瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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『吾妻鏡』巻24 建保七年(1219)正月大七日甲戌
 建保七年(1219)正月大廿七日甲午。霽(はれ)。夜に入り雪降る。二尺餘り積る。
 今日、將軍家右大臣の拝賀の爲、鶴岳八幡宮へ御參す。酉刻御出。
   (中略)
 宮寺の樓門に入ら令(せし)め御(たま)う之時、右京兆(うけいちょう)、俄に心神に御違例の事有り。
 御劔於(を)仲章朝臣(なかあきあそん)に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱(ごげだつ)之後、小町の御亭へ歸ら令(せし)め給ふ。夜陰に及び、神拝の事終り、漸く退出令(せし)め御(たま)ふ之處、當宮別當阿闍梨公曉(あじゃりくぎょう)石階之際于(せきかいのきわに)來るを窺ひ、劔を取り丞相(じょうそう)を侵し奉る。
 其の後、隨兵等(ずいへら)宮中于(ぐうちゅうに)馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光先登(せんと)に進む〕讎敵(あだてき)を覓(み)る所無し。或人の云はく、上宮之砌(うえみやのみぎり)に於て、別當阿闍梨公曉父の敵を討つ之由、名謁被(なのらる)ると云々。之に就き、各、件の雪下本坊于(ゆきのしたぼうに)襲い到り、彼の門弟悪僧等、其の内于籠り、相戰う之處、長尾新六定景与(と)子息(しそく)太郎景茂、同じき次郎胤景(たねかげ)等先登を諍(あらそ)むうと云々。勇士之戰塲に赴く之法、人以て美談と爲す。遂に悪僧敗北す。闍梨此の所に坐し給は不(ず)。軍兵空しく退散す。諸人惘然(ぼうぜん)之外(ほか)他無し。
 爰に阿闍梨彼の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨之雪下北谷宅于〈ゆきのしたきただにたくに〉向被(むかはれ)、膳を羞(すす)める間、猶手於(なおとを)御首から放不(はなさず)と云々。使者弥源太兵衛尉〔闍梨の乳母子(めのとご)〕於(を)義村に遣は被(され)、今將軍之闕(けつ)有り。吾專ら東關之長(とうかんのおさ)に當る也。早く計議を廻らす可し之由示し合は被(さる)る。是、義村息(そく)男駒若丸(なんこまわかまる)、門弟に列するに依て、其の好を恃被(たのまる)る之故歟(ゆえか)。義村此の事を聞き、先君の恩化(おんげ)を忘不(わすれざる)之間、落涙數行(らくるいすうぎょう)。更に言語に不及(およばず)。
 少選(しばらく)して、先ず蓬屋于(ほうおくに)光臨有る可し。且は御迎への兵士を獻ず可し之由之を申す。使者退去之後、義村使者を發し、件の趣於(おもむきを)右京兆(うけいちょう)に告ぐ。々々左右(けいちょうそう)無く、阿闍梨を誅し奉る可し之由、下知し給ふ之間、一族等を招き聚(すす)め評定を凝(こ)らす。阿闍梨者(は)、太(はなは)だ武勇に足り、直也人(じきなるひと)に非(あらず)。輙く之を謀る不可(べからず)。頗(すこぶ)る難儀爲(たる)之由、各 相議す之處、義村勇敢之器を撰ば令(せし)め、長尾新六定景於(を)討手(おって)に差す。
 定景遂に〔雪下合戰後、義村宅へ向う〕辞退に不能(あたはず)。座を起ち黒皮威(くろかわおどし)の甲(よろい)を着て、雜賀次郎(さいがのじろう、西國住人、強力の者也)以下郎從五人を相具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨宅于赴く之刻(のとき)、阿闍梨者、義村の使い遲引(ちいん)之間、鶴岳 後面之峯(つるがおかこうめんのみね)に登り、義村宅于至らんと擬(ぎ)す。仍(よって)定景與(と)途中に相逢う。雜賀次郎忽ち阿闍梨を懷(いだ)き、互に雌雄を諍う之處、定景太刀を取り、闍梨〔素絹衣(すぎぬころも)に腹巻を着る。年廿と云々〕の首を梟(きゅう)す。
 是、金吾將軍〔頼家〕の御息。母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女(そんじょ)也〕。公胤(こういん)僧正に入室(じゅしつ)。貞曉僧都受法(ていぎょうそうづずほう)の弟子也。
