠位カガフリヲ脱キテ、朝ニササゲテ、重ネテ諌メテ曰ク、農作ナリハヒノ前、車駕以テ動スベカラズ。辛未、天皇諌ニ従ハズシテ、遂ニ伊勢ニ幸シタマフ。五月乙丑朔庚午、阿胡行宮ニ御ス。
巻1‐0050: やすみしし我が大君高照らす日の皇子.......(長歌)
標題:藤原宮之役民作歌
標訓:藤原の宮営(つくり)に役(たて)る民のよめる歌
原文:八隅知之 吾大王 高照 日<乃>皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
万葉集 巻1-0050
作者:役民(えきみん)
よみ:やすみしし、我(わ)が大君(おほきみ)、高(たか)照(て)らす、日の皇子(みこ)、荒栲(あらたへ)の、藤原(ふぢはら)が上(うへ)に、食(を)す国を、見したまはむと、みあらかは、高(たか)知(し)らさむと、神(かむ)ながら、思(おも)ほすなへに、天地(あめつち)も、寄(よ)りてあれこそ、石走(いはばし)る、近江(あふみ)の国の、衣手(ころもで)の、田上山(たなかみやま)の、真木(まき)さく、桧(ひ)のつまでを、もののふの、八十宇治川(やそうぢがは)に、玉藻(たまも)なす、浮(う)かべ流(なが)せれ、其(そ)を取ると、騒(さわ)く御民(みたみ)も、家(いへ)忘(わす)れ、身もたな知らず、鴨(かも)じもの、水に浮(う)き居(ゐ)て、我(わ)が作る、日の御門(みかど)に、知らぬ国、寄(よ)し巨勢道(こせぢ)より、我が国は、常世(とこよ)にならむ、図(あや)負(お)へる、くすしき亀(かめ)も、新代(あらたよ)と、泉(いづみ)の川に、持ち越せる、真木(まき)のつまでを、百(もも)足(た)らず、筏(いかだ)に作り、泝(のぼ)すらむ、いそはく見れば、神(かむ)ながらにあらし
意訳:我が大君、日の皇子(みこ)様が、藤原の地で国内をごらんになるとして、宮を高くおつくりになろうと、神であるままにお考えになると、天地も従っているので、近江(おうみ)の国の田上山(たなかみやま)の檜(ひのき)を宇治川(うじがわ)に美しい藻のように浮かべて流しています。それを取ろうと働く人々も、家のことも忘れて、自分のことも考えないで、鴨(かも)でもないのに水に浮かんでいます。私たちが造る宮に、知らない国も従わせ、巨勢道(こせぢ)からわが国が理想的な国になるという、めでたい模様のある霊験(れいけん)あらたかな亀(かめ)も新しい時代だと示しています。泉川(いずみがわ:現在の木津川)に運んだ檜(ひのき)の丸太をいかだに組んで、川を上っているのでしょう。人々が一生懸命に働いているのを見ると、神でいらっしゃる大君の思いのままのようです。
左注:右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮
注訓:右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス。◎滋賀県の田上山(たなかみやま)で伐採(ばっさい)した木材を筏(いかだ)に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運んだのですね。そして木津からは陸路など(運河も造られたとの事です)で藤原の地へ運ばれたようです。
◎亀(かめ)の甲羅(こうら)の六角形の模様は吉兆(きっちょう:良いことの知らせ)を示すと考えられてきました。
巻1‐0072: 玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
※藤原宇合(ふじわらのうまかい、694~737年)
奈良初期の政治家です。不比等(ふひと)の三男。母は右大臣蘇我武羅自古(そがのむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)。式家(しきけ)の祖です。馬養とも書きます。716年(霊亀2)遣唐副使となり従(じゅ)五位下に叙されます。717年(養老1)多治比県守(たじひのあがたもり)らと渡唐、翌年10月帰国しました。その後常陸守(ひたちのかみ)を経て式部卿(しきぶきょう)に任ぜられます(式家の名のおこり)。724年(神亀1)蝦夷(えみし)の反乱に際し、持節大将軍としてこれを討ち、翌年勲二等を与えられました。また726年から知造(ちぞう)難波宮事(なにわぐうじ)として難波宮の造営にあたり、731年(天平3)参議、畿内(きない)副惣管(そうかん)、さらに翌年には西海道(さいかいどう)節度使に任命され大宰帥(だざいのそち)を兼ねました。734年正三位(さんみ)となったが、737年8月全国的に流行した天然痘のために没しました。文武両道に通じ、家集二巻を残しています。
sechin@nethome.ne.jp です。
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