瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
1.「貧乏神出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」と木柱の上部を棒で思いっきり3回叩く。/2.同じように木柱の下部を3回蹴飛ばす。/3.的に向かって豆を思いっきり投げつける!! /4.拝む
ここから、亀戸七福神めぐりをして横十間川にでることができるので、七福神めぐりをしながら歩いて帰宅することにした。
①常光寺:曹洞宗の常光寺は、西帰山と号し、江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場という。江戸を出て最初の巡礼地として栄え、「新編武蔵国風土記稿」に「本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これを六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多い」と記載されているという。現在は、亀戸七福神の寿老人として親しまれているという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名した。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われている。 以来、益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、神徳が四方に及んだので、葛飾神社香取太神宮と称えるに至ったという。(当時の葛飾は下総国の大半を意味する) 元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている。元々本社の相殿に大国主神が奉仕されていたが、明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭された。
『普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。(江東区教育委員会掲示による)
⑥龍眼寺(萩寺):「応永2年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。/その後現在の「龍眼寺」と改められた。/御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。」(境内掲示より)
「龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。/また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」(江東区掲示より)
この記事にコメントする
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター