瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
雷門通りを横切り昨日と同じように、大江戸線蔵前駅から森下駅へ、さらに東京メトロ新宿線で聞く川駅に出た。ここから、三つ目通りを北上、三之橋から竪川(たてかわ)沿いに両国橋へ向けて進む。竪川は、東京都の墨田区と江東区の境をを流れる人工河川で、江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称がついたということじゃ。旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河で、全区間で上空を首都高速道路7号小松川線に覆われる状態になっている。水面よりかなり高い位置に高架があるので、陽射しが全く無いというわけではない。西側の隅田川との合流域には首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクションがある。
三之橋の南側は徳右衛門町といい、神田柳原和泉橋際にあった町が、明暦の大火にともない火除地として公収されたため寛文元年(1661年)に本所に越してきたものだという。お稲荷さんも元(もと)徳右衛門町の稲荷ということで元徳稲荷と称したということじゃ。
竪川の北沿いの道のもう一つ北の道を馬車通りといい、ここには烏亭焉馬(うてい えんば、1743~1822年)が住んでいたところだというので、それらしき跡を探してみたが見つけることは出来なかった。烏亭 焉馬は江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家。江戸の大工の棟梁の子として生れ、本名を中村英祝という。 和泉屋和助、立川焉馬、立川談州楼とも。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も好きで自ら浄瑠璃を作るほどであった。五世市川団十郎を後援する三升連(みますれん)を結成し、また「咄の会」も主催していた。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖とも言われる。牛嶋神社には「いそかすは」の狂歌碑がある。小林一茶もここに住んだことがあるらしく、説明柱が立っていた。
講談や芝居・浪花節等で知られる塩原太助もこの近くで薪炭商をしていたらしく、塩原橋の由来になったという。塩原橋を渡り川の南側の道を進むと一之橋へ出るところに江島杉山神社があった。
一之橋を渡り隅田川に近い道を歩くと「ぶらり両国街かど展実行委員会」というのが立てた説明板が並んでいる。江戸の町・赤穂浪士・両国物語等について説明されている。
両国橋東から親水テラスに降りて久し振りに吾妻橋まで歩いた。隅田川に架かる橋は既に老朽化した橋が多い。両国橋もその1つであるが、現在橋桁の補強工事が行われている。
一之橋を渡り隅田川に近い道を歩くと「ぶらり両国街かど展実行委員会」というのが立てた説明板が並んでいる。江戸の町・赤穂浪士・両国物語等について説明されている。
両国橋東から親水テラスに降りて久し振りに吾妻橋まで歩いた。隅田川に架かる橋は既に老朽化した橋が多い。両国橋もその1つであるが、現在橋桁の補強工事が行われている。
水上バスの浅草ステーションの改装のための、仮設船着場は殆んど完了している。そのうちいよいよ改装工事が始るのじゃろう。我が家のすぐ近くの隅田公園梅園は月末の梅まつりを控え、準備が進んでいるようである。梅園の俳句の木札が立てられていた。
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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