瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
菅首相:年頭会見「小沢切り」強めるも待ち構えるハードル ―― 菅直人首相は4日の年頭記者会見で、民主党の小沢一郎元代表が強制起訴された場合は離党や議員辞職を含む出処進退を自ら判断するよう求め、昨年末からの「小沢切り」姿勢を一層強めた。消費増税を含む社会保障と税制の一体改革を進めるには、小沢氏の問題を解決し、政権の求心力を高めて野党の協力を得ることが不可欠だからだ。だが、首相が「小沢切り」に突き進めば党内の反発も強まり、求心力がさらに低下する可能性もある。野党の協力機運も乏しく、首相の「初夢」実現までには、さまざまなハードルが待ち構えている。
◇求心力、国会…課題山積 ―― 「私が初めて衆院選に立候補したのは、ロッキード選挙と呼ばれた選挙だった。政治とカネを何とかしなければ、日本の民主主義はおかしくなってしまうと立候補した」/菅首相は年頭会見で、小沢氏の政治の師である田中角栄元首相を引き合いに、小沢氏を厳しく批判した。/通常国会開会前に小沢問題にけりをつけ、野党との連携強化に進まなければ、政権維持はおぼつかない--。首相ら党執行部は、国会開会までに小沢氏の衆院政治倫理審査会(政倫審)出席を実現させ、小沢氏の強制起訴があれば離党勧告にも踏み切りたい考え。さらに、13日の党大会後、すみやかに内閣改造・党人事も行い「強力な態勢」を構築した上で、国会で野党の協力を得ながら11年度予算案の早期成立を目指す。/だが、小沢氏周辺は「国会開会前の政倫審出席まで(党が)決めたわけではない」との立場。小沢氏が出席を拒んで執行部が離党勧告に踏み切ろうとしても、勧告には小沢氏側の議員も多い常任幹事会の決定が必要で、実現は容易ではない。/小沢氏は4日のBS11の番組収録で「私自身のことは、私と国民が判断する」とけん制する一方「党内政局レベルの話ばかりになると、国民も『何をやっているんだ』という話になる」と述べ、首相の姿勢を批判した。/小沢氏側は党大会前に開かれる役員会や常任幹事会、全国幹事長会議に照準を合わせ、執行部批判を強めようともくろむ。4月の統一地方選を控えた地方議員が党内抗争の続く現状を批判することも予想され、これが小沢氏側に有利に働く可能性も否定できない。/小沢氏批判の急先鋒(せんぽう)である前原誠司外相も、4日の会見で「政治とカネの問題は大事なテーマだが、政権が信頼されるために大事なことは政策の中身ではないか」と指摘。小沢問題に集中するあまり「本論」がおろそかになっていないかとの懸念を示した。
◇消費税協議に野党冷ややか ―― 「全力を挙げて与党を追い込み、解散を勝ち取ることが今年の目標だ」。菅首相に先立ち伊勢神宮を参拝した自民党の谷垣禎一総裁は、会見で対決姿勢をあらわにした。問責決議を受けた仙谷由人官房長官らを首相が交代させない限り、通常国会で審議に応じない姿勢も改めて強調した。/首相は社会保障と税制の一体改革のための与野党協議を呼び掛けたが、野党側に歩み寄りの機運は乏しい。谷垣氏は会見で「政府は素案を用意して対話を呼び掛けるべきだ」と述べる一方「(農業の)戸別所得補償や子ども手当をそのままにして、どれだけ消費税率を持っていくのか展望が明らかでない」と批判。公明党の山口那津男代表も4日「社会保障のあり方の中身が示されず、消費税だけが出てくるようでは国民に違和感が生じる」と記者団に述べ、税制改正論議が先行しないようけん制した。/社会保障に関する与野党協議は、かつて自公両党も与党時代に提唱しており、谷垣、山口両氏とも門戸を閉ざしてはいない。だが、4月の統一地方選前に、求心力の衰えた菅政権に安易に手を貸せば、それぞれ党内で不満が噴出しかねない。対決姿勢は簡単には変えられないのが実情だ。/共産党の志位和夫委員長は同日、党の会合で「大企業への減税ばらまき反対と軍事費削減の旗を掲げ、消費税増税反対の戦いに取り組みたい」と力説。みんなの党の渡辺喜美代表は栃木県大田原市で「社会保障を守るには4%の(経済)成長を達成すればできる」と、社会保障財源としての消費増税に反対した。
◇TPP参加、首相「6月メド」言明で国内農業の強化策急ぐ ―― 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉への参加について、菅首相は「最終判断は6月ごろが一つのメドだ」と表明した。閣僚間で意見が分かれていた判断時期を、首相が初めて明言したことで、政府はTPP参加で打撃を受ける国内農業の強化策の具体化を急ぐことになる。/参加の是非を判断する時期について、仙谷由人官房長官ら積極派は、政府の「農業改革の基本方針」がまとまる6月ごろと示唆。鹿野道彦農相ら慎重派は、米ハワイでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の開かれる11月までとの認識を示していた。/しかし、TPP交渉に参加する米国など9カ国は、今月から関税撤廃に関する協議を始めることで合意している。「参加が遅れるほど、不利なルールをのまざるを得なくなる」(日本政府関係者)との懸念が首相の「6月発言」につながった。/ただ、6月に参加しても「協定の大枠作りに関与するには遅すぎる」(同)可能性がある。国内農業関係者の反発も強く、参加へのハードルは依然高い。 毎日新聞 2011年1月5日 0時04分(最終更新 1月5日 1時38分)
