瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 此処の所歯医者通い。しばらく、歯医者から遠ざかっていたが、部分入れ歯の支えになっている歯が、虫歯になったらしく、ぐらついてきた。しばらく、そのままにして置いたら、その支えの歯に詰め込んであった銀の詰め物が外れ、今月の中旬から歯医者通いすることになった。本日は3度目であるが、1回の診療が30分~45分はかかる。以前はそんなことはなかったのだが、兎に角疲れる。点検診療の通知のはがきは貰うのであるが、サボっていたため、方々の傷みが見つかり、あと2・3回の診療が必要だという。

9abf211d.JPG       歯が抜けた 
                  韓愈
 去年脇の歯が一本抜け 今年は前歯が一本抜けた
 見る見るうちに六七本抜けたが 抜ける勢いは一向に止まない
 残った歯も皆ぐらぐらする 全部抜けないとこれは止まらぬらしい

 思えばはじめ一本抜けた時は 口に隙間が出来て恥ずかしいと思っただけだったが
 二三本抜けた頃になって 老衰して今にも死ぬのかと心配になった
 一本抜けそうになるたびに いつも心中びくびくしたもので
 どうも引っかかって食事の邪魔になり 揺れ動いて含嗽にもきになるほどだったが
26a71076.JPG とうとう私を見棄ててぬけてしまえば 山が崩れたような気持ちがした

 だが今は抜けるのに慣れてしまい いくら抜けてもおなじようなもの
 後に残った二十本あまりも どうせ次々にぬけるのだろう
 もし毎年一本ずつ抜けたとしても 二十余年は十分にもつわけだ
 一度に全部が抜けてしまっても 少しずつ抜けるのと結局は同じこと

 人は言う歯が抜ければ 寿命も当然保ちがたいと
 だが私は言う人生には限りのあるもの 長命でも短命でもみんな死ぬのさ
 人は言う口に隙間が出来れば 傍の人々が驚いてじろじろみるだろうと
 だが私は言う荘周も言ったように 木にも雁にもそれぞれ幸運がある
 物が言いにくければ黙っているのはよいことだ 物が噛めなければ柔らかいものが美味くなる
 こう歌いつつ私は一首の詩を作り上げた これを妻子にみせびらかせてやろう

14c89f3c.JPG荘子(そうじ) 山木(さんぼく)第二十  (冒頭部より)
 荘子が山中を行ったところ、枝葉がこんもり茂った大木を見た。しかし木を伐る者が、その傍らに立ち止まって取ろうとはしない。そのわけを訊ねると、使いようがないからだという。
荘子「この材木は不材であるがために、その天寿を全うすることができたのだ」
 荘子が山を降りて旧知の家に泊まった。旧知は喜んで、堅子(しもべ)に雁(鵞鳥)を殺して、煮るようにと命じた。堅子は、「一羽はよく鳴き、一羽は鳴きませんが、どちらを殺しましょうか」というと、主人は、「鳴かないのを殺せ」と命じた。翌日弟子は荘子に訊ねた。
「昨日の山中の木は不材だというので、その天年をまっとうすることができた。いま、主人の雁は不材のために死ぬことになりました。先生なら、どちら側に立とうとなさいますか」
 荘子は笑って言う。
「周は材と不材の間に立つことだろう。といって材と不材の間というものは、似て非なるものだ。だから累は免れまい。ところが、道徳に乗じて浮遊するものはそうじゃない。誉もなければ訾(そしり)もない。あるいは龍となりあるいは蛇となって、時と共に変化して、固執しようとはしない。あるいはのぼり、あるいはさがり、和〔同〕を量〔度(規準)〕とする。万物の祖に浮遊し、物を物とするが物から物されることはない。そうしたらどうして累(わずら)わすなどということができようね。これが神農・黄帝の法則なのである。しかるに、万物の情や人間の伝承といったものは、そうではない。合えば離れ、成就すれば毀(やぶ)れ、廉(かど)があれば挫(くじ)かれ、尊ければ非難され、有爲なものはそこなわれ、賢いものは謀られ、不肖のものは欺かれる。そしたらどうして必然だなどということができようね。かなしいことだね、弟子たちよ! これを心にしてしておくがよい。あとはただ道徳の郷しかないのだよ」 (中国古典文学大系4)

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絶聖棄智(聖人とか智者を断ち棄てる)
 昨年は二か月間にわたって歯の治療を受けたことがあります。なので瘋癲爺の気持ちがよくわかります。あせらずに通ってくださいね。
 ところで、荘周の文章は面白いですね。彼の思想は同じ道家たる老子とダブってしまう部分がかなりありますね。後天的知識や頭脳の良しあしによる判断の結果としての「材」と「不材」は、かれらにとってとんでもないことです。同じ趣旨を表わすものとしては「無為自然」や「絶聖棄智」という老子の言葉もあります。
 生涯、勉強し、生存のために利益を追い求めたりする俗世間の我々はほんとうに幸せでしょうかね?一方で老荘みたいに、だれとでも争うことなく、時の流れに身をまかせるだけの人生は絶対不幸せだ!とはいえないでしょうね(浮浪者は別に)。
シン 2011/05/31(Tue) 編集
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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