昨日のブログに続いて、宇治拾遺物語から干鮭の話を紹介します。
巻十二 (144)聖宝僧正、一条大路渡る事
昔、東大寺に上座法師のいみじくたのしきありけり。露ばかりも、人に物与ふる事をせず、慳貪に罪深く見えければ、その時聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、物惜む罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆に僧供(そうぐ)引かん」といひければ、上座思ふやう、物あらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんもよしなし。さりながら衆中にてかくいふ事を、何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭の日、真裸にて、褌(たふさぎ)ばかりをして、干鮭(からざけ)太刀にはきて、やせたる牝牛(めうし)に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。然らば、この御寺の大衆より下部にいたるまで、大僧供引かん」といふ。心中に、さりともよもせじと思ひければ、固くあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、金打ちて、仏に申して去りぬ。
その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集りぬ。上座もありけり。暫くありて、大路の見物の者ども、おびただしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出して、西の方を見やれば、牝牛(めうし)に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高くいひけり。その年の祭には、これを詮にてぞありける。
さて大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。この事帝聞し召して、「聖宝は我が身を捨てて、人を導く者にこそありけれ。今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて召し出して、僧正までなしあげさせ給けり。上の醍醐はこの僧正の建立なり。
訳)昔、東大寺の上座法師に、たいへんな富裕な者がいた。それでいて、この法師は露ほども人に物を恵まず、ケチ・慳貪の罪を深くしているように見受けられたから、あるとき、当時はまだ若かった聖宝僧正が、この上座法師が物惜しみの罪がひどいというので、わざと口論をしかけた。「御坊は、何を為したら、寺内の大衆へ饗応をされますか」と言いかけると、上座の法師が思うには、(争論になり、もし負ければ饗応せざるをえなくなる。とはいえ、衆人の中でこのように言われ、何とも答えぬのも口惜しい。この男がとても出来ないようなことを言うしかない)と思いを巡らせると、
「賀茂祭の日、貴僧が、真っ裸でふんどし一つ締めて、干し鮭を太刀のようにさし、痩せた雌牛に乗って一条大路を大宮から河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と高く名乗りながら練り歩いたなら、寺の大衆から下々に至るまで、大いに饗応をしよう」と言った。
心中に、まさかするわけがないと思うので、強く言い張ったのである。聖宝は、大衆をみな集めて、大仏の御前で金を打ち叩き、仏に誓って立ち去った。
さて、賀茂祭の日、その時も近くなって、一条富小路に桟敷を設けて、聖宝の練り歩きを見物しようと、寺の大衆がみな集った中に、例の上座法師もいた。やがて、大路の見物衆がさかんに騒ぎ始めた。何事――と思い、人々が頭を突き出して西の方を見れば、牝牛に乗った裸の法師が、干し鮭を腰に差し、牛の尻をはたはたと打ちながら、さらに後へ、百人千人という童子の集団を引き連れて、
「東大寺の聖宝が、上座と争論し、ここを押し渡るものなり」と、高々と叫んでいるのである。この年の賀茂祭は、これが最上の盛り上がりであった。そうして大衆は、それぞれ寺へ帰ると、上座法師に大いに饗応させるのだった。さらに、このことは帝の御耳へ達して、
「聖宝は我が身を捨てて、人を導くことのできる者である。今の世に、どうしてこれほど貴い人がいるのか」と、召し出されて、聖宝を、僧正の位にまでのぼらせたのだった。醍醐寺は、この僧正が建立したものである。
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