見せばやな 雄島(をじま)の蜑(あま)の 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色は変はらず
殷富門院大輔(90番) 『千載集』恋・884
この歌は「袖の色が変わる」と語って、涙が枯れて血の涙が出る ほど激しく泣いたことを暗示しています。ちなみに「血涙」というのは、中国の古典から来た言葉です。なげく心を(やや大げさに)表現した言葉としてよく使われます。
韓非子「和氏篇」原文
楚人和氏得玉璞楚山中 奉而獻之厲王 厲王使玉人相之 玉人曰石也。王以和為誑 而刖其左足 及厲王薨 武王即位 和又奉其璞而獻之武王 武王使玉人相之 又曰石也。王又以和為誑 而刖其右足 武王薨 文王即位 和乃抱其璞而哭於楚山之下 三日三夜 淚盡而繼之以血 王聞之 使人問其故 曰天下之刖者多矣 子奚哭之悲也 和曰吾非悲刖也 悲夫寶玉而題之以石 貞士而名之以誑 此吾所以悲也 王乃使玉人理其璞而得寶焉 遂命曰 和氏之璧
読み下し文
楚人の和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山の中に得たり、奉じて之を厲王(れいおう)に献ず。 厲王、玉人をして之を相せしむ。 玉人曰く、 石なり、と。 王、和を以て誑(きょう、たぶらかし)と為し、而して其の左足を刖(き)る。 厲王の薨こうじるに及び、武王即位し、和、又た其の璞はくを奉じて之を武王に献ず。武王、玉人をして之を相せしむ。 又曰く、 石なり、と。 王、又た和を以て誑と為し、而して其の右足を刖る。武王薨じ、文王即位し、和、乃ち其の璞を抱きて楚山の下に哭し、三日三夜、泣尽きて之を継ぐに血を以てす。王、之を聞き、人をして其の故を問わせしむ。曰く、 天下の刖きせられる者多し、子なんぞ哭し之を悲しむや、と。 和曰く、 吾は刖るを悲しむに非ざるなり。悲なるは夫の宝玉にして之を題するに石を以てし、貞士にして之を名づくるに誑を以てす、此れ吾が悲しむ所以なり、と。 王、乃ち玉人をして其の璞を理おさめ、而して宝を得たり。遂に命じて曰く、 和氏の璧、と。
解釈
楚の人で和氏(かし)という者が楚山の中で璞玉(あらたま)を見つけて厲王に献じた。 厲王は玉工に鑑定させたが、玉工曰く、 これは石です、と。 王は和氏を君を欺く者であるとして、その左足を切った。
厲王が崩御して武王が即位すると、和氏は再びその璞玉を献じた。 武王も玉工に鑑定させてみたが、玉工は再び曰く、 石です、と。 武王も和氏を君を欺く者だとして、今度はその右足を切った。
武王が崩御して文王が即位した。 和氏は璞玉を抱いて楚山の下で慟哭し、三日三夜、泣き続けて涙が尽きると血が継いだ。
文王は之を聞いて、使者を遣わしてその理由を聞かせて曰く、 世間では足を切られる者は多いのに、どうしてそんなにも悲しむのか、と。 和氏が答えて曰く、 私は足を切られたことを悲しんでいるのではありません。 宝玉であるのに石とされ、忠貞の士であるのに君を欺く者とされた事を悲しんでいるのです、と。
これを聞いた文王は玉工にその璞玉を磨かせた。すると和氏の言の通り、見事な宝玉であった。 文王はその立派さに感嘆してこう名づけた。 和氏の璧、と。
無名抄 第65話 大輔小侍従一双事
近く女歌詠みの上手にては、大輔・小侍従とて、とりどりにいはれ侍りき。
大輔は今少し物など知りて、根強(ねづよ)く詠む方は勝り、侍従は華やかに目驚く所詠み据うることの優れたりしなり。
中にも歌の返しすることの優れたりとぞ。「本歌にいへることの中に、さもありぬべき所をよく見つめて、これを返す心ばせの、あふかたきもなきぞ」とて、俊恵法師は申し侍りし。
※小侍従(こじじゅう、生没年不詳、1121~1202年頃)は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人です。
鴨長明は、当時人々の評判になっていた女流歌人として、殷富門院大輔と小侍従の両名を挙げているのです。また、落ち着いた感じの大輔に比べ、小侍従は華やかで人目を驚かすような表現を得意とし、誰よりも返歌の名手であると評したのです。
女流歌人として二人を認めつつ、実生活に積極的で華やかな大輔と内向的であるとされた小侍従の 歌の特徴を俊恵法師の言葉も引用しながら、よくいい表した評論といえるでしょう。
sechin@nethome.ne.jp です。
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