瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
長野県は飯田市に日本で唯一の『貧乏神』を祀った『元気になれる』神社があるそうな。貧乏神神社といっても貧乏神に憑かれるということではなく、『心の中にある貧乏な心(マイナス思考)・自分自身の弱い心を叩く』元気になれる神社なのだという。参拝方法は、
1.「貧乏神出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」と木柱の上部を棒で思いっきり3回叩く。/2.同じように木柱の下部を3回蹴飛ばす。/3.的に向かって豆を思いっきり投げつける!! /4.拝む
これで、心の憂さをスッキリさせるのだそうだ。亀戸はサンストリートにこの貧乏神神社の分社があるというので、出かけてみた。総武線の亀戸駅東口から京葉道路を越えたところに、鎮座ましましていた。なんとも周りの賑々しさに圧倒されて異様な風景のようにも感じられた。
亀戸駅東口に引き返し、線路沿いの道を東に進み始めてのガードを潜ると東武亀戸線の踏み切りを越えて、そのまま北進すると、何時のまにやら亀戸水神宮の前にいた。
ここから、亀戸七福神めぐりをして横十間川にでることができるので、七福神めぐりをしながら歩いて帰宅することにした。
①常光寺:曹洞宗の常光寺は、西帰山と号し、江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場という。江戸を出て最初の巡礼地として栄え、「新編武蔵国風土記稿」に「本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これを六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多い」と記載されているという。現在は、亀戸七福神の寿老人として親しまれているという。
②東覚寺:かつては明王山東覚寺と号し、「盗難除け不動」「亀戸不動」として信仰を集めた不動明王を本尊としていた。今も門前に「大山同木同作 不動明王」の標石が立っている。この不動明王は、良弁僧正が雨降山大山寺(神奈川県伊勢原市の大山不動)の不動明王と同じ木から彫ったと伝えられる。伝承によれば、開山の玄覚法印はこの地に草庵を結んでいた。享禄4(1531)年笈箱を背負った一人の僧が宿を求めて訪れたので、快く泊めた。翌朝、仏間に入ると屈強な男が呆然としており、声を掛けても何も言わなかった。不思議に思っていると、昨夜泊めた僧が現れ、この男は盗みに入ったのだが、笈箱に納めた不動明王の罰にあたり、口がきけなくなったのだと言った。そして、不動明王に祈願すると口がきけるようになったので、男は改心し、二度と盗みはしないと誓って立ち去った。これを見た玄覚は、この尊像が盗難・剣難の守護仏であると聞き、衆生済度のために役立てたいと懇請して譲り受けた。そして、一宇を建立したのが東覚寺の始まりであるという。明治43(1910年、資料によっては明治41年とも)深川(資料によって本村町とも猿江とも。『御府内八十八ヶ所大意』では本所猿江町)にあった御府内73番札所の法号山覚王寺を合併して現在の山号寺号に改めるとともに、御府内の札所も継承し、大日如来を本尊とした。七福神の1つ弁財天を祀る。
③香取神社:当社の創設は天智天皇4 (665) 年、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請して太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉ったのが創立の起因であるという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名した。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われている。 以来、益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、神徳が四方に及んだので、葛飾神社香取太神宮と称えるに至ったという。(当時の葛飾は下総国の大半を意味する) 元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている。元々本社の相殿に大国主神が奉仕されていたが、明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭された。
④普門院:真言宗智山派の普門院は、福聚山善應寺と号し、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転した。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承がある。伊藤左千夫墓や大島伯鶴(1857~1912年、講談の中興の祖と言われた)の歌碑など数多くの文化財がある他、亀戸七福神のひとつ毘沙門天としても親しまれている。
『普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。(江東区教育委員会掲示による)
⑤天祖神社:江東天祖神社は、応永2(1395)年に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられ.る。古くは柳島総鎮守神明宮と称されてたが、柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至っており、亀戸七福神の福禄寿としても有名となった。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社である。
⑥龍眼寺(萩寺):「応永2年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。/その後現在の「龍眼寺」と改められた。/御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。」(境内掲示より)
「龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。/また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」(江東区掲示より)
萩寺を出て、柳島橋を渡れば、北十間川にかかる十間橋。ここからのスカイツリーは全景が望めるので、何時来ても幾たりかの人がカメラを構えている。川沿いに北の道をとおって、桜橋通りを西進し、桜橋を渡って帰宅した。
