瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
「詩聖」と称される中国・唐代の詩人である杜甫の漢詩に、飲中八仙歌(いんちゅう はっせんか)というのがある。杜甫が八仙人に因んで戯れに当時の名だたる酒客八人を選び、漢詩に歌ったもので、いわば、唐代の酒豪列伝みたいなものである。
賀知章(がちしょう)が馬で行く姿は船に乗っているように揺れている。目がちらついて井戸に落ちたらそのまま井戸の底で眠ってしまう。
汝陽王(じょようおう)は三斗の酒を飲んでからやっと朝廷にお出ましだ。途中で麹(こうじ)車とすれ違うと口から涎をだらだら流す。彼は酒泉の領主に換えて貰えないのを残念がっている。
左大臣(左丞相、李適之・りてきし)は毎日の酒宴のために万という金を使っている。まるで大鯨が川という川の水を飲み干してしまうように飲み、杯を口にしながら聖人のような清酒がよくて賢人のような濁酒(どぶろく)は好かないという。
崔宗之(さいそうし)はとても垢抜けした美少年だ。杯を揚げ白眼ではるかの青空をにらむ。すっきりした彼の姿は見事な樹木が風に吹かれているようだ。
蘇晋(そしん)は刺繍した仏様の前で長い精進は続けはするが、酔っ払うといつも坐禅だといって逃げてしまう。
李白は一斗の酒を飲む間に詩を百篇作る。いつも長安の街の酒屋で眠ってしまう。天子のお召しがあっても船に乗らないで、「私は酔いどれ仙人です」と自分から言っている。
張旭は三杯飲んでから書く、草書の聖人といわれている。いざ筆を揮って紙の上に書き始めると雲や煙が湧き起るようだ。
焦遂は五斗飲むとやっとしっかりしてきて、素晴しい話と雄弁は満座の人人を驚かせるばかりだ。
飲中八仙歌に歌われた八人の人物について調べてみた。
① 賀知章(659~744年): 当時の風流人として名高く、自ら四明酔客と号した。太子賓客・秘書監となる。李白の才能を発見し、「謫(たく)仙人」と称えた。744年上疏して故郷(淅江省永興)に帰ることを乞い、玄宗が親しく詩を賦して見送ったという。帰郷してその年に逝去した。行年86歳。一句の「騎馬似乗船」は南方の淅江出身の知章は船に乗り慣れているが馬は不得意ということと、馬上の酔態を合わせて詠じたもの。
② 汝陽王李璡(りしん、?~750年): 玄宗の兄である寧王李憲の子で、皇族の一人。杜甫の庇護者であった。
③ 左大臣: 左丞相 李適之(りてきし、?~746年)のこと。皇族の一人で742年、左丞相についたが、746年4月、時の宰相李林甫(りりんぽ、? ~752年)に排斥され、翌年正月に毒を仰いで自殺した。
④ 崔宗之(生没年不詳): 宰相 崔日用(さいじつよう)の子で、父の封爵である斉国公を継ぎ、侍御史になった。李白の友人である。
⑤ 蘇晋(そしん、675~734年): 則天武后朝の重臣、蘇珦(そきょう)の子。賀知章と同期の進士で太子左庶子になった。59歳で没。文章に巧であったが、仏教にも詳しく、刺繍した仏画を大切にしていたという。
⑥ 李白(701~762年): 言うまでもなく盛唐期の杜甫と並ぶ詩人。酒仙として逸話は当時からよく知られている。「天子呼来不上船」の一句は李白が玄宗の宮廷に入って翰林供奉の官を授けらたが、一日玄宗が白蓮池で舟遊びをしたとき、李白を召して文を作らせようとしたところ、泥酔していた彼は高力士に助けられて漸く船に上ることができたという。范伝正の「李公新墓碑」に見えるエピソードである。
⑦ 張旭(ちょうきょく、生没年不詳): 呉(江蘇省呉県)の人。草書の名手として名高く、酒を飲んで大酔するたびに大声を上げて走り回り、筆をおろして書を書いたという奇行の人であったという。当時すでにその奇行ぶりと名筆は余程知られていたと見え、杜甫の他の作品、あるいは高適(こう せき、生年不詳~765年)、李頎(りき、690~751年)らの詩篇に詠じられている。
⑧ 焦遂(しょうすい): この人物に事跡については不明。八仙人中ただ一人『唐書』に伝が見えない。唐の袁郊(えんこう)の『甘沢謡』に「布衣焦遂」と見えることから、官位のない平民であったと思われる。焦遂の友人である孟雲卿(もううんけい)は杜甫の交友の一人であったので、あるいは杜甫とも交友があったのかもしれない。
