瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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山たづを詠んだ歌1
 山たづは、スイカズラ科ニワトコ属の落葉低木の接骨木(にわとこ)です。4~5月に枝の先に円錐状に淡い黄色の花をつけます。山で見かけることができますが、最近はなかなか見られないですね。
 
 万葉集では、「山たづ」は「迎へ」を導く枕詞として使われています。これは、葉が対生することからという説と、神を迎するための木として使われたからという説があります。
巻1-0090: 君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
標題:古事記曰、軽太子、奸軽太郎女。故其太子流於伊豫湯也。此時衣通王、不堪戀暮而追徃時謌曰
標訓:古事記に曰はく「軽(かるの)太子(ひつぎのみこ)、軽(かるの)太郎女(おほいらつめ)に奸(たは)く。故(かれ)、その太子を伊豫の湯に流す」といへり。此の時に衣通(そとほしの)(おほきみ)、戀ひ暮らすことに堪()えずして追ひ徃く時の謌に曰はく、
標題の大意:古事記にはこう書かれている。
 「軽太子(かるのひつぎのみこ=木梨軽皇子、允恭〈いんぎょう〉天皇の皇太子)が妹の軽太郎女(かるのおおいらつめ)を犯した。そこでその太子を伊予の湯(愛媛県松山市の道後温泉)に追放した。このとき衣通王(そとおりのおおきみ=軽太郎女)は恋しさに堪え切れずあとを追った」
そのときに歌った歌


 
※木梨軽皇子(きなしのかるのみこ、生没年不詳)
 允恭天皇の第一皇子、皇太子でした。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)などがあります。
 『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されました。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれます(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとあります。
 四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
※衣通姫(そとおりひめ、伝承上の人物)
 『日本書紀』では、允恭(いんぎょう)天皇の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫、『古事記』では同じ皇后の子の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の名とします。もとは古代の美人伝承の主人公なのでしょうか。衣通姫の名の由縁(ゆえん)は、その美しさが衣を通って輝いていたゆえといいます。記では、太子の木梨之軽王(きなしのかるのきみ)が、禁じられた姫との同母兄妹婚のために支持を失って道後(どうご)温泉(愛媛県松山市)の地に移され、後を追ってきた姫とともに自害します。紀では、天皇のお召しを拒みえなかった姫が、寵愛(ちょうあい)を受けつつも姉の心情を思って和泉(いずみ)の茅渟(ちぬ)(大阪府)に退きます。物語はともに歌謡を含み、人物、展開を異にしつつも、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っています。
左注:云山多豆者、是今造木者也。
 右一首謌、古事記与類聚歌所説不同。謌主亦異焉。因檢日本紀曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語皇后、納八田皇女将為妃。時皇后不聴。爰天皇謌以乞於皇后云々。卅年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還。於是天皇、伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中。時皇后、到難波濟、聞天皇合八田皇女、大恨之云々。亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨軽皇子為太子。容姿佳麗、見者自感。同母妹軽太娘皇女亦艶妙也。云々。遂竊通、乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作氷。天皇異之、卜其所由、卜者曰、有内乱。盖親々相奸乎云々。仍移太娘皇女於伊与者。今案二代二時不見此謌也。
注訓:ここに、やまたづと云ふは、今の造木(みやつこぎ)なり。
 右の一首の謌は、古事記と類聚歌と説く所同じからず。謌の主もまた異なれり。因りて日本紀を檢(かむが)みて曰はく「難波高津宮に御宇大鷦鷯天皇の廿二年春正月、天皇、皇后に語りて『八田皇女を納(めしい)れて将に妃と為()さむ』といへり。時に皇后、聴(ゆる)さず。ここに天皇、謌を以つて皇后に乞ひたまひしく。云々。卅年秋九月乙卯の朔の乙丑、皇后の紀伊國に遊行(いで)まして熊野の岬に到りて、その處の御綱葉(みつなかしは)を取りて還りたまひき。ここに天皇、皇后の在(おは)しまさざるを伺ひて八田皇女を娶(まき)きて宮の中(うち)に納()れたまひき。時に皇后、難波の濟(ほとり)に到りて、天皇の八田皇女を合()きしつと聞かして、大(いた)くこれを恨みたまひ。云々」といへり。また曰はく「遠飛鳥宮に御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇の廿三年春正月甲午の朔の庚子、木梨軽皇子を太子(ひつぎのみこ)と為したまひき。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく、見る者自ら感()でき。同母妹(いろも)軽太娘皇女もまた艶妙(いみじ)。云々。遂に竊かに通(たは)け、すなはち悒(おほ)しき懐(こころ)少しく息()みぬ。廿四年夏六月、御羮(みあつもの)の汁凝()りて以ちて氷と作()す。天皇の之を異(あや)しびて、その所由(ゆゑ)を卜(うらな)へしむるに、卜者(うらへ)の曰(もう)さく『内に乱れ有り。盖し親々(しんしん)(あひ)(たは)けたるか。云々』といへり。よりて太娘(おほいらつめ)皇女(ひめみこ)を伊与(いよ)に移す」といへる。今案(かむが)ふるに二代二時(ふたとき)にこの謌を見ず。
左注の大意:この一首の歌は古事記(90)と類聚歌林(85)とで内容が異なっていて作者も違う。そこで日本書紀を見てみると、
 「仁徳天皇の二十二年正月、天皇は皇后に、八田皇女(やたのひめみこ=仁徳天皇の異母妹)を妃として迎え入れたいとお話しになった。しかし、皇后はお許しにならなかった。そこで天皇は皇后に許しを乞うために歌をお詠みになった。…三十年九月十一日、皇后は紀伊の国に旅行して熊野の岬までおいでになり、そこの御綱葉(みつながしわ)を取ってお帰りになった。ところが天皇は、皇后の留守の隙をねらって八田皇女を迎え入れ、妃にしてしまわれた。皇后は難波の港に着いたときに『天皇が八田皇女を召された』と聞いて、深くお恨みになった」と書かれている。また、
「允恭天皇の二十三年三月七日、木梨軽皇子が太子になった。容姿が整って美しく、見るとだれもが心惹かれた。同母妹の軽太娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)もまたあでやかな美人だった。…ついに二人はひそかに通じ、日頃の思いを少し晴らした。二十四年六月、天皇の熱いスープが固まり氷になった。天皇は不思議に思ってそのわけをお占わせになった。占い師は、『家内が乱れています。おそらく肉親同士が私通しているのでしょう』と言った。そこで太娘皇女を伊予に追放した」
と書かれている。日本書紀では、仁徳、允恭の二つの時代にこの歌は見えない。


 

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