中国にも日本の七福神に似た「八仙」というものが有る。道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚い。掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっている。
八仙のメンバーは時代によって異なっていたが、明の呉元泰による『八仙東遊記』成立後は、以下の八人で固定された。
① 李鉄拐(りてっかい):絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、彼はもとはがっしりとした体格の道士であった。 二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。 そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。 しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。 鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体が既に焼かれており、近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。(葫蘆〈瓢箪〉)
② 漢鍾離(かんしょうり)または鍾離権(しょうりけん):姓を鍾離といい、名は権である。漢鍾離は「漢の人、鍾離権」の意味である。字は寂道。号は雲房先生。正陽真人とも呼ばれる。自称「天下都散漢(天下一の暇人)鍾離(鍾離権)」。五代の隠者とされるが、生没年も含め、確かなことは不明である。師は東華帝君とされ、終南山で秘法を授かり、仙人となったとされる。その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれる。(芭蕉扇)
③ 呂洞賓(りょどうひん):名を巌といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。 唐の貞元中(785年 - 805年)に、蒲州の蒲坂県(陝西省米脂県)で生まれたとする資料もあるが、各資料によって年代・出生地等が統一されず、生没年も含め、確かなことは不明である。師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。(剣)
④ 藍采和(らんさいわ):八仙の中でも謎の多い人物。そもそも男なのか女なのか、それすら明確ではない。藍采和というのも、本名ではないようである。。一応、唐の頃の人らしいが。伝承によれば、ホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりする。手に拍子木を取って歌い、それで銭を得ていたといい、その歌は、実は全部予言の歌だったという。後から聞いた日都が悟ることになったという。(花籃〈花かご〉)
⑤ 韓湘子(かんしょうし):名は湘、字は清夫といい、唐代の文豪・韓愈の甥であり、子供の頃から韓愈に養われていたが、韓愈の子弟たちが学問に励む一方、彼は酒ばかり呑みぶらぶらしている放蕩者だった。 二十歳の頃、突然行方不明になったかと思うと、しばらくしてぼろを身につけて帰ってきた。 韓愈が学問をするようにすすめると、「私が学んでいることはあなたのものとは違います」と言い、草の花をすぐに咲かせることができる、と言った。 彼が盆に土を盛り、牡丹を植えると、彼が言ったとおりすぐに花が咲いた。 よく見ると、花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」と書いてあった。意味を尋ねると、月日が経てばわかるという。819年、帝の怒りに触れた韓愈は潮州(今の広東省潮安県)へ流され、その途中大雪に遭うが、そこに韓湘子が現れ、以前自分が咲かせた花びらに書かれていた一句が的中したのだと言う。 韓愈が地名を尋ねてみると、そこははたして藍関だった。 そこで韓愈はその句に語句を付け足して、詩にして韓湘子に贈った。 やがて宿場に着くと、韓湘子は韓愈に一粒の薬を渡し、「瘴気の立ち込める地方では健康を保ちにくいでしょう。これを一粒飲めば、瘴気を防ぐことができます」と言い、しばらくして去っていった。 その後、韓湘子の言ったことはすべて的中したという。師は呂洞賓と漢鍾離。洪涯先生という説もある。(笛)
