瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は被爆から68年目の「原爆の日」である。本日のウェブニュースより、
広島、核兵器の非人道性訴え 被爆68年、廃絶と平和誓う ―― 広島は6日、被爆から68年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で「核廃絶に取り組んでいる国々との連携強化」を日本政府に要求し、核兵器の非人道性を訴える。/また「信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を」と世界に呼び掛ける。核兵器は「絶対悪」と位置付け、平和な世界の実現を誓い、原爆犠牲者に哀悼の意を表す。/エネルギー政策で、原発の是非には言及しない。/原爆が投下された午前8時15分に黙とうをささげ、「平和の鐘」を鳴らし、「平和への誓い」を読み上げる。 2013/08/06 08:26 【共同通信】
原爆投下68年 オリバー・ストーン監督、広島を歩く ―― 原爆投下から68年。戦争に批判的な米国の映画監督、オリバー・ストーン氏〔66〕は5日、朝日新聞のインタビューに応じ、広島で被爆の惨禍を想像することの大切さを訴えた。日本ではいま、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直しや改憲論議など、戦後日本のあり方を変える動きが目立つ。核なき平和を求める被爆地の声は届くのか。/オリバー・ストーン氏は5日夜、広島市内で朝日新聞のインタビューに応じた。核廃絶を実現するために、若い世代に向けて「広島についてもっと学ぶことだ。学べば意識は変えられる」と訴えた。/ストーン氏は「世界は過去で埋め尽くされている」と話し、想像することの大切さを強調した。「僕は1945年のこの場所にいるような気がしている。いまここであの日の瞬間、爆風を感じている」 /「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。父と母の姿も見えた。川に浮き沈みする遺体も見えた」。原爆ドームや平和記念資料館を訪れ、脳裏に浮かんだイメージをこう表現した。5日、母親と弟を亡くした被爆者の男性から「原爆とは知らなかった」と聞いたという。「当時の人はその爆弾が何かわからなかっただろう」と思いをはせた。/資料館にある「人影の石」も記憶に残ったという。「人々の影が一瞬で焼き付き、体は一瞬で吹き飛ばされたのだろう」/原爆を投下した米国の責任についても言及。「敗者のナチスが原爆を落としていれば、批判を受け続けただろう。しかし勝者の米国の場合は(悪に)制裁を加えたと例外扱いされる」/参列する6日の平和記念式典では、安倍晋三首相の発言に注目しているという。「首相が何を言うのか聞きたい。彼は核兵器を全廃しようと言うにちがいない。軽い調子で」。皮肉を込めてそう語った。/若い世代には「僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。学べば意識は変えられる」とメッセージを送った。
■原爆ドームを訪問 4日に広島入りし、原爆の惨禍を伝える広島平和記念資料館を視察したオリバー・ストーン氏は、5日も平和記念公園や原爆ドームなどを訪問。午後には「8・6ヒロシマ平和の集い2013」に出席し、一緒に来日した米アメリカン大学のピーター・カズニック准教授と対談した。/ストーン氏は対談で、米国で浸透している「原爆が戦争の終結を早めた」という見方について、「人々は不快な歴史の事実を受け入れがたい。私自身も理解するのに時間がかかった」と語った。一方、日本とアジア諸国の関係について「日本はアジアへの加害責任に向き合っておらず、犠牲者の立場に立った視点がない」と批判した。/今後、ストーン氏は長崎、沖縄を訪問し、15日に離日する予定だ。
■オリバー・ストーン監督一問一答
――広島を歩いた印象は
想像の中で、僕自身が1945年の子の場所にいるような気がしている。いまここにいて、あの日の瞬間を感じた。
――広島で見たり、聞いたりしたことで印象に残ったことは
資料館はとても役だった。多くの写真を見ることができた。破壊された風景のパノラマ写真は衝撃だった。 だが、(米国の歴史を批判する)僕たちの主張は、米国の大手メディアは受け入れない。時々無力感を感じる。
――伝えたいことは
