瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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『平家物語』巻七「忠度都落」
 薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
「忠度。」 と名のり給へば、
「落人帰り来たり。」 とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。」 とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」 とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。
 薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。
 撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
 三位これを開けて見て、
「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」 とのたまへば、薩摩守喜んで、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」 と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
 そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
   さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
 その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり
※和歌の意味:志賀の都は荒れてしまいましたが、昔と変わらない山桜が咲いていることですよ


 


http://www.uta-net.com/movie/37906/


現代語訳
 薩摩守忠度は、どこからお帰りになったのでしょうか、侍五騎、子ども一人、ご自身とあわせて七騎で引き返し、五条の三位である俊成卿のお屋敷にいらっしゃって(目の前を)ご覧になると、門を閉じて開かないでいます。
「忠度です。」 とお名乗りになられると、
「落人が帰ってきた。」 といって、屋敷の中は騒ぎ合っています。薩摩守は、馬からおりて、ご自身の声で高らかに申し上げることには、
「特別な理由があるわけではありません。三位殿に申し上げることがあって、忠度は返って参りました。門を開けられなくとも、(門の)側までお寄りになってください。」 とおっしゃるので、俊成卿は、
「(帰ってこられる)理由があるのでしょう。その方なら差し支えあるまい。中に入れて差し上げなさい。」
といって、門をあけてお会いになります。忠度の有り様は、これということもなくしみじみとしていらっしゃいます。
 薩摩守がおっしゃるには、
「数年来(和歌を)教えて頂いて以来、(俊成卿のことは)なおざりにしてはよくないことだと思い申し上げていましたが、ここ二、三年は、京都での騒ぎや国々の乱れ(がありました。)しかしながらこれらは平家の身の上のいざこざですので、(俊成卿のことは)粗略に思っていたわけではありませんが、日頃参上することもできませんでした。主君(安徳天皇を指す)はすでに都をお出になられました。平家一門の運命はもはやつきました。和歌の勅撰集の編纂があるだろうと伺いましたので、私の生涯の面目に、一首だけでも、ご恩を受けようと思っておりしたが、次第に世の中が乱れてきて、勅撰集の編集の命令がなくなってしまったことは、一身の嘆きと存じております。世の動乱が鎮まりましたら、勅撰集を編集する命令がございましょう。ここにある巻物の中に、(勅撰集にのせるのに)ふさわしいものがございましたら、一首だけでもご恩を受けて、(恩を受けたことを私が)死んだ後でもうれしいと存じるならば、遠いところから(あの世から)あなた様をお守り申し上げましょう。」 といって、日頃、詠みためていらっしゃった歌の中から、良作と思われる百と少しの歌をかき集められた巻物を、今はもうこれまでと思って都を立たれるときに、これを取ってお持ちになられたのですが、(その巻物を)鎧の引き合わせの部分から出して、俊成卿にお渡しになりました。
 三位俊成卿はこの巻物を開けて見て、
「このような忘れ形見を賜ったからには、少しも(この巻物を)粗略に扱うことはございません。お疑いにならないでください。それにしてもただ今ご訪問頂いたことは、風流な心もとても深く、しみじみさも格別に感じることができて、感涙を抑えることができないでいます。」 とおっしゃると、薩摩守は喜んで、
「今はもう、西海の波の底に沈んでしまうならば沈んでしまえ、山のに自分の屍をさらすならさらしてしまえ(という気持ちでいます。)この世に思い残すことはございません。それでは別れを申し上げて。」 といって、馬に乗り兜の緒をしめて、西にむかって(馬を)歩ませなさいます。
 三位俊成卿は、後ろ姿を遠くまで見送って、お立ちになっていると、忠度(のもの)と思われる声が
「前途は遠くです。思いを雁山の夕べの雲に馳せます。」 と高らかに口ずさまれたので、俊成卿は、とても名残惜しく思えて、涙をおさえて(屋敷に)お入りになりました。
 そののちに、世の中が静まって、(俊成卿が)和歌の勅撰集(に入れる歌)をお選びになったときに、忠度の有り様、言い残していった言葉を、今になって思い出してみてしみじみとお感じになりました。(忠度から渡された)あの巻物の中に、勅撰集にのせるにふさわしい歌はたくさんあったのですが、(忠度は)天皇の咎めを受けた人なので、名前を表すことができません。
 「故郷の花」 という題材で詠まれた歌一首を、 「詠み人知らず(作者不明)」 として(勅撰集の中に)入れられました。
 忠度は、朝敵となってしまったからには、(歌が勅撰集に採用されたことに対して)異議を唱えるには及ばないとはいいますが、残念で悲しく思われたことです。

