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ウェブニュースより
<憲法70年いまを問う>教育勅語「是認」に違和感 ―― 大阪市の学校法人「森友学園」の問題に絡み「教育勅語」が議論の的になっている。戦後、個人の尊重を盛り込んだ憲法が制定され、軍国主義に結びついた教育理念は国会で排除・失効が決議された。それから約70年。「学校教材への使用は否定しない」とした安倍政権の閣議決定に対し、野党側は「戦前回帰だ」と反発する。兵庫県内の戦争体験者や現場の教師らは現状をどう見ているのだろうか。

 教育勅語は父母への孝行や家族愛を説く一方、「危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧(ささ)げて皇室国家の為(ため)につくせ」(旧文部省の通釈)と求める。
 戦時中、海軍の徴用工だった神戸市東灘区の加藤太郎さん(92)は「教育勅語の『父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲良くし』という部分だけを聞けば、今の若い人がすんなり受け入れてしまいそうで怖い」と危機感を抱く。
 自身も戦前、教育勅語を何度も聞かされ、すり込まれた。「とにかく兵役に就き、国のために役立ちたい」と、何の疑問もなく願った。だが、徴用先の南太平洋では米軍の猛攻にさらされ、多くの仲間を失った。「国は、もっともな部分は誰もおかしいとは言えないと承知している。復活させる狙いがあるならけしからん」と語気を強めた。
 日本教育史に詳しい船寄(ふなき)俊雄・神戸大大学院教授も「確かに夫婦の和などをうたっているが、当時の家庭は父親の力が圧倒的に強かった」と指摘する。家族関係が対等でなかった時代に説かれた価値観は結局、国家の重大時に命を投げ出す教えに収れんされた。「教育勅語が通用したのは戦前だけ。あくまで負の側面を伝える『史料』で、現代によみがえらせることはできない」と話す。
 さらに閣議決定について「実は10年以上前に“お膳立て”ができていた」とみる。2006年に第1次安倍政権が実現した教育基本法の改正だ。「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを教育目標に加えた改正法には、愛国心重視の姿勢がにじむ。船寄教授は18年度以降の道徳教科化も踏まえ、懸念を示す。「本来は多様な生き方を伝えるのが道徳教育だが、政府『公認』の価値観を教えることにつながるのではないか」
 現場の教師はどうか。
 「教育勅語が戦時中、どのような役割を果たしたかを伝えることはあっても、その道徳観を取り出して教えることはできない」。県内の高校で地理歴史・公民を担当する50代の男性教諭は強調する。
 同性愛カップルなど家族にはさまざまな形があり、家庭内で虐待や貧困に直面する子どももいる。「今の高校生にとって、画一的な家族観はぴんとこないのではないか」と話す。
 国家のために個人の人権は制限するべきか-。教育勅語を題材に、授業で問い掛けようと考えている。
【教育勅語】 正式名は「教育ニ関スル勅語」で、大日本帝国憲法(明治憲法)で事実上の主権者だった明治天皇が1890年に発布した。国民の守るべき徳目が示され、戦時中は国家総動員体制の正当化に利用されたと指摘される。戦後の1948年、衆参両院は国民の基本的人権を損なうなどとして排除・失効を決議。森友学園の問題では、運営する幼稚園が園児に暗唱させていたことが疑問視された。  (2017/4/16 07:00神戸新聞NEXT


 


長広舌(ちょうこうぜつ)
 長広舌をふるうと聞いて、さわやかな弁舌を思う人はほとんどいないでしょう。古くは弁舌が巧みであることを表す場合もありましたが、最近では単に長々と喋ることの代名詞のようになってしまっています。
 この言葉、もともとは仏にそなわる勝れた姿としての三十二相の一つ、広長舌相(こうちょうぜっそう、=大舌相)に由来しています。仏の舌は広くて長く、しかも軟らかいために、その顔を覆うことができるというのです。

 大きいから立派だ、という話ではありません。実際に顔全体を覆っている舌などを見たら、びっくりするだけです。これは仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表しているのでしょう。 『仏説阿弥陀経』には、次のように記されています。

 東・南・西・北・下・上という六方、つまりあらゆる方角の世界に無数の仏がおいでになります。その無数の諸仏がたは、おのおの広長の舌相を出して全世界を覆い、まことの言葉を説かれるということです。
 お互いに通じ合い、響き合うのがまことの言葉です。たとえ厳しい一言でも、言い当てられたという実感が伴うならば、それは忘れられない言葉となり、人のこころを動かすことにもなります。それが本当の軟らかさだといえるのでしょう。
 また、広長といわれるように、仏の言葉はどこまでも響きわたり、一人として漏れ落ちる者がありません。それは、この世の苦しみ悩みを見つめ続けているからであります。
 ひるがえって我々の言葉はどうでありましょうか。たとえ共通の言葉を用いながらも、通じ合うことはなかなか難しいのです。言葉によって、人を切り捨てていることも多く、人の心を開くどころか、お互いに、孤独という名の地獄に堕ちているのではないでしょうか。
 通じ合うことのない言葉での長広舌は聞くに耐えません。にもかかわらず、饒舌、悪舌、両舌ばかりが渦巻いているのが現代です。本当の意味で、広く、軟らかく、長い舌をもちたいものですね。

 「以心伝心」に価値を認めたり、寡黙をよしとしたりする日本人には、長々としゃべりたてる「長広舌」はむしろ迷惑なのではないでしょうか。


 


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