瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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古近著聞集 212 「西行法師が御裳濯歌合ならびに宮川歌合の事」
 圓位上人(西行)昔者よりみづからがよみをきて侍る哥を抄出して、三十六番につがひて御裳濯哥合と名づけて、色々の色紙をつぎて慈鎭和尚(慈圓)に淸書を申、俊成卿(藤原俊成)に判の詞をかゝせけり。
 又一卷をば宮河哥合と名付て、是もおなじ番につがひて、定家卿(藤原定家)の五位侍從にて侍ける時判ぜさせけり。
 諸國修行の時もおひに入て身をはなたざりけるを、家隆卿(藤原家隆)のいまだわかくて坊城侍從とて、寂蓮(藤原定長。藤原俊成養子)が聟にて同宿したりけるに尋行ていひけるは、
「圓位は往生の期既に近付侍りぬ。此哥合は〔合は、一本旡〕愚詠をあつめたれども秘藏のもの也。末代に貴殿ばかりの哥よみはあるまじき也。おもふ所侍れば付屬し奉る也といひて、二卷の哥合をさづけゝり。
 げにもゆゝしくぞそう〔そう、一本作さう〕したりける。彼卿非重代の身なれども、よみくち世おぼえ人にすぐれて、新古今撰者にくはゝり、重代の達者定家〔定家以下廿一字、一本脱〕(いみじき事マデ)卿につがひて其名をのこせる、いみじき事也。
 まことにや後鳥羽院始めて哥の道御さた有ける比、御京極殿(藤原良經。藤原兼實男)に申合參らせられける時、彼殿奏せさせ給けるは、
「家隆は末代の人丸にて候也。かれが哥を學ばせ給ふべし」
と申させ給ひける。
 これらを思ふに上人の相せられける事おもひ合せられて、目出度おぼえはべる也。

現代語訳
 円位(西行の法名)上人は、昔から自分で詠んでおいた(歌の中から、よい)歌を選び出して、三十六番(対)に合わせて、御裳濯(みもすそ)歌合と名付けて、いろいろの色紙を継いで(継いだ紙に)、慈鎮和尚(慈円)に清書をお願いし、藤原俊成卿に判の詞(批評のことば)を書いてもらった。
 またもう一巻を宮河歌合と名付けて、これも同じ三十六番に合わせて、藤原定家卿(俊成の子)が五位の侍従でいらっしゃった時、批評してもらった。
 (西行は)諸国修行の時も、(この二巻の歌合を)笈(リュックサック)に入れて、肌身はなさず持っていたが、藤原家隆卿がまだ若くて、坊城の侍従と言われていて、寂蓮(俊成の養子)の娘婿で、(寂蓮と)いっしょに住んでいたところに、(西行が)尋ねて行って言うことには、
「円位(私)は往生の期(死期)がもう近づいております。この歌合は私のつまらない歌を集めたものですが、(私にとっては)秘蔵の物です。(いまのような)末の代に、あなたさまほどの(すぐれた)歌人はございません。思うところがございますので、お預け申し上げます。」と言って、


その二巻の歌合を(家隆に)与えたのだった。
 まことにみごとに(家隆の将来を)予見したものだ。かの卿(家隆)は、代々歌にすぐれた家系の人ではないが、詠みぶり、世間の評価ともに余人にすぐれていて、『新古今集』の撰者に加わって、代々の歌にすぐれた家系の達人である定家卿と共同作業をしてその名を残したことは、すばらしい事だ。
 さて、後鳥羽院がはじめて歌の道を学ぼうとなさったころ、後京極殿(藤原良経)にお問い合わせなさった時、かの殿(良経)が奏上なさったことには、
「家隆は末代(現代)の人丸(柿本人麻呂、和歌の神様といわれる)でございます。彼(家隆)の歌をお学びになるとよいでしょう。」
 これらのことを思うと、上人(西行)が予見された事を思い合わせられて、ありがたいことだとお思い申した。

※西行が家隆に託したのは『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』と『宮河歌合』でした。
 これらは自作の和歌による自歌合(じかあわせ)で、慈鎮(じちん=慈円 九十五)に清書してもらったともいわれ、前者は藤原俊成に、後者はその息子定家に判詞(はんし)を依頼したという贅沢なものです。
 歌合は通常何人かの歌人が左右の陣に別れ、一首ずつ出し合って勝敗を決めるもの。それを自分ひとりの歌で行うのが自歌合です。判詞は優劣の判定とその理由を述べた文を指します。これらの歌合は伊勢神宮に奉納するためのものでした。
 判詞を頼まれた俊成は何度も辞退したそうですが、西行ほどの歌人の作品に優劣をつけるなど恐れ多いと思ったのでしょう。
 俊成がなかなか受け取らないので、西行は『御裳濯河歌合』の表紙にこんな歌を書きました。
   藤浪をみもすそ川にせき入れて もゝえの松にかけよとぞ思ふ(風雅和歌集 神祇 西行法師)
  「藤浪」は藤原氏の系統を意味する言葉です。俊成はもちろん、西行もそのルーツは藤原氏です。その流れを伊勢神宮を流れる御裳濯川に合流させ、神にささげようというのです。「ももえ」は「百枝」で、多くの枝が茂った立派な松ということ。こちらは伊勢の内宮にあった松の巨木を指していると思われます。
 俊成はこの歌に説得され、判詞を引き受けました。そしてすべての判詞を書き終えた最後に、このように書き添えています。
   藤波も御裳濯川の末なれば しづ枝もかけよ松の百枝に(風雅和歌集 神祇 皇太后宮大夫俊成)
  〔藤原氏も伊勢の大中臣(おおなかとみ)氏の末裔ですから百枝の松の下枝(しづえ)にすぎないわたしですが(あなたの歌に判詞を添えて)神に奉りましょう〕
 家隆に託された二巻はその後大切に伝えられ、現代のわたしたちも判詞とともに読むことができます。 


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