⑥ 何仙姑(かせんこ):何仙姑(かせんこ)は中国の女仙で、八仙の一人。名は瓊で、「仙姑」とは女仙という意味である。八仙中唯一の女仙。暗八仙は荷花(蓮の花)。 『仙仏奇踪』によると、彼女は唐代の武則天の時に、広州の増城県にある雲母渓にいた何秦の娘で、生まれたときには六本の髪の毛が生えていた。十四、五歳のときに、夢に現れた神人のお告げに従って雲母の粉を食べ、仙人になった。 八仙を扱った明代小説『東遊記』にも同じような内容がある。 また、北宋の仁宗の時、永州に生まれ、十三歳の時お供と共に山に入って茶を採っていた際、お供を失い迷っていたところ、呂洞賓に出会い、仙桃を与えられ仙人となったと言う説もある。(蓮の花)
⑦ 張果老(ちょうかろう):恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた。則天武后に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された。
張果は白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という方術を行うものたちにも正体を見定めることはできなかった。玄宗は高力士に相談し、張果に毒酒を飲ませ、本当の仙人か見定めることにした。張果は「うまい酒ではない」といい、焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光祿大夫と通玄先生の号を与えた。玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が混沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年 (742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている。(魚鼓〈楽器の一種〉)
⑧ 曹国舅(そうこっきゅう):曹玘(そうき)字は景休(けいきゅう)。 北宋の仁宗の后(曹皇后)の弟であるため、国舅(天子の外戚の呼称)と呼ばれる。「神仙通鑑」によると、彼は弟の曹景植が姉の権力を笠に着て悪事を働くのを見かねて、山中に隠遁し修行をし始めた。 それを見た呂洞賓と漢鍾離がやってきて、「何の修行をしているのか」と訊かれ、道の修行だと言った。 「では、その道はどこにあるのか」と笑いながら訊かれると、黙って天を指した。 「その天はどこにあるのか」と畳み掛けられると、自分の心を指した。 すると、二人は大いに笑って、「心はすなわち天、天はすなわち道である。お前は既に道が何であるかを知っている」と言い、彼に還真の秘旨を授け、神仙の仲間に加えたという。(玉板〈玉製の板〉)
なお、八仙はそれぞれが神通力を発揮する法器を所持しており、それらは暗八仙と呼ばれて八仙を象徴するものとして図案化されている。
◇求心力、国会…課題山積 ―― 「私が初めて衆院選に立候補したのは、ロッキード選挙と呼ばれた選挙だった。政治とカネを何とかしなければ、日本の民主主義はおかしくなってしまうと立候補した」/菅首相は年頭会見で、小沢氏の政治の師である田中角栄元首相を引き合いに、小沢氏を厳しく批判した。/通常国会開会前に小沢問題にけりをつけ、野党との連携強化に進まなければ、政権維持はおぼつかない--。首相ら党執行部は、国会開会までに小沢氏の衆院政治倫理審査会(政倫審)出席を実現させ、小沢氏の強制起訴があれば離党勧告にも踏み切りたい考え。さらに、13日の党大会後、すみやかに内閣改造・党人事も行い「強力な態勢」を構築した上で、国会で野党の協力を得ながら11年度予算案の早期成立を目指す。/だが、小沢氏周辺は「国会開会前の政倫審出席まで(党が)決めたわけではない」との立場。小沢氏が出席を拒んで執行部が離党勧告に踏み切ろうとしても、勧告には小沢氏側の議員も多い常任幹事会の決定が必要で、実現は容易ではない。/小沢氏は4日のBS11の番組収録で「私自身のことは、私と国民が判断する」とけん制する一方「党内政局レベルの話ばかりになると、国民も『何をやっているんだ』という話になる」と述べ、首相の姿勢を批判した。/小沢氏側は党大会前に開かれる役員会や常任幹事会、全国幹事長会議に照準を合わせ、執行部批判を強めようともくろむ。4月の統一地方選を控えた地方議員が党内抗争の続く現状を批判することも予想され、これが小沢氏側に有利に働く可能性も否定できない。/小沢氏批判の急先鋒(せんぽう)である前原誠司外相も、4日の会見で「政治とカネの問題は大事なテーマだが、政権が信頼されるために大事なことは政策の中身ではないか」と指摘。小沢問題に集中するあまり「本論」がおろそかになっていないかとの懸念を示した。