私の最大のメッセージは、真実を学んでほしいということ。若者に関心を高めてほしい。被爆者が亡くなっていくなか、彼らが生きているうちには核の廃絶はできないかもしれない。若い世代は、広島についてもっと学ぶべきだ。僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。私は年老いたが、学べば意識は変えられる。
広島の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われる平和記念公園には、横江嘉純氏の「祈りの像(子供を抱いた若い夫婦の像)」があり、その下に爺の伯父(母の兄)に当たる大木惇夫の「平和を祈り 御霊を鎮めん」の詩文が刻まれている。
※横江嘉純(よこえよしずみ):1887-1962 大正-昭和時代の彫刻家。
明治20年5月3日生まれ。大正7年文展に初入選。昭和3年「大乗」で帝国美術院賞。のち帝展,新文展,日展の審査員。寓意(ぐうい)的な作品を得意とした。作品に「われらが生きる太陽(追慕の像)」,東京駅前広場にある「愛の像」など。昭和37年2月14日死去。74歳。富山県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
※大木惇夫(おおき-あつお) :1895-1977 大正-昭和時代の詩人。明治28年4月18日生まれ。博文館に勤務中の大正10年「大阪朝日新聞」の懸賞小説に入選する。北原白秋に師事,14年第1詩集「風・光・木の葉」を発表。歌謡曲の作詞に「国境の町」がある。昭和52年7月19日死去。82歳。広島県出身。広島商業卒。本名は軍一。詩集はほかに「危険信号」「失意の虹」など
平和を祈り 御霊を鎮めん 大木惇夫
山河に歎きはみちて 叫ぶ声あり
戦ひは げに 人類の恥辱ぞと
ああ 奮ひ起ち挙り立て 心つなぎて つつましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
青空の光をうけて 闇を絶たずや
戦ひは げに 人類の愚劣なり
ああ 奮い起ち挙り立て 呼べば応へて たくましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
夕星のさとしはありて こだま地にみつ
戦ひは げに 人類の自滅ぞと
ああ 奮い起ち挙り立て まこと尽して 美はしく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
広島、核兵器の非人道性訴え 被爆68年、廃絶と平和誓う ―― 広島は6日、被爆から68年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で「核廃絶に取り組んでいる国々との連携強化」を日本政府に要求し、核兵器の非人道性を訴える。/また「信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を」と世界に呼び掛ける。核兵器は「絶対悪」と位置付け、平和な世界の実現を誓い、原爆犠牲者に哀悼の意を表す。/エネルギー政策で、原発の是非には言及しない。/原爆が投下された午前8時15分に黙とうをささげ、「平和の鐘」を鳴らし、「平和への誓い」を読み上げる。 2013/08/06 08:26 【共同通信】
原爆投下68年 オリバー・ストーン監督、広島を歩く ―― 原爆投下から68年。戦争に批判的な米国の映画監督、オリバー・ストーン氏〔66〕は5日、朝日新聞のインタビューに応じ、広島で被爆の惨禍を想像することの大切さを訴えた。日本ではいま、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直しや改憲論議など、戦後日本のあり方を変える動きが目立つ。核なき平和を求める被爆地の声は届くのか。/オリバー・ストーン氏は5日夜、広島市内で朝日新聞のインタビューに応じた。核廃絶を実現するために、若い世代に向けて「広島についてもっと学ぶことだ。学べば意識は変えられる」と訴えた。/ストーン氏は「世界は過去で埋め尽くされている」と話し、想像することの大切さを強調した。「僕は1945年のこの場所にいるような気がしている。いまここであの日の瞬間、爆風を感じている」 /「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。父と母の姿も見えた。川に浮き沈みする遺体も見えた」。原爆ドームや平和記念資料館を訪れ、脳裏に浮かんだイメージをこう表現した。5日、母親と弟を亡くした被爆者の男性から「原爆とは知らなかった」と聞いたという。「当時の人はその爆弾が何かわからなかっただろう」と思いをはせた。/資料館にある「人影の石」も記憶に残ったという。「人々の影が一瞬で焼き付き、体は一瞬で吹き飛ばされたのだろう」/原爆を投下した米国の責任についても言及。「敗者のナチスが原爆を落としていれば、批判を受け続けただろう。しかし勝者の米国の場合は(悪に)制裁を加えたと例外扱いされる」/参列する6日の平和記念式典では、安倍晋三首相の発言に注目しているという。「首相が何を言うのか聞きたい。彼は核兵器を全廃しようと言うにちがいない。軽い調子で」。皮肉を込めてそう語った。/若い世代には「僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。学べば意識は変えられる」とメッセージを送った。
