瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 最近、ニュース番組を見ていても経済や政治や生活などの問題でとにかく不安を煽るような見せ方が強いような感じがしますが、皆さんは如何お考えですか。
 まあ、爺などは鈍感な方ですから、「またか。世の中なるようにしかならなんじゃないか。」と聞き流してしまいますが、将来のある若い人たちはついつい取り越し苦労してしまうのではないでしょうか。こんなことがこの世の中にストレスを蔓延させているのでしょうね。

 世説新語言語篇に次のような一文があります。
 滿奮畏風。在晉武帝坐,北窗作琉璃屏,實密似疏,奮有難色。帝笑之。奮答曰:「臣猶吳牛,見月而喘。」
(書き下し文)
 滿奮風を畏る。晉の武帝の坐に在り。北窻に琉璃屏(るりへい)を作る。實密にして疎なるに似たり。奮に難(はゞか)る色有り。帝之を笑ふ。奮荅へて曰く、臣猶ほ呉牛の月を見て喘ぐがごとしと。
(訳)
 満奮は風が嫌いであった。ある時晋の武帝の座所に侍していたが、北の窓に瑠璃の扉をはめて風が入るのを防いであり,気密になっているのに、風を通すように見えた。満奮はこれを見て恐れをなしているようであった。武帝がこれを笑うと、満奮は言った。
 「南方の暑さに懲りている呉の牛は月を見てさえも喘ぐ、と申しますが、私がそれです。」

 ここから、思い過ごしや取り越し苦労することを「呉牛喘月(ごぎゅうぜんげつ)」という四字熟語が出来たといいます。同じような意味で「杞憂」という熟語はご存知だと思います。これは列子の天瑞篇から出来た熟語です。

 杞國、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廢寢食者。又有憂彼之所憂者。因徃曉之曰、天積氣耳、亡處亡氣。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。其人曰、天果積氣、日月星宿不當墜耶。曉之者曰、日月星宿亦積氣中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。其人曰、奈地壞何。曉者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡處亡塊。若躇歩跐蹈、終日在地上行止。奈何憂其壞。其人舍然大喜、曉之者亦舍然大喜。
(書き下し文)
 杞(き)の国に、人の天地の崩墜(ほうつい)して、身寄する所亡きを憂え、寝食を廃(はい)する者あり。又彼の憂うる所を憂うる者有り。
 因って往きて之を暁(さと)して曰く、天は積気のみ、処として気亡きは亡し。屈伸呼吸の若(ごと)きは、終日天中に在りて行止(こうし)す。奈何(いかん)ぞ崩墜(ほうつい)を憂えんやと。
 其(そ)の人曰く、天果たして積気ならば、日月星宿は当(まさ)に墜(お)つべからざるかと。之これを暁す者曰く、日月星宿も亦積気中の光耀(こうよう)有る者なり。只(たと)い墜ちしむるも、亦中(あた)り傷(やぶ)る所有る能わじと。
 其の人曰く、地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。暁す者曰く、地は積塊(せっかい)のみ。四虚(しきょ)に充塞(じゅうそく)し、処として塊(かたまり)亡きは亡し。躇歩(ちょほ)跐蹈(しとう)するが若(ごとき)は、終日地上に在りて行止(こうし)す。奈何(いかん)ぞ其の壊(くず)るるを憂れえんと。
 其の人舎然(せきぜん)として大いに喜び、之を暁す者も亦舎然として大いに喜ぶ。
(訳)
 杞の国に、天地が崩れ落ち、身の置き所が亡くなるのを心配して、寝食を廃した男がいた。するとまた、その男の心配していることをさらに心配する男がいて、そのために出かけて行って彼に説得した。
――天は気の集まりでしかない。気は至る所に存在し、したがって人間が体を屈伸したり呼吸したりといった日常の動作も、一日中天の中で行っているのだ。それをどうして君は、天が崩れ落ちなどとしんぱいするか。
 するとその男はたずねた。
――天がもし気の集まりであるとすれば、太陽や月や星は、きっと落ちないと言えるのか。
 彼を説得する男が、「太陽や月や星も気の集まりの中で輝きを持つものにすぎない。たとい落ちてきたとしても人間に危害など加えっこないのだ」と応えると、その男はさらに「大地が壊れたらどうするのか」という。説得する男が、
――大地は土の塊でしかなく、世界の司法の果てまで充ちふさいでいて、いたるところが土の塊である。人間が立ち止まったり歩いたり、足で踏んづけるといった日常の動作も、一日中大地の上で行っているのだ。それをどうして君は、大地が壊れるなどと心配するのか。
 というと、その男はさばさばした気持ちになってすっかり喜び、彼を説得した男もさばさばした気持ちになってすっかり喜んだ。

 この話はなおも続き、最後に列子先生は笑いながら次のように結論付けるのです。
――天地が崩壊すると主張する者も間違っているし、天地が崩壊しないという者も間違っている。崩壊するかしないかは、己に分からないことだからだ。しかしながら、崩壊するというのも一つの見識であり、崩壊しないというのも一つの見識である。かくて、生きている者には死者のことは分からないし、死んだ者には生者のことは分からない。将来の人間には過去のことは分からず、過去の人間には将来のことは分からない。天地が崩壊しようと崩壊すまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地こそ大切なのだ。


 


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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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