◇消費税協議に野党冷ややか ―― 「全力を挙げて与党を追い込み、解散を勝ち取ることが今年の目標だ」。菅首相に先立ち伊勢神宮を参拝した自民党の谷垣禎一総裁は、会見で対決姿勢をあらわにした。問責決議を受けた仙谷由人官房長官らを首相が交代させない限り、通常国会で審議に応じない姿勢も改めて強調した。/首相は社会保障と税制の一体改革のための与野党協議を呼び掛けたが、野党側に歩み寄りの機運は乏しい。谷垣氏は会見で「政府は素案を用意して対話を呼び掛けるべきだ」と述べる一方「(農業の)戸別所得補償や子ども手当をそのままにして、どれだけ消費税率を持っていくのか展望が明らかでない」と批判。公明党の山口那津男代表も4日「社会保障のあり方の中身が示されず、消費税だけが出てくるようでは国民に違和感が生じる」と記者団に述べ、税制改正論議が先行しないようけん制した。/社会保障に関する与野党協議は、かつて自公両党も与党時代に提唱しており、谷垣、山口両氏とも門戸を閉ざしてはいない。だが、4月の統一地方選前に、求心力の衰えた菅政権に安易に手を貸せば、それぞれ党内で不満が噴出しかねない。対決姿勢は簡単には変えられないのが実情だ。/共産党の志位和夫委員長は同日、党の会合で「大企業への減税ばらまき反対と軍事費削減の旗を掲げ、消費税増税反対の戦いに取り組みたい」と力説。みんなの党の渡辺喜美代表は栃木県大田原市で「社会保障を守るには4%の(経済)成長を達成すればできる」と、社会保障財源としての消費増税に反対した。
◇TPP参加、首相「6月メド」言明で国内農業の強化策急ぐ ―― 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉への参加について、菅首相は「最終判断は6月ごろが一つのメドだ」と表明した。閣僚間で意見が分かれていた判断時期を、首相が初めて明言したことで、政府はTPP参加で打撃を受ける国内農業の強化策の具体化を急ぐことになる。/参加の是非を判断する時期について、仙谷由人官房長官ら積極派は、政府の「農業改革の基本方針」がまとまる6月ごろと示唆。鹿野道彦農相ら慎重派は、米ハワイでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の開かれる11月までとの認識を示していた。/しかし、TPP交渉に参加する米国など9カ国は、今月から関税撤廃に関する協議を始めることで合意している。「参加が遅れるほど、不利なルールをのまざるを得なくなる」(日本政府関係者)との懸念が首相の「6月発言」につながった。/ただ、6月に参加しても「協定の大枠作りに関与するには遅すぎる」(同)可能性がある。国内農業関係者の反発も強く、参加へのハードルは依然高い。 毎日新聞 2011年1月5日 0時04分(最終更新 1月5日 1時38分)
中国にも日本の七福神に似た「八仙」というものが有る。道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚い。掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっている。
八仙のメンバーは時代によって異なっていたが、明の呉元泰による『八仙東遊記』成立後は、以下の八人で固定された。
① 李鉄拐(りてっかい):絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、彼はもとはがっしりとした体格の道士であった。 二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。 そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。 しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。 鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体が既に焼かれており、近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。(葫蘆〈瓢箪〉)
② 漢鍾離(かんしょうり)または鍾離権(しょうりけん):姓を鍾離といい、名は権である。漢鍾離は「漢の人、鍾離権」の意味である。字は寂道。号は雲房先生。正陽真人とも呼ばれる。自称「天下都散漢(天下一の暇人)鍾離(鍾離権)」。五代の隠者とされるが、生没年も含め、確かなことは不明である。師は東華帝君とされ、終南山で秘法を授かり、仙人となったとされる。その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれる。(芭蕉扇)
③ 呂洞賓(りょどうひん):名を巌といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。 唐の貞元中(785年 - 805年)に、蒲州の蒲坂県(陝西省米脂県)で生まれたとする資料もあるが、各資料によって年代・出生地等が統一されず、生没年も含め、確かなことは不明である。師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。(剣)
