瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
『Rubsiyst (ルバーイヤート)』とはアラビア語で「四行詩」を意味する「Rubaiy(ルバーイイ)」の複数形であるので、直訳すると「四行詩集」という題になる。
Rubaiy(ルバーイー)詩形とはペルシア語詩の形式の一つである。ペルシア語詩はアラビア語詩の詩形と韻律に負うところが大きいが、miṣra〔ミスラーウ、半句〕とbayt〔バイト、対句〕からなり、半句ふたつで1対句となることを基本とする。これに各々の半句および対句での脚韻や押韻によって様々な詩形が形作られるが、例えばアラビア語詩の詩形に由来するqaṣīda(カスィーダ)詩形は、最初の対句の両方の半句で同じ脚韻をつくり、ふたつめの対句から最後の対句まで、後半の半句は最初の対句の脚韻と同じにする。また、mathnawī(マスナヴィー)詩形では、最初の対句での両方の半句の脚韻を同じにし、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏み、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏む、という具合に脚韻をどんどん変えることによって、変化に富んだ韻律によって場合によっては数万対句におよぶ長大な詩となる。ペルシア語詩独自の詩形である。
Rubaiy(ルバーイー)詩形の場合もペルシア語詩として独自に発展したもので、4つの半句からなるが、第1、第2、第4半句は同じ脚韻で押韻するが、第3半句の脚韻は押韻しなくても良いことになっている。ルバーイー詩形は長大なものが多いペルシア語詩のなかで、起承転結を有する簡潔な詩形であることを特徴としている。簡潔にして要を得た表現に最も適しており、素朴でありながら余韻や余情のこもった表現形式と言える。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)が存命していた時代のRubaiy(ルバーイー)は、基本的にSufism(スーフィズム)的思潮〔イスラム教の神秘主義哲学に基く思潮〕の濃いものが大半を占めていた。世の無常観や飲酒への讃美、時には神へのironical〔アイロニカル、cynical〈シニカル〉が 人の誠実さを軽蔑する のに対して、ironical(アイロニカル) は 当てこすりの,皮肉 を言う〕な心情を吐露するOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubaiy(ルバーイー)は、(Jāhiliyyah(ジャーヒリーヤ)時代〔イスラーム以前の時代を指す〕のアラブの飲酒詩や世の無常を嘆くニヒリスティックな詩の伝統を組むものとも理解出来るが、当時のRubaiy(ルバーイー)の傾向からすると、やや特異な位置づけにあるものと言える。そのため、彼よりもJalāl ad-Dīn Rūmī〔ジャラールッディーン・ルーミー、下記の※印の説明を参照〕などに代表されように酒による酩酊をSufism(スーフィズム)的な陶酔境になぞらえたり、恋人同士が互いを求める心情をSufism(スーフィズム)的な神への専一的な求道に喩えることがSufism(スーフィズム)的な神秘主義詩のセオリーとなっていったように、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のルバーイーでの文言もSufism(スーフィズム)的なものを含意しているのではないかという解釈も生まれた。
※ Jalāl ad-Dīn Rūmī(ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のIbn al-Arabi〔イブン・アル=アラビー、1165~1240年、中世のイスラム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラム神秘主義(Sufism)の確立に寄与し、後世に影響を与えた〕と並ぶ、イスラーム神学、Sufismの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味するKhamoosh(ハムーシュ)を雅号とした。/Rūmī(ルーミー)の思想の一つとして、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられる。1273年のRūmī(ルーミー)の没後、Konya〔コンヤ、トルコの都市、左の地図参照〕の墓廟を拠点としてかれの弟子によってコマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なMevlevilik(メヴレヴィー)教団が形成された。Mevlevilik(メヴレヴィー)教団では同教団の始祖と仰がれている。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的(Masnavī-ye(マスナヴィー)』。
この詩集はOmar(ウマル)の死後公表されたが、それまで彼は詩人としてはほとんど知られていなかったという。しかし数学、天文学、史学など数々の分野における多くの偉業を遺した学者としては著名であった。(近年、天文学者のウマル・ハイヤームと『ルバーイヤート』の作者ウマル・ハイヤームとは同名の別人であるとの説を唱えている学者もあるという。)
19世紀、Edward FitzGerald〔エドワード・フィッツジェラルド、1809~1883年、イギリスの詩人〕に拠る英語訳で一躍名が知れるようになった。その英訳版は近代イギリス文学に大きな影響を与えた。
日本語版では、エドワード・フィッツジェラルド(1809-83年)による英訳版から蒲原有明が訳したのが最初で、『春鳥集』(本郷書院、明治38年)に収む。森亮訳で多く知られるようになった。
日本語版のペルシャ語の原典からの初訳は小川亮作に拠る(昭和24年初版、岩波文庫)。訳者小川亮作は解説で、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)をペルシアのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビンチ、1452~1519年〈ユリウス暦〉)と評している。
※小川亮作:1910(明治43)年~1951(昭和26)年。新潟県荒川町海老江に生れる。昭和3(1929)年村上中学校(現村上高校)卒業。その後、外交官となり日露協会(中国黒龍江省ハルピン)でロシア語を修め、外務省留学生としてテヘラン(イランの首都)でペルシャ語を学ぶ。このことを契機として「ルバイヤート」の原典と運命的に出会う。「ルバイヤート」は、11世紀のペルシャ(現イラン)で活躍した天才的な天文学者、科学者、数学者にして哲学者、そしてなにより詩人として知られているOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)(1048~1121)によって書かれた詩集である。小川亮作は「ルバイヤート」をペルシャ語の原典から口語に直訳し、四行詩集「ルバイヤート」(岩波書店・昭和24年初刊)が発行される。