1.「貧乏神出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」と木柱の上部を棒で思いっきり3回叩く。/2.同じように木柱の下部を3回蹴飛ばす。/3.的に向かって豆を思いっきり投げつける!! /4.拝む
これで、心の憂さをスッキリさせるのだそうだ。亀戸はサンストリートにこの貧乏神神社の分社があるというので、出かけてみた。総武線の亀戸駅東口から京葉道路を越えたところに、鎮座ましましていた。なんとも周りの賑々しさに圧倒されて異様な風景のようにも感じられた。
亀戸駅東口に引き返し、線路沿いの道を東に進み始めてのガードを潜ると東武亀戸線の踏み切りを越えて、そのまま北進すると、何時のまにやら亀戸水神宮の前にいた。
ここから、亀戸七福神めぐりをして横十間川にでることができるので、七福神めぐりをしながら歩いて帰宅することにした。
①常光寺:曹洞宗の常光寺は、西帰山と号し、江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場という。江戸を出て最初の巡礼地として栄え、「新編武蔵国風土記稿」に「本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これを六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多い」と記載されているという。現在は、亀戸七福神の寿老人として親しまれているという。
②東覚寺:かつては明王山東覚寺と号し、「盗難除け不動」「亀戸不動」として信仰を集めた不動明王を本尊としていた。今も門前に「大山同木同作 不動明王」の標石が立っている。この不動明王は、良弁僧正が雨降山大山寺(神奈川県伊勢原市の大山不動)の不動明王と同じ木から彫ったと伝えられる。伝承によれば、開山の玄覚法印はこの地に草庵を結んでいた。享禄4(1531)年笈箱を背負った一人の僧が宿を求めて訪れたので、快く泊めた。翌朝、仏間に入ると屈強な男が呆然としており、声を掛けても何も言わなかった。不思議に思っていると、昨夜泊めた僧が現れ、この男は盗みに入ったのだが、笈箱に納めた不動明王の罰にあたり、口がきけなくなったのだと言った。そして、不動明王に祈願すると口がきけるようになったので、男は改心し、二度と盗みはしないと誓って立ち去った。これを見た玄覚は、この尊像が盗難・剣難の守護仏であると聞き、衆生済度のために役立てたいと懇請して譲り受けた。そして、一宇を建立したのが東覚寺の始まりであるという。明治43(1910年、資料によっては明治41年とも)深川(資料によって本村町とも猿江とも。『御府内八十八ヶ所大意』では本所猿江町)にあった御府内73番札所の法号山覚王寺を合併して現在の山号寺号に改めるとともに、御府内の札所も継承し、大日如来を本尊とした。七福神の1つ弁財天を祀る。
③香取神社:当社の創設は天智天皇4 (665) 年、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請して太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉ったのが創立の起因であるという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名した。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われている。 以来、益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、神徳が四方に及んだので、葛飾神社香取太神宮と称えるに至ったという。(当時の葛飾は下総国の大半を意味する) 元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている。元々本社の相殿に大国主神が奉仕されていたが、明治年間に至り、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内に鎮祭された。
④普門院:真言宗智山派の普門院は、福聚山善應寺と号し、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転した。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承がある。伊藤左千夫墓や大島伯鶴(1857~1912年、講談の中興の祖と言われた)の歌碑など数多くの文化財がある他、亀戸七福神のひとつ毘沙門天としても親しまれている。
『普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。(江東区教育委員会掲示による)
⑤天祖神社:江東天祖神社は、応永2(1395)年に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられ.る。古くは柳島総鎮守神明宮と称されてたが、柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至っており、亀戸七福神の福禄寿としても有名となった。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社である。
⑥龍眼寺(萩寺):「応永2年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。/その後現在の「龍眼寺」と改められた。/御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。」(境内掲示より)
「龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。/また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」(江東区掲示より)
萩寺を出て、柳島橋を渡れば、北十間川にかかる十間橋。ここからのスカイツリーは全景が望めるので、何時来ても幾たりかの人がカメラを構えている。川沿いに北の道をとおって、桜橋通りを西進し、桜橋を渡って帰宅した。
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目高 拙痴无
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誕生日:
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