静岡県の伊豆半島に伝わる七つの不思議な物語のことです。
①大瀬明神の神池(沼津市)
大瀬の海水浴場の奥、大瀬神社(引手力命神社)の境内にあり、天然記念物ビャクシンの森に囲まれています。なぜ七不思議と呼ばれるかは海までほんのわずかの距離なのに淡水の池であること。池には鯉や鮒、ナマズが多数生息しています。
古くからこの池を調べたり、魚や動植物を獲ったりすると祟りがあるとの言い伝えがあり、また池の透明度が低く、なぜこんな場所に淡水の池があるのか、未だに解明されていません。(富士山の伏流水の説などもあるようです)
海水浴で賑わう大瀬崎ですが、神池まで行く方は少なく、今日もひっそりと淡水を湛えていることでしょう。
②堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
天平年間、堂ヶ島を根城にする海賊がいました。頭目は墨丸という名で、多くの族を従えて沖行く船を襲い、村々から略奪を行っていました。都への献納の砂金や鰹節の荷造りが終わり宴も終えんを迎えていた村に、墨丸率いる海賊が砂金目当てに押し入ってきました。村人も抵抗をしましたが、砂金は墨丸たち盗賊に奪い取られてしまいます。
海賊たちは奪った砂金とともに村の薬師堂の前の橋に差しかかったところ、橋は地震のように揺れ、海賊たちを渡らせません。終いには橋の下の川にもんどりうって落ちていく有様。最後に墨丸が砂金の袋を大事に抱え渡ろうとすると、仁王様が現れ、墨丸を薬師如来様の前に差し出しました。薬師如来様は墨丸に人の道を説き、墨丸はそれまでの悪行を悔い、以降このお堂の守護に尽くしました。
この後、薬師堂の前の橋は、心の汚れたものが渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになりました。月日が流れ、その橋も薬師堂も今はありませんが、由来を書いた石碑がその場所で昔の物語を伝えています。
③石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
昔、石廊崎の沖で嵐に遭った船主が、帆柱を石廊権現に奉納することを誓うと、その船は無事に目的地に着くことができました。
その帰り道、石廊権現との誓いを忘れて通り過ぎようとした時、急に船は進まなくなり、天候も急変して嵐になりました。約束を思い出した船主は斧で帆柱を切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り石廊権現のある絶壁の30メートル付近まで、まるで供えたように打ち上げられました。すると不思議なことに風雨は収まり、船も無事に帰郷することができました。
帆柱は崖に突き刺さり、そこに石廊権現を祭る社が造られました。柱は社殿の柱として今も残っており、ガラス越しにそれを見ることができます。
④手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
昔、手石の近くに七兵衛とい漁師がいました。妻を亡くし、三人の子供を抱え貧しい暮らしを送っていましたが、ある時、末子の三平が重い病気にかかってしまいます。近くの寺に朝夕お祈りをしていると、ある日、七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にいるアワビを取って食べさせよ」とのお告げをうけました。
七兵衛は小舟で洞窟に漕ぎ入ると、奥から黄金の三体の仏様が現れました。目の眩んだ七兵衛は思わず船底にひれ伏し、恐るおそる目を上げると、舟の中にはたくさんのアワビが投げ込まれていました。これを食べた三平の病はやがて全快し、その霊験は日本全国に知られるようになりました。
この時の三体の仏像は、鳩穴から差し込んだ光の屈折がそう見せたと言われていますが、七兵衛の子を思う信心が起こした奇跡なのでしょうね。
⑤河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
昔、河津の里に杉鉾別命(スギホコワケノミコト)という武勇に優れた男神がいました。ある日のことミコトが酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、野火起こり、あっという間に周りを囲まれてしまいました。そこに無数の小鳥が飛んできて河津川から水を運び、ミコトは難を逃れたそうです。
この伝承に由来して、河津ではミコトが災いにあった12月18日~23日の間、鳥を食べない、玉子も食べない、お酒も飲まないという「鳥精進・酒精進」が守られており、この禁を破ると火の災いにあうと伝えられてきました。今でも氏子たちによって守られ、この時期になると学校の給食メニューから鶏肉・玉子が外されるなど、その風習が続いているようです。
⑥独鈷の湯(伊豆市修善寺)
弘法大師(空海が)が修善寺に訪れた時、病の父の体を桂川の水で洗う少年を見て、「川の水では冷たかろう」と仏具の独鈷で岩を打ち砕き霊泉を湧き出させたという伝説にちなんでいます。時は807年(大同2年)、これが伊豆最古の温泉と言われています。
現在の独鈷の湯は台風などで桂川の氾濫を引き起こす原因になりかねないとして2009年4月に19m下流に移設されました。
移設前の独鈷の湯では、回りから見えるのを平気で入浴する猛者もいましたが、現在は一般的に入浴は禁止されており、足湯として観光客で賑わっています。
⑦函南のこだま石(田方郡函南町)
昔、平井の村におらくという母親が息子与一と二人で暮らしていました。夫は戦に駆り出され行方知れずで、たいへん貧しい暮らしをしていました。あるとき村の和尚の勧めで峠を越えた熱海の湯治場へ、商いに出かけるようになりました。峠道の途中に休むのに格好の大きな岩があり、二人はこの岩に腰掛け、一休みしながら語らい合いました。
母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃、おらくは病に倒れ帰らぬ人となってしまいました。与一は悲しみのあまり、母とともに語らった大岩に向かい、声を限りに母の名を呼び続けたところ、岩の底から「与一よ、与一」と懐かしい母の声がこだましてきました。来る日も来る日も懐かしい母の声を聞きに行く与一に村人は心打たれ、この石を「こだま石」と呼ぶようになったそうです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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