■原爆ドームを訪問 4日に広島入りし、原爆の惨禍を伝える広島平和記念資料館を視察したオリバー・ストーン氏は、5日も平和記念公園や原爆ドームなどを訪問。午後には「8・6ヒロシマ平和の集い2013」に出席し、一緒に来日した米アメリカン大学のピーター・カズニック准教授と対談した。/ストーン氏は対談で、米国で浸透している「原爆が戦争の終結を早めた」という見方について、「人々は不快な歴史の事実を受け入れがたい。私自身も理解するのに時間がかかった」と語った。一方、日本とアジア諸国の関係について「日本はアジアへの加害責任に向き合っておらず、犠牲者の立場に立った視点がない」と批判した。/今後、ストーン氏は長崎、沖縄を訪問し、15日に離日する予定だ。
■オリバー・ストーン監督一問一答
――広島を歩いた印象は
想像の中で、僕自身が1945年の子の場所にいるような気がしている。いまここにいて、あの日の瞬間を感じた。
――広島で見たり、聞いたりしたことで印象に残ったことは
資料館はとても役だった。多くの写真を見ることができた。破壊された風景のパノラマ写真は衝撃だった。 だが、(米国の歴史を批判する)僕たちの主張は、米国の大手メディアは受け入れない。時々無力感を感じる。
――伝えたいことは
私の最大のメッセージは、真実を学んでほしいということ。若者に関心を高めてほしい。被爆者が亡くなっていくなか、彼らが生きているうちには核の廃絶はできないかもしれない。若い世代は、広島についてもっと学ぶべきだ。僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。私は年老いたが、学べば意識は変えられる。
広島の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われる平和記念公園には、横江嘉純氏の「祈りの像(子供を抱いた若い夫婦の像)」があり、その下に爺の伯父(母の兄)に当たる大木惇夫の「平和を祈り 御霊を鎮めん」の詩文が刻まれている。
※横江嘉純(よこえよしずみ):1887-1962 大正-昭和時代の彫刻家。
明治20年5月3日生まれ。大正7年文展に初入選。昭和3年「大乗」で帝国美術院賞。のち帝展,新文展,日展の審査員。寓意(ぐうい)的な作品を得意とした。作品に「われらが生きる太陽(追慕の像)」,東京駅前広場にある「愛の像」など。昭和37年2月14日死去。74歳。富山県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
※大木惇夫(おおき-あつお) :1895-1977 大正-昭和時代の詩人。明治28年4月18日生まれ。博文館に勤務中の大正10年「大阪朝日新聞」の懸賞小説に入選する。北原白秋に師事,14年第1詩集「風・光・木の葉」を発表。歌謡曲の作詞に「国境の町」がある。昭和52年7月19日死去。82歳。広島県出身。広島商業卒。本名は軍一。詩集はほかに「危険信号」「失意の虹」など
平和を祈り 御霊を鎮めん 大木惇夫
山河に歎きはみちて 叫ぶ声あり
戦ひは げに 人類の恥辱ぞと
ああ 奮ひ起ち挙り立て 心つなぎて つつましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
青空の光をうけて 闇を絶たずや
戦ひは げに 人類の愚劣なり
ああ 奮い起ち挙り立て 呼べば応へて たくましく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
夕星のさとしはありて こだま地にみつ
戦ひは げに 人類の自滅ぞと
ああ 奮い起ち挙り立て まこと尽して 美はしく
世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ
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