無名抄 俊成自讃歌事
 俊恵(しゅんゑ)いはく、「五条三位入道(ごでうのさんみのにふどふ)のもとにまうで(詣で)たりしついでに、『御詠(ごえい)の中には、いづれをか優れ(すぐれ)たりと思す(おぼす)。よその人さまざまに定めはべれど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく 承らんと思ふ。』と聞こえしかば、
  『夕されば野辺(のべ)の秋風身にしみて鶉(うづら)鳴くなり深草の里
 これをなん、身にとりては面歌(おもてうた)と思ひ給ふる。』と言はれしを、俊恵、またいはく、『世にあまねく人の申し侍るは、
   面影(おもかげ)に花の姿を先立てて幾重(いくへ)越え来(き)ぬ峰の白雲
 これをすぐれたるやうに申し侍るはいかに。』と聞こゆれば、『いさ。よそにはさもや定め侍るらん、知り給へず。なほみづからは、 先の歌には言ひくらぶべからず。』とぞ侍りし。」と語りて、これをうちうちに申ししは、「かの歌は『身にしみて』といふ腰(こし)の句のいみじう無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優に侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひあらはしたれば、むげにこと浅くなりぬる。」とて、そのついでに、「わが歌の中には、
   み吉野(みよしの)の山かき曇り雪降れば麓の里はうち時雨つつ
 これをなん、かのたぐひにせんと思う給ふる。もし世の末におぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」とぞ。

現代語訳
 鴨長明の和歌の師である俊恵法師が、わたくし鴨長明に向かって、ある時お話しなさったことには、「わたくし(俊恵)がある時、俊成(五条三位入道)様のところに出掛けました折に、たまたま俊成様に次のようなことをお聞き申し上げる機会がございました。『俊成様にはご自身が御詠みなさった多くの和歌がございますが、その中で俊成様はどの和歌が俊成様自身、最も優れた和歌であるとお思いなさっていますか。俊成様の代表歌(おもて歌)について、これまで他の人々があれこれと推測し、勝手に俊成様の和歌で一番はあれだとか、これだとか申し上げていますが、そんなことはご本人が最もよく存じ上げていらっしゃることですから、わたくしはご本人以外の意見を採用することはできません。この機会に是非わたくしにお聞かせ下さい。』と申し上げたところ、俊成様は、『わたくし自身は、
      夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
     (夕方になると、野原の秋風が身にしみて、うづらが鳴いているようだよ、この深草の里では。)
というわたくしの和歌が、わたくし自身にとってわたくしの代表歌(おもて歌)であると思っております。』とおっしゃったのですが、わたくし(俊恵法師)はそれで納得することができずに、更に重ねて尋ねてみましたことには、『世間では広く俊成様の代表歌(おもて歌)として、
      おもかげに花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲
     (桜の姿を思い浮かべて、いくつもの山を超えて来たことだ。(桜のように見える)峰の白雲よ。)
      ※     山の頂にかかる白雲が桜のように見えるので、桜の姿を頭に思い浮かべて山をいくつも越えて来たということ。
という和歌を推すものが多いのですが、その点についてはいかがお考えでしょうか。』と申し上げたところ、『さあ、どうでしょうか。他の人々はそのように言っているかもしれません。わたくしにはよく分かりません。しかし、やはりわたくし自身は先ほどの「夕されば」の和歌が何と言ってもわたくしの代表歌であると思っております。』と俊成様はわたくし(俊恵法師)にお答えになりました。」とお話し下さって、その後、わたくし(鴨長明)に向かって内々に俊恵法師がお話しなさることには、「わたくし(俊恵)が思うことには、俊成様の『夕されば』の和歌はたいへん優れた和歌ではありますが、『身にしみて』という第三句の部分がたいそう残念に思われるのです。これほどの高い水準においては、『身にしみて』などと、景色などの眼前の事柄や具体的な気持ちなどをはっきり表現すべきではなく、自然に何となく身にしみたことであったよと思わせるようにすることが奥ゆかしいことであるし、上品で優れている表現であると思われます。この『夕されば』の和歌のように言葉で何でもすべてを表現してしまって、和歌の中心命題となる『身にしみて』をそのまま表現したのでは、はなはだしく和歌としてはつまらない底の浅いものになってしまいます。」とお話しになり、続けて、「ちなみにわたくし俊恵自身の和歌の中では、
      み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ
     (吉野の山が一面に曇って雪が降ると、麓の里は時雨が降っていることだ。)
 この和歌を、わたくしの代表歌にしたいと思っています。かりに将来わたくしの代表歌について変に言及するようなことがあった場合は『本人がこう言いました』とお話し下さい。」ということでした。


 


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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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