漢字というのはもともと中国で作られた字という意味ですが、日本で作られた「国字」とのうのもあります。例えば「畑」は火と田を組み合わせて「乾いた耕地」をあらわしています。「畠」も国字で「土が白く乾いた田」という意です。
漢字は表意文字で、偏と旁を組み合わせていくらでも面白い漢字を作ることが出来ます。
永井荷風の作品に「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」がありますが、この「濹」という字を漢和辞典で探しても見つかりません。
この字は隅田川を表す字で、江戸時代に林述斎が作ったものだといいます。「濹東綺譚」の作後贅言(ぜいげん)に次の記載があります。
向島寺島町に在る遊里の見聞記(けんもんき)をつくって、わたくしは之を濹東綺譚と命名した。
濹の字は林述斎が墨田川を言現(いいあらわ)すために濫(みだり)に作ったもので、その詩集には濹上漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。
幕府瓦解の際、成島柳北が下谷和泉橋通(いずみばしどおり)の賜邸(してい)を引払い、向島須崎村(すさきむら)の別荘を家となしてから其詩文には多く濹の字が用い出された。それから濹字が再び汎(あまね)く文人墨客(ぼっかく)の間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。
物徂徠は墨田川を澄江となしていたように思っている。天明の頃には墨田堤を葛坡(かつは)となした詩人もあった。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文字を雅馴(がじゅん)ならずとなし、其音によって夢香洲(むこうしゅう)の三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまった。現時向島の妓街に夢香荘とよぶ連込宿がある。小野湖山の風流を襲(つぐ)心であるのかどうか、未(いま)だ詳つまびらかにするを得ない。
寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋(しらひげばし)の東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、濹上となすには少し遠すぎるような気がした。依(よ)ってわたくしはこれを濹東と呼ぶことにしたのである。濹東綺譚はその初め稿を脱した時、直(ただ)ちに地名を取って「玉の井雙紙(ぞうし)」と題したのであるが、後に聊(いささ)か思うところがあって、今の世には縁遠い濹字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。
聢(しかと)は 確かに・間違いなく の意で、「しかと承りました」のように使います。
惢は心が3つですが、読みは「こころごころ」です。それぞれの心、思い思いに の意です。「怺」は心を長くもつ意で、「こらえる」と読みます。
国字には日本人の好みや反映していて、よく使われる旁(ツクリ)に峠(とうげ)鞐(こはぜ)のように上と下を組み合わせたものがあります。
峠(とうげ)は登りの坂道を登りつめて下りになるところですね。鞐(こはぜ)は書物の帙(チツ、書物を保護するためのおおい)や足袋(たび)・脚絆(きゃはん)などの合わせ目をとめる爪(つめ)形の留め具のことです。桛(かせ)は紡いだ糸を巻き取るエの字型の道具のことです。挊(かせ)ぐは紡いだ糸を桛に巻き取ることです。手も道具も上下に忙しく動く根気のいる作業だったのでしょうね。裃(かみしも)は同じ色の肩衣と袴のことで、江戸時代の武士の礼装でした。
裃の他にも着物に関する国字には 裄(ゆき、着物の背縫いから袖口までの長さのこと)・褄(つま、着物の衽の腰から下の縁の部分を指す)・襷(たすき)があります。褄は普段はあまり使われませんが、芸者のことを「左褄」というのは、歩く時は左手で着物の妻を取ることからきた言葉です。
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