 定景彼の首を持ち皈(かえ)り畢(をはんぬ)。即ち義村、京兆の御亭に持ち參る。々主(ていしゅ)出居(でい)にて其の首を見被(みらる)る。安東次郎忠家脂燭を取る。李部(りぶ)仰せ被(られ)て云はく。正に未だ阿闍梨之面(つら)を見奉ず。猶疑貽(ぎたい)有りと云々。
 抑、今日の勝事、兼て變異(へんい)を示す事 一非(ことひとつならず)。 所謂、御出立之期に及び、前大膳大夫入道 參進し申して云はく。覺阿(かくあ)成人之後、未だ涙之浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(じっこん)奉る之處、落涙禁じ難し、是直也事(じきなること)に非。定めて子細有る可き歟。東大寺供養之日の、右大將軍御出之例に任せ、御束帶之下に、腹巻を着け令(せし)め給ふ可きと云々。仲章朝臣申して云はく、大臣大將に昇る之人、未だ其の式有らずと云々。仍て之を止め被(らる)る。
 又、公氏(きんうじ)御鬢(ごびん)に候う之處、御鬢自(よ)り一筋抜き、記念に之を賜はると稱す。次で庭の梅を覽(み)て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
   出テイナハ 主ナキ宿ト 成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ 春ヲワスルナ
 次に南門を 御出之時、靈鳩(れいきゅう) 頻(しきり)に鳴囀(なきさえず)り、車自り下り給ふ之刻(とき)、雄劔を突き折被(おらる)ると云々。
 又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈可(きゅうだんすべ)し之旨、二位家自り仰せ下被る。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔(しゅうゆう)阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭へ具し參る。是、彼の受法の師を爲す也と云云。

現代語訳
 建保七年(1219)正月廿七日甲午。晴れましたが、夜になって雪が降り、二尺ばかり(60cm)積もりました。今日は将軍家の右大臣任命報告の拝賀のため鶴岡八幡宮へお参りします。お参りは酉の刻(午後6時)です。
   (中略)
 路地の警護の軍隊は千騎(沢山の意味)です。八幡宮の楼門に入られる時に、右京兆義時は急に気分が悪くなる事があって、将軍の太刀を源仲章に渡して引き下がり、神宮寺の所で列から離れ、小町の屋敷に帰られました。
 将軍実朝様は夜遅くなって神様への参拝の儀式が終わって、やっと引き下がられたところ、八幡宮別当(代表)の公暁が、石階の脇にそっと来て、剣をとって実朝様を殺害しました。
 その後、警護の武士達が八幡宮社殿の中へ走りあがり、〔武田信光が先頭に進みました〕下手人を探しましたが見つかりませんでした。ある人が云うには、上の宮のはしで公暁は「父のかたきを討った。」と名乗っていたとの事です。これを聞いて、武士達はそれぞれ八幡宮の雪ノ下にある御坊(八幡宮西脇の奥)へ攻めかかって行きました。公暁の門弟の僧兵達が中に閉じこもって戦っていましたが、長尾新六定景、その息子の太郎景茂と次郎胤景とが先頭を競い合いましたとの事です。勇士が戦場へ向かう心得は、こうあるべきだと人は美談にしました。(長尾は石橋山合戦で敵対したため、囚人として三浦に預けられ、被官化している。)ついに僧兵達は負けてしまいました。公暁がここにいなかったので、軍隊はむなしく退散し、皆呆然とするしかなかったのです。
 一方公暁は、将軍実朝様の首をもって、後見者の備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かいました。ご飯を進められましたが首を離さなかったとの事です。使いの者の弥源大兵衛尉〈公暁の乳母の子〉を三浦義村の所へ行かせました。「今は将軍の席が空いている。私が関東の長(将軍)に該当するべき順なので、早く方策を考えまとめるように指示しました。これは義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっているから、その縁で頼まれたからなのか。義村はこの事を聞いて、将軍実朝様からの恩義を忘れていないので涙を落としました。しかも言葉を発することもありませんでした。
