瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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「増鏡」おどろのした
 内侍所・神璽(しんし)・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫に率ゐておはしにければ、こたみ初めて三種の神器なくて、珍しき例(ためし)になりぬべし。後にぞ内侍所・印の御箱ばかり帰かへり上りにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。かくてこの御門、元暦元年七月二十八日御即位、そのほどの事、常のままなるべし。平家の人々、いまだ筑紫に漂ひて、先帝と聞こゆるも御兄このかみなれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひ遣られて、いと忝し。
 同じき年の十月二十五日に御禊(ごけい)、十一月十八日に大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基(すき)方の御屏風の歌、兼光の中納言と言ふ人、丹波国長田(をさだ)村とかやを、
    神世より けふのためとや 八束穂に 長田の稲の しなひそめけむ
 御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじう美しと思さる。文治ぶんぢ二年十二月一日、御書始ふみはじめせさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年、女御参まゐり給ふ。月輪つきのわの関白殿の御娘なり。后立ちありき。後には宜秋門院ぎしうもんゐんと聞こえ給ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞こえ給ひし姫君ばかりおはしましき。建久けんきう元年正月三日、御年十一にて御元服し給ふ。
 同じき三年三月十三日に、法皇隠れさせ給ひにし後は、御門ひとへに世を知ろし召して、四方よもの海波静しづかに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、遍あまねき御美いつくしびの浪、秋津島の外まで流れ、繁き御恵み、筑波つくば山の陰よりも深し。万よろづの道々に明らけくおはしませば、国に才ざえある人多おほく、昔に恥ぢぬ御代にぞありける。中にも、敷島の道なん、優れさせ給ひける。御歌数知らず人の口にある中にも、
   奥山の おどろの下も 踏みわけて 道ある世ぞと 人に知らせん
 と侍るこそ、政まつりごと大事と思されけるほど著しるく聞こえて、いといみじくやむごとなくは侍れ。

現代語訳
 内侍所([八咫鏡やたのかがみ])・神璽([八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])・宝剣([草薙くさなぎの剣])は、譲位の時に必ず渡されるものでございましたが、先帝(第八十一代安徳天皇)が筑紫(太宰府)に持って参られましたので、この度は三種の神器はございませんでした、珍しい例となったのでございます。後に内侍所・印の御箱([八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを入れておく箱])だけは戻って参りましたが、宝剣は、先帝(安徳天皇)が海に入られた時に、身に付けて沈まれたので帰ってきませんでした、とても残念なことでございました。こうしてこの帝(第八十二代後鳥羽天皇)は、元暦元年(1184)の七月二十八日に即位されましたが、その儀式は、いつもと変わるところはございませんでした。平家の人々は、まだ筑紫(九州)におられて、先帝も帝の兄であられましたので、かの地でこれを伝え聞く平家の者たちも、上下なくそのようなこともあろうかと、申し訳なく思われたのでございました。
 同じ年(寿永二年(1183))の十月二十五日に御禊([即位後の大嘗祭の前月に、天皇が賀茂川などに臨んで行なったみそぎ])、十一月十八日に大嘗会([天皇即位後、天皇自らが初めて新穀を神々に供える祭事])がございました。主基([大嘗会で神事に用いる新穀を捧げる国郡])方の屏風の歌には、兼光中納言(藤原兼光)と言う人が、丹波国長田村とかでございましたか、
   神世より今日のために続いてきたものでございましょうか、八束穂([長い穂])の長田の稲は豊かに実り、帝(第八十二代後鳥羽天皇)に頭を垂れておりまする。
 帝(後鳥羽天皇)はたいそう大人びて賢くあられましたので、法皇(第七十七代後白河院)もとても美しいと思われたのでございます。文治二年(1186)十二月一日、書始め([貴族の子弟が、七・八歳になって初めて読書をする儀式])がございました。御年七つでした。同じ文治六年(1190)には、女御が参りました。月輪関白殿(九条兼実かねざね)の娘(九条任子〈にんし〉)でございました。后に立たれました。後には宜秋門院と呼ばれたお方でございます。この腹に、春花門院(昇子〈しようし〉内親王)と呼ばれた姫君ばかりがおられました。建久元年(1190)正月三日に、御年十一で元服なさいました。
 同じ文治三年(1192年)三月十三日に、法皇(第七十七代後白河院)がお隠れになられた後は、帝(第八十二代後鳥羽天皇)が世を治められて、国内は平穏で、吹く風も枝を鳴らさず、世は治まり民は安心して、慈しみの浪は、秋津島([日本])の外まで流れ、お恵みは、筑波山の陰よりも深いものでございました。どんな道々にも明るくございますれば、国に才能のある人も多く、昔に恥じない時代でございました。中でも、敷島の道([和歌])に、優れておられました。歌は数知れず人の口に上りましたが中でも、
   奥山の棘(おどろ、[草木・いばらなどの乱れ茂っていること])の下も踏み分けて、前途ある世の中であることを万民に知らせなくては。
と詠まれるほどに、政を大事に思われておられると聞こえて、たいそうありがたいことと思ったものでございます。


 


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