瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 「折角」と「折檻」は双生児といっていいでしょう。どちらも「折」という字が頭にくっついていますし、どちらも出典は『漢書』ですし、どちらもエピソードの主人公は朱雲という人物なのです。しかも、ごていねいに、どちらも日本で頻繁に用いられている言葉なのに、どちらももともとの意味とは異なった用法になっています。まったくこれほど双生児的なことばもめずらしいでしょう。
 朱雲という人は、「漢書 朱雲伝」によれば、次のように述べられています。
 朱雲、字は游(ゆう)、魯(山東省)に生まれ、平陵(陝西省咸陽県西北)に移った。若い頃、侠客とつきあい、侠客の手を借りて仇討ちをしたことがある。身長八尺余り、風采頗る堂々としている。勇気と腕力で有名であった。 四十になってから、心を改め博士の白子友について『易』を学び、また前将軍(全軍の将軍)蕭望之(しょうぼうし)について『論語』を習った。『易』『論語』とも師匠の奥許しを受けた。小さい俗事にこだわらず、親分肌である。世間はそれで朱雲を尊敬した。――平凡社、中国古典文学大系13 漢書・五漢書・三国志列伝選より――
 同じ「漢書 朱雲伝」の記述に次のようにあります。
 このころ、少府(九卿の一つ、天子の給養を司る)の五鹿充宗(ごろく じゅうそう、生没年不詳)は、身分が高く艇の覚えもめでたい。これが梁丘易(梁丘賀の始めた易学の一派)を修めていた。宣帝の時から梁丘氏の説がよしとされたが、元帝はとくにこれを好んだ。他の説との異動を調べようと思い、充宗と他派の易学者との討論を命じた、充宗は身分をかさに、雄弁にしゃべる。学者の中、対抗できるものはいない。それで仮病を使って誰も参集しない。 朱雲を薦めたものがある。雲は召し入れられた。裳裾をからげて座敷に登ると、昂然と顔を挙げて質問する。その声は辺りをぴりぴりと振るわせる。論戦になると、しきりに五鹿充宗の痛いところを突いた。儒者たちは次のような文句を作ってはやし立てた。
   五鹿は嶽々(角が長い)たるも、  朱雲はその角を折る。
 これで博士に任ぜられた。杜陵(陝西省長安県)の県令に転出。わざと亡命者を逃して、罪に問われたが、丁度大赦があって、罪を免れた。方正(登用の一資格)に選ばれ、槐里の県令となる。――上記古典文学大系13より――

 「折角」をウェブの語源辞典で調べてみました。
 折角【せっかくの語源・由来】
 せっかくは、「せっかくお誘いいただいたのに」や「せっかく来たのに」など副詞として用いられることが多いが、本来は「力の限り尽すこと」「力の限りを尽さなければならないような困難な状態」「難儀」の意味で名詞である。
 名詞の「せっかく」は、「高慢な人をやり込めること」を意味する漢語「折角」に由来し、漢字で「折角」と表記するのも当て字ではない。
 漢語の「折角」は、朱雲という人物が、それまで誰も言い負かすことができなかった五鹿に住む充宗と易を論じて言い負かし、人々が「よくぞ鹿の角を折った」と洒落て評したという『漢書(朱雲伝)』の故事に由来する。
 この故事から、「力を尽すこと」や「そのような困難」を表す名詞となり、「力を尽して」や「つとめて」という副詞、更に「わざわざ」の意味でも用いられるようになった。
 「わざわざ」の意味の「せっかく」については、『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するという説もある。
 その故事とは、郭泰という人の被っていた頭巾の角が雨に濡れて折れ曲がっていた。
 それを見た人々は郭泰を慕っていたため、わざわざ頭巾の角を曲げて真似、それが流行したという話である。
 しかし、「せっかく」が『漢書(朱雲伝)』に由来し、名詞・副詞へ変化したことは明らかであるため、「わざわざ」の意味の「せっかく」だけが『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するとは考え難い。 ――以上、ウェブ「語源由来辞典」より


 林宗は人を見る目が優れ、好んで士を推奨したり教えたりした。身長は八尺(1尺は23cm)、容貌は魁偉である。ゆったりした着物に幅広の帯を締め、諸国を周遊した。或時、陳・梁の間(河南省)を旅していて雨に逢い、頭巾の一つの角がひしゃげた。世間の人は早速わざと頭巾の一角を折って、「林宗巾」と名付けた。林宗に対する人気はそれほどであった。――上記古典文学大系13、『後漢書・郭泰伝』より――

折檻
 折檻は、中国の故事「漢書」の「朱雲伝」に由来します。その故事とは、前漢の成帝の時代、朱雲が成帝の政治に対し厳しく忠告したため、朱雲は成帝の怒りを受け、宮殿から追い出されることになります。しかし、朱雲は檻(手すり)に掴まり動こうとしなかったため、檻は折れてしまいました。成帝はそのような朱雲の姿を見て反省し、朱雲の意見を受け入れたという話です。このように、本来「折檻」は正当な理由で厳しく忠告することを意味していましたが、現代では体罰や虐待の意味が強くなっています。
 「檻」は手すり、欄檻(らんかん)でそれを折る意です。折檻を辞書で調べると①〔子供などを〕厳しくり、将来を戒める事、②体罰を与えてこらしめること【三省堂、新明解国語辞典】とあります。
 前漢時代、皇帝に諫言して怒りを買った朱雲は宮廷から引きずり出されようとした時、檻(てすり)にしがみついて抵抗します。そのために檻が折れたという故事に基づくものです。本来は①厳しく意見する、②厳しく叱ることを意味しましたが、転じて「攻め苛(さいな)む」意に用いるようになりました。現在は転義の用法ばかりなのが残念です。

 成帝の時(BC32~7年)になると、丞相、もとの安昌侯張禹が、帝の師匠だったというので、特進の位に就けられ、大いに尊重された。雲は上奏して目通りを願った。公卿が御前に居並ぶ中で、雲は言上した。
 「今、朝廷の大臣は、上に向かっては主上を匡正することも成らず、下に向かっては人民を利益することも叶わず。みな雛壇の飾り、禄盗人であります。孔子が『鄙(いや)しい男とはともに君につかえることはできない。仮にも地位を失いそうになれば、どんな悪い事でもする』(論語、陽貨)と申したのに相当します。拙者、願わくは尚方(しょうほう、天子の器物を作る役所)の斬馬剣(ざんばけん、馬でも切れる鋭利な大刀)を頂戴し、諂い者一人の頭を切って、残余の大臣の見せしめにしたいと存じます」
帝「誰のことじゃ?」
雲「安昌侯張禹!」
 帝は烈火のごとく怒った。
「小役人の分際にて目上の者を罵り、朝廷の真ん中にて皇帝の師匠を侮辱するとは! その罪、きっと赦さぬぞ」
 御史が雲を引きずり下ろす。雲は宮廷の檻(てすり)にしがみつく。檻が折れた(折檻の語源はこれ)。雲は叫ぶ。
 「拙者は地下で関龍達(殷の忠臣、桀を諫めて殺された)、比干(殷の忠臣、紂を諫めて殺された)に会って友達になれれば満足でござる。なれど陛下のご評判は如何相成りますやら(直言の士を殺したことで悪評が残るだろう)」
 御史はそのまま雲を引きずって去った。ここで左将軍の辛慶忌が、冠を脱ぎ、印綬をほどいて(免職覚悟のしるし)、宮殿の下に頭を打ち付けて言った。
 「この者は元々狂気じみた正直さで世に聞こえた者。もしその言葉が正しければ、罰してはなりませぬ。たといそのことが間違っておりましても、ご容赦下されて当然。私、命に代えても、あえて反対申し上げます」
 慶忌は頭を何度も地に打ち付けて、血が流れだした。帝は機嫌が直り、やっと雲の罪は沙汰止みになった。その後、檻を修繕することになった。帝が言う。
 「取り替えずとも好い。そのまゝ繋いでおけ。直言の士を表彰するためじゃ」
 朱雲はその後二度と仕えない。いつも鄠県(こけん、陝西省)の田舎に住み、時には牛車に乗って外出し、儒生たちを訪れる。行く先々、みな彼を敬いかしずいた。――上記古典文学大系13、『漢書・朱雲伝』より――


 


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