Rubaiy(ルバーイー)詩形とはペルシア語詩の形式の一つである。ペルシア語詩はアラビア語詩の詩形と韻律に負うところが大きいが、miṣra〔ミスラーウ、半句〕とbayt〔バイト、対句〕からなり、半句ふたつで1対句となることを基本とする。これに各々の半句および対句での脚韻や押韻によって様々な詩形が形作られるが、例えばアラビア語詩の詩形に由来するqaṣīda(カスィーダ)詩形は、最初の対句の両方の半句で同じ脚韻をつくり、ふたつめの対句から最後の対句まで、後半の半句は最初の対句の脚韻と同じにする。また、mathnawī(マスナヴィー)詩形では、最初の対句での両方の半句の脚韻を同じにし、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏み、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏む、という具合に脚韻をどんどん変えることによって、変化に富んだ韻律によって場合によっては数万対句におよぶ長大な詩となる。ペルシア語詩独自の詩形である。
Rubaiy(ルバーイー)詩形の場合もペルシア語詩として独自に発展したもので、4つの半句からなるが、第1、第2、第4半句は同じ脚韻で押韻するが、第3半句の脚韻は押韻しなくても良いことになっている。ルバーイー詩形は長大なものが多いペルシア語詩のなかで、起承転結を有する簡潔な詩形であることを特徴としている。簡潔にして要を得た表現に最も適しており、素朴でありながら余韻や余情のこもった表現形式と言える。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)が存命していた時代のRubaiy(ルバーイー)は、基本的にSufism(スーフィズム)的思潮〔イスラム教の神秘主義哲学に基く思潮〕の濃いものが大半を占めていた。世の無常観や飲酒への讃美、時には神へのironical〔アイロニカル、cynical〈シニカル〉が 人の誠実さを軽蔑する のに対して、ironical(アイロニカル) は 当てこすりの,皮肉 を言う〕な心情を吐露するOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubaiy(ルバーイー)は、(Jāhiliyyah(ジャーヒリーヤ)時代〔イスラーム以前の時代を指す〕のアラブの飲酒詩や世の無常を嘆くニヒリスティックな詩の伝統を組むものとも理解出来るが、当時のRubaiy(ルバーイー)の傾向からすると、やや特異な位置づけにあるものと言える。そのため、彼よりもJalāl ad-Dīn Rūmī〔ジャラールッディーン・ルーミー、下記の※印の説明を参照〕などに代表されように酒による酩酊をSufism(スーフィズム)的な陶酔境になぞらえたり、恋人同士が互いを求める心情をSufism(スーフィズム)的な神への専一的な求道に喩えることがSufism(スーフィズム)的な神秘主義詩のセオリーとなっていったように、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のルバーイーでの文言もSufism(スーフィズム)的なものを含意しているのではないかという解釈も生まれた。
※ Jalāl ad-Dīn Rūmī(ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のIbn al-Arabi〔イブン・アル=アラビー、1165~1240年、中世のイスラム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラム神秘主義(Sufism)の確立に寄与し、後世に影響を与えた〕と並ぶ、イスラーム神学、Sufismの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味するKhamoosh(ハムーシュ)を雅号とした。/Rūmī(ルーミー)の思想の一つとして、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられる。1273年のRūmī(ルーミー)の没後、Konya〔コンヤ、トルコの都市、左の地図参照〕の墓廟を拠点としてかれの弟子によってコマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なMevlevilik(メヴレヴィー)教団が形成された。Mevlevilik(メヴレヴィー)教団では同教団の始祖と仰がれている。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的(Masnavī-ye(マスナヴィー)』。
この詩集はOmar(ウマル)の死後公表されたが、それまで彼は詩人としてはほとんど知られていなかったという。しかし数学、天文学、史学など数々の分野における多くの偉業を遺した学者としては著名であった。(近年、天文学者のウマル・ハイヤームと『ルバーイヤート』の作者ウマル・ハイヤームとは同名の別人であるとの説を唱えている学者もあるという。)
19世紀、Edward FitzGerald〔エドワード・フィッツジェラルド、1809~1883年、イギリスの詩人〕に拠る英語訳で一躍名が知れるようになった。その英訳版は近代イギリス文学に大きな影響を与えた。
日本語版では、エドワード・フィッツジェラルド(1809-83年)による英訳版から蒲原有明が訳したのが最初で、『春鳥集』(本郷書院、明治38年)に収む。森亮訳で多く知られるようになった。
日本語版のペルシャ語の原典からの初訳は小川亮作に拠る(昭和24年初版、岩波文庫)。訳者小川亮作は解説で、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)をペルシアのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビンチ、1452~1519年〈ユリウス暦〉)と評している。
※小川亮作:1910(明治43)年~1951(昭和26)年。新潟県荒川町海老江に生れる。昭和3(1929)年村上中学校(現村上高校)卒業。その後、外交官となり日露協会(中国黒龍江省ハルピン)でロシア語を修め、外務省留学生としてテヘラン(イランの首都)でペルシャ語を学ぶ。このことを契機として「ルバイヤート」の原典と運命的に出会う。「ルバイヤート」は、11世紀のペルシャ(現イラン)で活躍した天才的な天文学者、科学者、数学者にして哲学者、そしてなにより詩人として知られているOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)(1048~1121)によって書かれた詩集である。小川亮作は「ルバイヤート」をペルシャ語の原典から口語に直訳し、四行詩集「ルバイヤート」(岩波書店・昭和24年初刊)が発行される。
この記事にコメントする
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最新記事
(10/07)
(10/01)
(09/07)
(09/05)
(08/29)
最新コメント
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
[爺 09/20]
[ままだいちゅき 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター