瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 横浜在住のIN氏よりメールが入りました。曰く、
2017年4月8日12時19分着信 題  実朝と御札の効き目
 日高節夫様
 百人一首に続いて、君の研究対象は、金槐和歌集に突入したらしいと推測しています。
 私は、鎌倉幕府は、門司高校時代に、「修善寺物語」の上演にかかわったせいか、二代将軍・頼家に関心がありました。(「修善寺物語」には実朝は登場しませんが)、三代・実朝は国語の教科書の中に、たぶん金槐和歌集の中に出てくる歌なのでしょう、
〽(上の句はウロ覚え)箱根路をわが越え来れば伊豆の海の …… 沖の小島に波の寄る見ゆ
という短歌があったのを覚えています。これは教科書にも載っていましたので、覚えました。まるで高い崖の上から眼下の相模湾を見下ろしているような絵画的な歌でした。

 実朝については後年、関東に住むようになって、鶴岡八幡宮にも何度もお参りし、今年やっと浪人生活にピリオドを打った孫の合格祈願も湯島天神よりも、鶴岡八幡宮は効き目が悪かったように思います。
 今年は、受験生の父である息子も、出張するたびに、その土地の合格祈願の御札を買ってきました。そのなかの、どの神社が効いたのかは定かではありませんでしたが、私は鶴岡は、一浪の時にすでに、縁を切って、亀戸天神と湯島天神に絞りました。それで良かったか悪かったかは明らかではありませんが、たぶん応分の効き目はあったのでしょうかね。
 それにしても今思い出してみますと、金槐和歌集の実朝の歌が印刷されていた教科書は、新聞社が新聞用紙を都合してくれた、いわば流用の教科書で、ナイフで裁断して、自分で本に綴じて体裁を整えた教科書でした。そんな教科書でも、名歌を覚えているものですね。
 遠い時代の追憶です。  IN

 昨日は、福岡在住の甥が訪ねてくれました。昨年12月に生まれた孫の「お食い初め」で上京したということでした。孫の名前が「琴」で、偶然私の叔母の名前と同じということで、しばし私の祖母・母・父・伯母などの今は亡き人たちの話をすることになりました。列車からでしょうか、早速ここで撮った写真を送ってくれました。
2017年4月9日12時58分  題 写真
 お世話になりました。  苺喰み遠き故人を偲ぶかな


西園寺公経の事
「増鏡」内野の雪
 今后の御父は、先にも聞こえつる右大臣実氏(さねうぢ)の大臣(おとど)、その父、故公経(きんつね)の太政大臣(おほきおとど)、その上(かみ)夢見給へる事ありて、源氏の中将童病(わらはやみ)呪(まじなひ)給ひし北山のほとりに、世に知らず由々しき御堂(みだう)を建てて、名をば西園寺(さいをんじ)と言ふめり。この所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲(すけなか)の領なりしを、尾張国松枝と言ふ庄に替へ給ひてけり。もとは、田畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、さらにうち返し崩(くづ)して、艶々(えんえん)なる園(その)に造りなし、山のたたずまひ木深(こぶ)かく、池の心豊かに、海神(わたつみ)を湛(たた)へ、峰より落つる滝の響きも、げに涙催(もよほ)しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来はまことに妙(たへ)なる御姿、生身(しやうじん)もかくやと、厳(いつく)しう顕(あらは)され給へり。
 また、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院(くどくざうゐん)は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝の下もとには不動尊。この不動は、津の国より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉りて、さし歩みておはしたりき。その簔笠は宝蔵(ほうざう)に籠めて、三十三年に一度出ださるとぞ承(うけたま)はる。石橋の上には五大堂。成就心院(じやうじゆしんゐん)と言ふは愛染王(あいぜんわう)のまさまさぬ秘法(ひほふ)とり行はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟数珠(ずず)の糸まで、同じ色にて侍るめり。また、法水院(ほすゐん)化水院(けすゐん)、無量光院(むりやうくわうゐん)とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿に大臣は住み給ふ。廻れる山の常盤木(ときはぎ)ども、いと旧(ふり)たるに、なつかしきほどの若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣(おとど)うそぶき給ひけり。
  山桜 峰にも尾にも 植ゑ置かん 見ぬ世の春を 人や忍ぶと



現代語訳
 今后(第八十八代後嵯峨天皇中宮、西園寺きつ子)の父は、先ほど申し上げた右大臣実氏大臣(西園寺実氏)でございますが、実氏大臣の父、故公経太政大臣(西園寺公経)が、その昔夢を見られて、源氏中将(光源氏)が童病([悪寒・発熱が、隔日または毎日、時を定めておこる病気])を呪われた([災いや病気を避けるために神仏などに祈る])北山のほとりに、世にないほどに厳めしい御堂を建てられて、名を西園寺(かつて現京都市北区にあった寺。今は金閣寺が建っている)と申されたのでございます。この所は、伯三位資仲(仲資王。源仲資。神祇伯=神祇官の長官)の領地でしたが、尾張国松枝という庄(現愛知県一宮市)と交換したものでございました。もともとは、田畑が多く、たいそう田舎っぽい所でございましたが、その場所を掘り起こし地をならして、みごとな園を造って、山のたたずまいは木深く、池の水豊かにして、まるで海神([海])のよう、峯より落ちる滝の音も、涙をさそう、趣き深い様でございました、本堂は西園寺、本尊の如来はまことに美しいお姿で、生身もこのようであられたのかと思われるほどに、厳めしいお姿でございました。
 また、善積院は薬師如来、功徳蔵院は地蔵菩薩(槌止〈つちとめ〉地蔵? 現存)でございます。池のほとりには妙音堂、滝の下には不動尊が立っておられます。この不動は、摂津国より生身の明王が、簔笠を着て、歩いてこられたということでございます。その簔笠は宝蔵に納められて、三十三年に一度出されるとお聞きしております。石橋の上には五大堂。成就心院と申す所では愛染王の秘法([愛染王法]=[愛染明王を本尊にして修する密教の修法])を執り行っております。供僧も紅梅の衣で、袈裟数珠の糸まで、同じ色でございます。また、法水院・化水院、無量光院とか申して、来迎の様子を描いた、弥陀如来・二十五の菩薩が、虚空に現じたお姿もございました。北の寝殿に太上大臣(西園寺公経〈きんつね〉)は住んでおられました。周りの山の常盤木は、たいそう古うございましたが、都を偲ばれて若木の桜を植えられて、大臣(西園寺公経)は歌を詠まれました。
    山桜を峰にも尾にも植えておこう。わし亡き後にこの桜を見て、わしのことを思い出してもらえるように。


 


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