④ 藍采和(らんさいわ):八仙の中でも謎の多い人物。そもそも男なのか女なのか、それすら明確ではない。藍采和というのも、本名ではないようである。。一応、唐の頃の人らしいが。伝承によれば、ホームレス風のいでたちで、片方に靴を履いて、片方が裸足だったりする。手に拍子木を取って歌い、それで銭を得ていたといい、その歌は、実は全部予言の歌だったという。後から聞いた日都が悟ることになったという。(花籃〈花かご〉)
⑤ 韓湘子(かんしょうし):名は湘、字は清夫といい、唐代の文豪・韓愈の甥であり、子供の頃から韓愈に養われていたが、韓愈の子弟たちが学問に励む一方、彼は酒ばかり呑みぶらぶらしている放蕩者だった。 二十歳の頃、突然行方不明になったかと思うと、しばらくしてぼろを身につけて帰ってきた。 韓愈が学問をするようにすすめると、「私が学んでいることはあなたのものとは違います」と言い、草の花をすぐに咲かせることができる、と言った。 彼が盆に土を盛り、牡丹を植えると、彼が言ったとおりすぐに花が咲いた。 よく見ると、花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」と書いてあった。意味を尋ねると、月日が経てばわかるという。819年、帝の怒りに触れた韓愈は潮州(今の広東省潮安県)へ流され、その途中大雪に遭うが、そこに韓湘子が現れ、以前自分が咲かせた花びらに書かれていた一句が的中したのだと言う。 韓愈が地名を尋ねてみると、そこははたして藍関だった。 そこで韓愈はその句に語句を付け足して、詩にして韓湘子に贈った。 やがて宿場に着くと、韓湘子は韓愈に一粒の薬を渡し、「瘴気の立ち込める地方では健康を保ちにくいでしょう。これを一粒飲めば、瘴気を防ぐことができます」と言い、しばらくして去っていった。 その後、韓湘子の言ったことはすべて的中したという。師は呂洞賓と漢鍾離。洪涯先生という説もある。(笛)
⑥ 何仙姑(かせんこ):何仙姑(かせんこ)は中国の女仙で、八仙の一人。名は瓊で、「仙姑」とは女仙という意味である。八仙中唯一の女仙。暗八仙は荷花(蓮の花)。 『仙仏奇踪』によると、彼女は唐代の武則天の時に、広州の増城県にある雲母渓にいた何秦の娘で、生まれたときには六本の髪の毛が生えていた。十四、五歳のときに、夢に現れた神人のお告げに従って雲母の粉を食べ、仙人になった。 八仙を扱った明代小説『東遊記』にも同じような内容がある。 また、北宋の仁宗の時、永州に生まれ、十三歳の時お供と共に山に入って茶を採っていた際、お供を失い迷っていたところ、呂洞賓に出会い、仙桃を与えられ仙人となったと言う説もある。(蓮の花)
⑦ 張果老(ちょうかろう):恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた。則天武后に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された。
張果は白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という方術を行うものたちにも正体を見定めることはできなかった。玄宗は高力士に相談し、張果に毒酒を飲ませ、本当の仙人か見定めることにした。張果は「うまい酒ではない」といい、焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光祿大夫と通玄先生の号を与えた。玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が混沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年 (742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている。(魚鼓〈楽器の一種〉)
⑧ 曹国舅(そうこっきゅう):曹玘(そうき)字は景休(けいきゅう)。 北宋の仁宗の后(曹皇后)の弟であるため、国舅(天子の外戚の呼称)と呼ばれる。「神仙通鑑」によると、彼は弟の曹景植が姉の権力を笠に着て悪事を働くのを見かねて、山中に隠遁し修行をし始めた。 それを見た呂洞賓と漢鍾離がやってきて、「何の修行をしているのか」と訊かれ、道の修行だと言った。 「では、その道はどこにあるのか」と笑いながら訊かれると、黙って天を指した。 「その天はどこにあるのか」と畳み掛けられると、自分の心を指した。 すると、二人は大いに笑って、「心はすなわち天、天はすなわち道である。お前は既に道が何であるかを知っている」と言い、彼に還真の秘旨を授け、神仙の仲間に加えたという。(玉板〈玉製の板〉)
なお、八仙はそれぞれが神通力を発揮する法器を所持しており、それらは暗八仙と呼ばれて八仙を象徴するものとして図案化されている。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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