明の趙南星の『笑賛』65話に次のような話が載っています。
王安石はしきりに文字学を研究していたが、ある時、
「波は水の皮だ」と言った。すると、蘇東坡が、
『じゃ、滑は水の骨というわけですな』
賛に曰く、
王安石の謬(あやま)りはこの通りであった。彼が宰相となって天下を乱さずに済むはずはなかったのだ。最近張新建(ちょうしんけん)という人は文字学から仙道を悟って、ひそかに姜忠文(きょうちゅうぶん)に伝えた。
「婦人の唾液は華池神水と申してな、いつもこれを吮(す)ってな吞むがよろしい。そうすればながいきできます。活という字は千口水ですから」
忠文は仁者なればこそ長寿を得たのであって、この法を用いたからではなかった。しかし、新建はそんな年でもないのに早く死んでしまったが、あれは多分神水の呑み方が少なかったからであろう。惜しいかな。
後漢書五行志に
「獻帝踐祚の初、京都の童謠に曰く、千里の草、何ぞ青青たる。十日卜するに、生きるを得ざらんと。案ずるに、千里草は董と為し、十日卜は、卓と為す。凡そ別字の體は、皆な上より起り、左右に離合す。下より端を發する者有る無きなり。今二字此くの如き者は、天意に卓は下よりして上を摩し、臣を以て上を陵ぐと曰ふが若きなり」とあります。
後漢の最後の帝王である献帝(在位189-220)の即位したころ、都に、千里草 何青青 十日卜 不得生(千里の草、何ぞ青青たる。十日の卜、生きることを得ず)という童謡がはやった。これは董卓(139-193)が君を凌ぐが後に没落する前兆である。千里草で董、十日の卜で卓、それが初めは青々としているが生きられないということです。董卓が殺される前に聞こえてくることになっています。
世説新語(捷悟篇第十一)の捷悟とは素早く悟るといういみで、この篇には機知にとんだ人々の挿話が集められています。楊脩と曹操の逸話について次のような記事があります。
1、楊徳祖(楊脩)は魏の武帝(曹操)の主簿だった。そのころ相国門(丞相府の門)を作り、たるきの組み立てができたばかりの時、魏の武帝はみずから門の所へうち眺め、門に題額をかけ、「活」の字を書き入れさせて立ち去った。楊徳祖はこれを見ると、すぐにこれを打ち壊させ、すっかり終わるといった。
「門の中に活があるのは、闊の字になる。門の大きいことこそ、王(武帝)の嫌われることだ」※ 闊は、大きい、広いの意。当時曹操は後漢王朝の実権を握り、簒奪の噂が仕切りであったから大きい門は避けるべきだとの意である。
2、ある人が魏の武帝に酒器一杯の酪(酪、チーズのようなもの)を贈った。魏の武帝は少しばかり飲んだ後、ふたの上に「合」の字を書いて、一同の者に示した。一同は何のことかわからない。順番が楊脩の所へ来た時、楊脩はこれを飲んでいった。
「公は皆の者に一口ずつ飲めと命令されているのだ。何もふしぎがることはない」
※ 原文は「公は人を教(し)て噉(くら)うこと一口ならしむなり、また何ぞ疑わん」とある。「合」の字を分解すると「人ごとに一口」となる。
3、魏の武帝(曹操)は、ある時曹娥の碑のそばを通りかかった。楊脩が随行していた。その碑の裏面に「黄絹・幼婦・外孫・齏臼」の八字が刻まれていうのを見て、武帝は脩に言った。「わかるかね。」
答えて言った。「わかりました。」
武帝は言った。「(答えは)まだ言わないでおいてくれ。わしが考えてわかるまで待ってくれ。」
それから三十里ほど行くと、武帝はやっと言った。「わかったぞ。」
脩には回答を別に書かせてから答えさせた。
「『黄絹』とは色糸のことです、文字にすると『絶』となります。『幼婦』とは『少女』です。文字にすると『妙』になります。外孫とは『女(むすめ)の子』です。文字にすると『好』になります。『齏臼』とは『辛(からし)を受け入れる器』です。文字にすると『辞』になります。つまり(この八字)は所謂『絶妙好辞』(すばらしい言葉。表面の碑文を讃えたのである)ということになります。」
武帝の方でも、脩と同様の回答を書きつけてあった。そこで感嘆して言った。「わしの才が、君に三十里及ばないことが今にしてわかったよ。」
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