瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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(あし/よし)を詠める歌1
 池や沼などに生えるイネ科の多年草です。かなり大きくなり、3メートル近くまでにもなります。茎は硬く、中空で節があります。
 葦(あし)という呼び名は、「悪()し」を思い起こさせるので、後にヨシ(良し)に変えられました。植物分類学では「ヨシ」を標準和名としているそうです。
 万葉集には50首ほどに登場します。雁や、港などといっしょに詠まれた歌も多いようです。

1-0064:葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ

◎この歌は文武天皇が難波宮に行幸された時に従駕した志貴皇子(しきのみこ)が詠んだ一首です。志貴皇子は天智天皇の皇子でしたが、壬申の乱のときにはまだ幼かったために命を奪われずにすみました。
 難波宮は現在の大阪市中央区にあり孝徳天皇のころに京のあった場所です。志貴皇子たちが訪れたこの時期にはすでに京は大和の明日香を経て藤原京に遷っており、難波宮の宮室も686年の火災で全焼したあとでしたがかつての宮としての機能そのものはまだ残っていたのでしょうね。そんな難波宮での寒き夕べに大和を思い出して詠まれた一首ですが、この歌も大和の土地そのものというよりはそこに残してきた妻を想っての歌のように思えます。遠き難波の地での夕刻に、心も身体も凍えて消えてしまいそうな不安を大和の妻を一心に想うことで鎮めようとしたのでしょう。
巻2-0128:我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし

◎『万葉集』の歌人。集中、石川郎女(女郎)と表記される人物が多く、それぞれ同一かどうか古来論議の的となってきましたが、
(1)天智(てんじ)朝(661671)に久米禅師(くめのぜんじ)と贈答した人、
(2)持統(じとう)朝(686697)に大津(おおつ)皇子、草壁皇子と贈答した人、
(3)文武(もんむ)朝(697707)に大伴田主(おおとものたぬし)、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)と贈答した人、
の3人に分ける説が穏当でしょう。(1)には恋の掛け合いの巧みさがみられ、(2)には政治的な抗争を背景とする両皇子への恋物語的な興味が寄せられ、(3)には歌のやりとり自体の社交的なおもしろみが込められています。(1)(2)(3)はそれぞれの時代の恋歌表現の典型を示しているとみられます。
※大伴田主(おおとものたぬし、生没年不詳)
 奈良時代の歌人。大伴安麻呂(やすまろ)・巨勢郎女(こせの-いらつめ)の子です。大伴旅人(たびと)の弟になります。「万葉集」巻2に「容姿佳艶(かえん)にして風流秀絶なり」とあり、石川郎女との贈答歌が1首のこされています。字(あざな)は仲()(ちゅうろう)とあります。
巻2-0167:天地の初めの時ひさかたの天の河原に.......(長歌)
標題:日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
標訓:日並皇子尊(ひなめしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
原文:天地之 <初時> 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
          万葉集 巻2-0167
        作者:柿本人麻呂
よみ:天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]

意訳:天地創造のはじめのときに遥か彼方の天の河原に、八百万、一千万の神々がお集まりになって、神々をそれぞれの支配すべき国々に神としてお分かちになったとき、天照大神は天を支配されるというので、その下の葦原の中つ国を天地の接する果てまで統治なさる神の命として、天雲の八重に重なる雲をかき分けて神々しくお下りになった天高く輝く日の皇子は、明日香の浄御原の宮に神として御統治なさり、やがて天上を天皇のお治めになる永生の国として天の石門を開いて神としてお登りになった。その後わが大君たる皇子の尊が天下を御統治なさったなら、春の花のように貴いことだろうと、満月のようにみち足りることだろうと、天下のあちらこちらの人々がまるで大船のような大きな期待をもって、天からの慈雨を待ち仰ぐようであったのに、どうしたことか、ゆかりもない真弓の岡に宮殿の柱をりっぱにお建てになり宮殿を高々とお作りになって、毎朝の奉仕にもおことばを賜らぬ月日が多くなったことだ。そのために皇子の宮にお仕えした人々は、どうしたらよいか途方にくれているのです。
◎この歌は草壁皇子が亡くなったのを悼み柿本人麿が詠んだ長歌です。
 大津皇子謀殺の原因としてこの草壁皇子との皇位争いがあったこともあり、あまりよい印象をもたれている方は少ないかも知れません。
 しかし、これ以後紹介する草壁皇子に仕えた柿本人麿や舎人(宮殿などに出仕し仕える人々)が草壁皇子の死を悲しんで詠んだ挽歌を読んでいただければ、この皇子もまた多くの人々に慕われていたことを実感していただけるかと思います。もちろん、宮廷歌人や舎人たちが支配階級である草壁皇子の死を悼んで詠んだわけですから、多少大げさな表現になってしまうのは仕方のないことですし、歌の内容をそのまま彼らの心と解釈してしまうのも危険ですが、それでもそこから読み解ける真実の想いがあるように思います。
 生まれながらにして病弱だったために皇位争いでは不利な立場に居た草壁皇子。しかし、その人柄はやはり舎人たちの歌に詠われるように、人々に愛され慕われるものだったのではないでしょうか。


 

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