瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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三度栗(菊川市三沢)
 元
3年(1573年)の三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)で、武田軍に敗れた徳川家康。敗走する家康は、なんとか追手をまき、森町の園田という地域にたどり着きました。空腹だった家康は、一軒の農家の老婆に食べ物を恵んで欲しいとお願いしたところ、老婆は拾ったばかりの生栗をたくさんくれました。家康は、ここで食べ物にありつけたおかげで、空腹を満たす事ができ、武田軍の追っ手からなんとか逃げ切る事に成功しました。この時、食べていた栗の最後の1つを、感謝の気持ちを込め老婆の庭先に植え、やがてそこに芽を出した栗の木が、年に3度実をつけるようになりました。
 
下の図版にあるように、徳川家康ではなく、弘法大師となっている話もあります。
 
京丸牡丹(浜松市天竜区春野町)
 
静岡県浜松市天竜区春野町気田に京丸という地区があり、その京丸と谷を挟んで南に位置する岩岳山の北側の人も鳥獣をも寄せつけぬ断崖絶壁には、唐傘大の牡丹の花が60年に一度咲くといわれ、見つけることが難しい幻の花「京丸牡丹」と呼ばれています。
 
昔、京丸の里の村長の家に、山道に踏み迷い病み疲れた若い旅人が担ぎこまれましたが、村長の娘の献身的な看病のおかげでしだいに元気を取り戻します。若者は健康を回復した後もそのまま村に残り、畑の収穫を手伝ったりして、とてもよく働きました。いつしか若者と美しい村長の娘は恋仲となり、その噂は村人たちも伝わるようになります。村長は若い2人の仲を認めてやりたかったが、人里離れたこの村には掟というものがあり、よそ者との婚姻を固く禁じていたのです。
 
ある日のこと村長は旅の若者を諭し、この里から出て行ってもらうことになりましたが、それを知った村長の娘も村長がとめるのを振り払って若者のあとを追ったのでした。村長は2人がどこか他所の土地で幸せに暮らしてくれることを願ったが、若い2人の安住の地はどこにもなく、あてもなくさすらったのち、数ヵ月後に乞食のようなみすぼらしい姿で再び村に舞い戻って来たのです。しかし、村の掟は不変であり、非情でした。2人はいつまでも村にとどまることは許されず、村を出されました。その数日後2人は里の近くを流れる川の渕に身を投げたのです。
 
以来、2人の魂は、その命日、美しい牡丹の花となって渓間に咲き、その散り落ちた花びらは、川の流れにのって流れるといい、悲しい恋の花を咲かせる谷を村人たちは牡丹谷と呼びました。
 
波小僧(遠州灘)
 
遠州七不思議における波小僧の伝承は以下のようなものです。
 
奈良時代の僧・行基が年老いた母の快癒を祈願して2体の藁人形を作り、田植えをさせました。行基は田植えを終えた藁人形に読経を聞かせた後、風雨の災害が起きる時は必ず事前に人々へ知らせるよう言い聞かせて久留女木川(都田川の旧称)へ流しました。藁人形のうち1体は海へ流れ着き、漁師が仕掛けておいた網に引っかかります。海から引き上げられた波小僧は漁師に命乞いをし、助けてくれれば波の音で天気を知らせると約束します。漁師は波小僧を網から解放し、波小僧は海の向こうへ姿を消しました。こうして遠州灘の波の音は「雷三里、波千里」と呼ばれる地鳴りに似た独特の響きを持つようになり、漁師たちは波の響きが南東から聞こえれば雨、逆に南西から聞こえれば晴れと知ることが出来るようになったといいます。
 
また、浜松市中区曳馬には別の伝承が残されています。
 
少年が田植えをしていると、親指大の波小僧が顔を出しました。波小僧は大雨の日に海から陸に上がって遊んでいましたが日照り続きで海へ帰れなくなったと言い、気の毒に思った少年は波小僧を海へ帰してやります。その後も日照りのため不作が続き、少年が途方に暮れて海辺に立っていると波小僧が現れます。波小僧は少年に恩返しをすると言い、雨乞いの名人である父親に頼んで雨を降らせると約束します。そして、波の響きが南東から聞こえれば雨が降る合図だと言い残して海の向こうへ帰って行き、それから間もなく南東から波が響いて雨が降り田畑が潤いました。それ以後、農民は波小僧の知らせで事前に天気を知ることが出来るようになったといいます。
 
片葉の葦(菊川市三沢)
 
静岡県菊川市(旧小笠郡菊川町)中内田の浄土宗 松風霊山 応声教院(おうしょうきょういん)の南側には、遠州七不思議(えんしゅうななふしぎ)のひとつの「片葉の葦」(かたはのあし)があります。
 
「片葉の葦」は、葦の葉が茎の片側にしか伸びません。
 
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)が、応声教院を参拝する時に馬を松の木へ繋いでおいたところ、馬が葦の葉の片方だけを全部食べたからだとされています。


 

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目高 拙痴无
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