瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
日曜日に眼鏡を取り替えるべく注文しておいた。本日出来上がるとのことで、花川戸の日産メガネ店に行った。新しい眼鏡を掛けて、そのまま江戸通りを南下、春日通りで何となく大江戸線に乗ることにした。森下駅で乗り換え、菊川まで行った。菊川駅のA3出口に、墨田区教育委員会の「長谷川平蔵・遠山金四郎の住居跡」の説明板があった。池波正太郎の鬼平犯科帳では平蔵の私邸は目白台にあることになっているが、実際にはこの地に私邸があったらしい。
新大橋通りを東進するとすぐに墨田区を南北に流れる大横川となり、菊川橋が架かる。その北西側のたもとにある菊川児童遊園内に、夢違(ゆめたがえ)之地蔵尊がある。昭和20(1945)年の東京大空襲で菊川橋は、本所区でも最も大勢の人が集中して亡くなった場所のひとつだという。この小さな橋の上で3000人が亡くなったのだという。このような悪夢の消滅を願い、善夢が導かれるように、昭和58(1983)年3月10日、遺族や関係者によって夢違之地蔵尊が建立されたのだと言う。
大横川に沿って北上する。大横川が竪川と交差する所から親水公園となる。公園としては1993年に開園されたもので、河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わった。面積は約63,343m²になり、北は北十間川と合流していた付近まで続く。
竪川の北側に架かっていた撞木橋は万治2(1659)年当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられたという。最初は長さ10間、幅2間の木橋であったが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年7月には、銅橋(トラス)になったが、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年に撤去されたということじゃ。なお、ここは竪川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきたという。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われる。
北斎通りに架かる北中之橋は、大横川を挟んで長崎町と津軽中屋敷側をつないでいた橋であったという。元禄10(1697)年に橋架されたそうで、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と呼ばれたということじゃ。
現在この公園は整備中で、所々で遮断され通行できなくなっている。何とか、浅草通りから東武橋まで辿り着いた。東武橋からみる東京スカイツリーは、先だって2月8日(日)に亀戸天神の帰りに見たときよりはさらに工事が進んでいるようであった。ここから総武線に沿って源森橋までくると、右折して言問通り出る。ここからは、言問橋を渡って、帰宅した。我が家の前は現在工事中で1日中騒音に悩まされている。仕事部屋に入ると婆様がいたので、新しい眼鏡をかけた写真を撮ってもらった。
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目高 拙痴无
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sechin@nethome.ne.jp です。
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