賀知章(がちしょう)が馬で行く姿は船に乗っているように揺れている。目がちらついて井戸に落ちたらそのまま井戸の底で眠ってしまう。
汝陽王(じょようおう)は三斗の酒を飲んでからやっと朝廷にお出ましだ。途中で麹(こうじ)車とすれ違うと口から涎をだらだら流す。彼は酒泉の領主に換えて貰えないのを残念がっている。
左大臣(左丞相、李適之・りてきし)は毎日の酒宴のために万という金を使っている。まるで大鯨が川という川の水を飲み干してしまうように飲み、杯を口にしながら聖人のような清酒がよくて賢人のような濁酒(どぶろく)は好かないという。
崔宗之(さいそうし)はとても垢抜けした美少年だ。杯を揚げ白眼ではるかの青空をにらむ。すっきりした彼の姿は見事な樹木が風に吹かれているようだ。
蘇晋(そしん)は刺繍した仏様の前で長い精進は続けはするが、酔っ払うといつも坐禅だといって逃げてしまう。
李白は一斗の酒を飲む間に詩を百篇作る。いつも長安の街の酒屋で眠ってしまう。天子のお召しがあっても船に乗らないで、「私は酔いどれ仙人です」と自分から言っている。
張旭は三杯飲んでから書く、草書の聖人といわれている。いざ筆を揮って紙の上に書き始めると雲や煙が湧き起るようだ。
焦遂は五斗飲むとやっとしっかりしてきて、素晴しい話と雄弁は満座の人人を驚かせるばかりだ。
飲中八仙歌に歌われた八人の人物について調べてみた。
① 賀知章(659~744年): 当時の風流人として名高く、自ら四明酔客と号した。太子賓客・秘書監となる。李白の才能を発見し、「謫(たく)仙人」と称えた。744年上疏して故郷(淅江省永興)に帰ることを乞い、玄宗が親しく詩を賦して見送ったという。帰郷してその年に逝去した。行年86歳。一句の「騎馬似乗船」は南方の淅江出身の知章は船に乗り慣れているが馬は不得意ということと、馬上の酔態を合わせて詠じたもの。
② 汝陽王李璡(りしん、?~750年): 玄宗の兄である寧王李憲の子で、皇族の一人。杜甫の庇護者であった。
③ 左大臣: 左丞相 李適之(りてきし、?~746年)のこと。皇族の一人で742年、左丞相についたが、746年4月、時の宰相李林甫(りりんぽ、? ~752年)に排斥され、翌年正月に毒を仰いで自殺した。
④ 崔宗之(生没年不詳): 宰相 崔日用(さいじつよう)の子で、父の封爵である斉国公を継ぎ、侍御史になった。李白の友人である。
⑤ 蘇晋(そしん、675~734年): 則天武后朝の重臣、蘇珦(そきょう)の子。賀知章と同期の進士で太子左庶子になった。59歳で没。文章に巧であったが、仏教にも詳しく、刺繍した仏画を大切にしていたという。
⑥ 李白(701~762年): 言うまでもなく盛唐期の杜甫と並ぶ詩人。酒仙として逸話は当時からよく知られている。「天子呼来不上船」の一句は李白が玄宗の宮廷に入って翰林供奉の官を授けらたが、一日玄宗が白蓮池で舟遊びをしたとき、李白を召して文を作らせようとしたところ、泥酔していた彼は高力士に助けられて漸く船に上ることができたという。范伝正の「李公新墓碑」に見えるエピソードである。
⑦ 張旭(ちょうきょく、生没年不詳): 呉(江蘇省呉県)の人。草書の名手として名高く、酒を飲んで大酔するたびに大声を上げて走り回り、筆をおろして書を書いたという奇行の人であったという。当時すでにその奇行ぶりと名筆は余程知られていたと見え、杜甫の他の作品、あるいは高適(こう せき、生年不詳~765年)、李頎(りき、690~751年)らの詩篇に詠じられている。
⑧ 焦遂(しょうすい): この人物に事跡については不明。八仙人中ただ一人『唐書』に伝が見えない。唐の袁郊(えんこう)の『甘沢謡』に「布衣焦遂」と見えることから、官位のない平民であったと思われる。焦遂の友人である孟雲卿(もううんけい)は杜甫の交友の一人であったので、あるいは杜甫とも交友があったのかもしれない。
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目高 拙痴无
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