瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝は隅田川から離れて、西の上野方面に向けて歩くことにした。まだ、明けやらぬ吉野通りを左折して。小松橋通りを西に進む。馬道通り、千束通りを横切り、国際通りに出る。国際通りを北上、最初の信号で「金美館通り」の標識が目に入り、ここを歩いてみることにする。
この通りに面して区立大正小学校があり、昭和通りをわたると、そこは下谷二丁目である。金杉通りに出るところに小野照﨑神社がある。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁(たかむら、802~853年)である。創祀の年代は不明だが次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、小野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2(852)年篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2(1625)年忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することになり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷したというものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4(1691)年頃に遷座したのではないかともいうそうじゃ。
小野照崎神社の裏に、富士山をかたどった築山がある。室町末期に始まった富士山信仰は江戸中期に盛んになり、多くの講中が組織された。講中は神仏参詣のために組織した団体で、神仏に詣でながら、おしゃべりを楽しんだのだそうじゃ。江戸時代には富士講、大山講が盛んであったが、富士講は富士山信仰の団体なのじゃ。富士登山は容易ではない、講中は江戸各地に模造富士を築いて登った。しかし今に伝わる富士塚は少なく、ここの富士塚は富士の溶岩で覆われ原型が良く保存されているということで、昭和54年5月、国の重要有形民俗文化財の指定を受けたそうじゃ。6月30日と7月1日には、山開きが行われるという。
言問通りを東進して、入谷鬼子母神(法華宗本門流の寺院で真源寺という)の前をとおり、昭和通り、左衛門橋通り、かっぱ橋道具街通り、国際通り、馬道通りを横切り江戸通りに出て、帰宅した。
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目高 拙痴无
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