塾友K.Sato氏の母上が亡くなられたとの訃報をM.Nagata氏より受けました。家族葬とのことで、あまり派手なことは避けたいとのこと、ごく近い有志12名で献花をするということでした。詳しい事はわかりませんが、いずれにしても私の年齢と近い世代の知人の死に唯々冥福を捧げるばかりです。
昨夜、KS氏より電話を戴き、丁重な献花のお礼がありました。MN氏とごく少数の年齢の近い連中で葬儀に参加したらしく、今朝MN氏より写真付きのメールが入りました。曰く、
4月22日 22時14分着信 題 光士からお礼の件
皆さま夜分にすみません。 光士のご母堂の葬儀も無事に終わりお礼の連絡がありました 。皆さまに直接お礼の連絡をしたいと言っておりますので連絡先(携帯)を伝えました。 連絡があるとおもいますので、宜しくお願いいたします。 Mitsuhiro
昨日のブログで、「てんてんてんまり てん手まり」の歌い出しで愛唱される日本の童謡、『まりと殿さま(毬と殿様)』が、紀州の殿様の参勤交代に纏わる、残酷な内容を持っていることを述べましたが、日本の昔からのわらべ歌や童謡の中にはこのようにおぞましい内容が隠されているものが沢山あるようです。
ずいずいずっころばし
『ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ 俵のねずみが 米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、行きっこなしよ 井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ』
意味:胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。
「ずいずいずっころばし」は、古くから日本に伝わる童謡で、手遊び歌として知られ、その遊戯をもいいます。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、不純異性交遊を表す戯歌とも言われています。
https://www.youtube.com/watch?v=nm_LPrzgEqM
通りゃんせ
『通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ』
意味:通りなさい、通りなさい。 ここは、どこの細道ですか? 天神様の細道ですよ。ちょっと通して下さいませんか? 御用の無い者は、通しはしません。 この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。 行きは良いですが、帰りは困難です。 困難ですが、通りなさい、通りなさい。
「通りゃんせ」は、江戸時代に歌詞が成立したと見られる作詞者不明のわらべ歌ということです。一般に歌われているものは本居長世編・作曲で、作詞はあるいは、野口雨情作とも伝えられています(1920年頃収録レコードに作者として記載されています)。
川越にある三芳野神社は、子供時代に口ずさんだ、わらべ唄「とうりゃんせ」発祥の地と云われています。不作や天変地異を起こす天神様の怒りを鎮める為、子供を生贄として捧げる唄とも云われています。目の前にある川越城の七不思議の1つに人身御供の話が、あります。七つ釜と云われる沼地のため、地盤がとても悪く、川越城の建設は難航し、そのため、子供を人柱として神に捧げ、完成させたそうです。この唄の「行きはよいよい 帰りはこわい」の歌詞は、いいことがあると騙されて連れてこられ、神に捧げられた子供は、人柱として殺されて、二度と帰っては来ないと云う意味のようです。
日本の神様は、八百万(やおよろず)の神と云われるように様々な神がいます。祭りや神輿に乗せて満足する神がいる反面、生贄を望む恐ろしい神がいても何ら不思議ではありません。
https://www.youtube.com/watch?v=Cq4G5ku_r0w
てるてる坊主
『(1番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
(2番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
(3番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ』作詞・浅原鏡村 作曲・中山晋平
てるてる坊主で晴れを祈る風習は、平安時代に中国から伝わったのだそうです。ただし中国では「坊主」ではなく、箒を持った女の子・・・『晴娘』という名の少女にまつわる伝説がその起源といわれています。
日本では、天候の祈祷をする僧侶に因んで「坊主」になったのでは、といわれています。「てるてる坊主の頭の中身」にまつわる、ちょっと閲覧注意?な伝説も・・・。
昔、降り続く雨に困っていると、ひとりのお坊さんがやって来ました。お経を唱えてもらえば必ず晴れることで有名なのだといいます。そこで殿様の前でお経を唱えてもらいましたが、次の日も雨は降り止みませんでした。罰として、お坊さんは首をはねられてしまいます。その首を白い布で包んで吊るしたところ、次の日はよく晴れました。これがてるてる坊主の始まり、なのだそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=Wi1kcHsIC2U
かごめかごめ(地方により歌詞が異なる)
『・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
・籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?』
なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れます。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていません。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていません。
この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈があります。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難です。また、この歌の発祥の地についても正確な所不詳です。
姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがあります。
元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典などが採用):籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。
遊女説(提唱者不明):一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。
日光東照宮説(提唱者不明。埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている):日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。
豊國廟説(宮本健次など):正面とは京都の豊国神社周辺(現在の正面通り)を指し、徳川家康を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。
芦名埋蔵金説(提唱者不明):「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。
陰謀説(提唱者不明):「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。
囚人説(提唱者不明):かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
明智光秀・南光坊天海同一人物説(岩辺晃三):南光坊天海の正体が、山崎の戦いに敗れた後も生き延びた明智光秀であることを示唆しているとする説[9]。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に敦賀と亀岡の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。
神示説(提唱者不明):「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。
https://www.youtube.com/watch?v=j4vPvzX9PMM
雨降りお月さん
『雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ誰とゆく 一人で傘 さしてゆく 傘ないときゃ 誰とゆく シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた お馬にゆられて ぬれてゆく
いそがにゃお馬よ 夜が明けよう 手綱の下から チョイと見たりゃ お袖でお顔を かくしてる お袖は濡れても 乾しゃ乾く 雨降りお月さん 雲の蔭 お馬にゆられて ぬれてゆく』
なぜ花嫁が一人で雨の中、傘をさしてお嫁にいくのかの意味がよくわかりません。一説によると、花嫁は死んでしまった娘のことで天国に一人で旅だつ様子を描いているというものがあります。
雨情の孫、野口不二子さんによると、雨情夫人ひろから興入れの日は雨が降っていて、栃木県塩谷郡喜連川(きつれがわ)から馬で2日もかかって来たという話しを聞かされていたそうです。当時この辺りのしきたりでは、花嫁は馬に乗って婚家に嫁ぎ、花婿や村人たちは、家の前で行列を迎えたそうです。ひろも、しきたり通りに馬に乗って野口家に嫁ぎました。しかし、その日は、あいにくの雨でした・・・ 迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずしました。これが、2人の初めての対面でした。この詩はそのときのことを歌ったものだそうです。
お嫁さんは、新しい生活への希望に満ちて、凛として馬に乗って嫁いできたことからこの詩は、雨の中を、遠く長い道のりを濡れながらやってきた花嫁に対するねぎらいの思いを歌ったものなのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=21JW-j5JJdc
sechin@nethome.ne.jp です。
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