 しばらくして、「私の屋敷に来てください。それに迎えの軍隊を行かせます。」と伝えるよう云いました。使いの者が立ち去った後に、義時の下へ使いを出しましたとの事です。義時からは、躊躇せずに公暁を殺してしまうように命令されましたので、義村は一族を集めて会議をしました。公暁はとても武勇にたけた人なので、たやすくはいかないので、さぞかし大変な事だろうと皆が議論していたところ、義村は長尾定景をさして勇敢な器量を持っていると討手に選びました。
 長尾新六定景〔八幡宮での合戦の後、義村の宅に向かって来ていました。〕は辞退することが出来ず、座を立って黒皮威しの鎧を着て、雑賀次郎〔関西の人で力持ちの人です。〕と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけた時、公暁は、三浦義村の使者が遅れて(いるらしくちっとも)来ないので(待ちきれずに)、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ行こうと考え(行動に移し)ました。そしたら、途中で長尾新六定景と出会い、一緒に居た雑賀次郎は(迎えにきたふりをして公暁に近寄り)即座に公暁に組み付いていきました。互いに(相手をねじ伏せようと)争っている処を、長尾定景が太刀を取って(後ろからバッサリと一刀のもとに)公暁の首を刎ねました。〔公暁は白い絹の着物に簡易な鎧の腹巻を着けていました。年齢は二十歳なんだとさ〕
 この人は、前の將軍頼家の息子で、母〔爲朝の孫娘です〕は賀(蒲)生六郎重長の娘です。公胤僧正(千葉常胤の子)に受戒を受けて出家して、貞暁僧都(前の八幡宮別当)から仏教を習った弟子です。
 長尾新六定景はその首を持ち帰りました。直ぐに義村は北條義時の屋敷へ持って行きました。北條義時は玄関の間に出てきてその首を見られました。安東次郎忠家が明かりを取って差し掛けました。北條泰時(李部は式部省の唐名=泰時)がおっしゃられました。「正に未だ公暁の顔を拝顔していないので、なお疑いがある。」との事でした。
 そもそも、今日の勝事(不吉な事を忌言葉{縁起が悪い言葉}を嫌いこう云う。「梨」を「有の実」とか「するめ」を「当たり目」と云ったり)は前々から現れていた異常な事が一つではないのです。将軍実朝様は出発の時間になって、大江広元が前へ来て云いました。「私は成人してからこの方、未だに涙を顔に浮かべた事が有りません。それなのに今、お側に居ましたら涙が流れて仕方がないのです。これは只事では有りません。何か在るのかもしれません。頼朝様が東大寺の大仏殿完成式に出た日の例に合わせて、束帯(衣冠束帯と云って公式の礼服)の下に腹巻(簡易な鎧)を着けて行かれるのが良いでしょう。」との事でした。源仲章が申し上げました。大臣大將の位まで昇った人で、未だかつてそんな式に出た人はありませんとの事でした。それでこれは取り止めとなりました。
 又、宮内公氏が将軍実朝様の髪を梳かしていたら、自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ。」と云ってこれを渡しました。次に庭の梅を見て縁起のよくない和歌を歌われました。
   「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」(出て行ってしまったら主人のいない家になってしまうけど、梅よ春になったら忘れずに咲くのですよ。)
 次に、南門を出られる時は源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたし、車から降りる時には刀を引っ掛けて折ってしまいましたとの事です。
 又、今夜のうちに公暁の仲間を糾弾するように、二位家(政子)から命令が出ました。信濃國の住人で中野太郎助能は少輔阿闍梨勝円を捕虜にして北条四郎義時の屋敷に連れて来ました。是は公暁の受法の師匠だからとの事です。


 


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