瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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6b4c3153.JPG 朝食後、山谷堀公園を抜けて、馬道の延長の土手通りを北上三ノ輪の寿永寺を皮切りに入谷鬼子母神(真源寺)まで約6.6kmの行程を下谷七福神めぐりしてきた。
 気温は少々低いが、天気は上々。爺は手袋や襟巻は大きらい。中袖のシャツ1枚の上にジャンパーを羽織っただけだが、山谷堀公園を抜ける頃は背中が汗ばんでくる。この当たりは朝の徘徊でも時々通るところなので、地図はほとんど必要なし。
ae8b8b7c.jpg ①寿永寺: そのはじめは江戸時代(おおよそ1600~1867年)の初めの頃、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の側室であった得生院殿寿永法尼という尼が、秀忠の菩提を弔うためにとこの地に一宇の庵室を開いた。これがすなわち寿永寺の開創で、ちょうど寛永7年(西暦1630年)のことであった。時も下った昭和52(1977)年には、近場の五ヶ寺と一社ととともに下谷七福神の札所に定められた。本堂と庫裏(くり)との間に置かれた大きな石像が、これすなわち下谷七福神の札所たるゆえんの布袋尊。大きな石像たるこの布袋は、手前に『笑門』そして『福来』―これすなわち『笑う門には福来たる』―と刻んだ花立を据えている。
a596d5dc.JPG ②飛不動正寶寺:正宝院は、享禄3(1530)年の創建といわれる修験寺院で、はじめ聖護院末・円城寺末から現在天台宗系の単立寺院となったという。当寺の本尊は木造不動明王坐像で、「飛不動」の通称で知られている。名の由来は、昔、当寺の住職が大和国大峰山に本像を持って修行に行ったところ、一夜にして当地へ飛びかえり、人々に御利益を授けたことによると伝えらている。「飛不動」は本尊の通称だけでなく正宝院の通称ともなり、江戸時代前期、寛文年間(1661~73)の「新版江戸大絵図」には、すでに「飛不動」の名で見える。福利増長・息災延命の祈願道場として庶民の信仰が厚く、「日本国華万葉記」や「江戸砂子」などに江戸の代表的な不動霊場の一つとして記されている。近年は航空安全の守護神として有名になり、空の安全を祈願する参詣者が多い。豊漁は航海安全によってもたらされ、安全航行は商売繁昌につながり繁昌すれば笑顔になり、エビス顔の喜結良縁・敬愛富財の神様として知られるようになった。ご縁日は10月10日。10月(神無月)は神様達が縁結びの相談のため出雲に出かける。その留守を預かるのが恵比寿様で、10月10日は全ての願い事をキク「菊恵比寿の日」であるという。「願い事がよくキクように」菊を供えてお参りする日である。
d4132992.JPG ③弁天院:当山の朝日辨財尊天は、古来芸道、富裕、結縁の御利益の尊像で、霊験あらたかで多くの信徒より崇敬されて来た。開基は備中松山城主の水谷伊勢守勝隆で、寛永初年不忍池に辨財天社を創建すると同時に、その下屋敷であった水の谷の池にも辨財天祠を祀り、これを姉妹辨天とし、西の不忍を夕日、東方の水の谷を朝日辨財天と称した。堂宇は関東大震災並びに大東亜戦争に相次いで災禍を受けたが、終戦直後地主市島徳厚が土地開放を機とし、此境内を関係者に寄附したので、これらの人々相倚り直ちに宗教法人辨天院となし、本堂、庫裡等を建立し、更に昭和56年本堂の増改築を行い輪奐(りんかん)の美を加えた。
aa3a6e3d.JPG ④法昌寺:そのごく初期については、江戸時代の頃―慶安元年(西暦1648年)の開山をもって始まったとのことであるが、資料の少なさから、これ以上のことをここに詳らかにすることはできない。その昔、日蓮聖人が現世安穏を祈願して開眼された毘沙門天のお堂の傍らには、コメディアンたこ八郎改め、昭和60(1985)年境内に建てられたたこ地蔵が皆の無病息災を祈願して合掌している。人生に勝て! 毘沙門天は必勝開運の軍神である。いつしか下谷七福神の毘沙門天に定められもし、平成14(2002)年の秋には救世観音を祀る観音堂が落成した。
544db8b4.jpg ⑤英信寺:当寺は、山号紫雲山、院号常倫院、宗派浄土宗。知恩院第三十二世霊巌上人を開山とし慶長年間(1596~)現在地に草創。 当時は紫雲院と称し、草庵に近いものであったが明暦2(1656)年丹波國亀山城主松平若狭守康信公の子、英信公が23歳で逝去され遺骸を当寺墓地に葬り、常倫院殿英誉天心宗伯大居士の法号を贈る。 然れども英信公の姉、(松平市正公の奥方)、逝去を深く悲しみ嘆かれ、英信公の御木像を造り、当寺に安置(現存)、開基とし寺号を英信寺と改める。爾来火災にあったが、安永年間(1772~)現本堂完成、数度の修理改修を施し、安政大地震、関東大震災、戦災等をまぬがれたが、雨もりその他老朽甚だしく、 昭和48年10月大改修落慶。平成六年客殿庫裡改築、完成。 又、当寺は松平三屋敷の菩提寺として、前記松平家の他に、杵築藩(大分県)主、及び尾島藩(静岡県) [後に桜井藩(千葉県)]主の各霊を弔って居る。境内にある大灯籠二基は、上野寛永寺の通称お化灯籠を戦后整理の折に当寺に移置、境内中ほどのものは、開基の松平家、山門を入ってすぐのものは杵築の松平家が、八代将軍吉宗公(有徳院殿)が御逝去の折、寛延4(宝暦元、1751)年に奉献されたものである。尚、当寺には弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天が御本堂左側大黒堂に安置されて居る。江戸時代から明治にかけて府内各所の講中の参詣でにぎわった。下谷七福神の一つ。
dafdea28.JPG ⑥元三島神社: JR鶯谷駅の東、徒歩1分。弘安の役の際に河野通有が伊予国大三島の大山祇神社に必勝祈願し、その後武蔵国豊島郡に分霊を勧請して弘安4年(1281年)に創建したのに始まると伝えられている。以後、旧金杉村の鎮守として地域の信仰を集めてきた。
 ホテルや飲食店が密集する中にこぢんまりとした境内があり、社殿は飲食店などがある建物の上の人工地盤上にある。いかにもコンクリートの街の神社という感じのたたずまいで、木立が茂る一般的な神社のイメージは全くない。
 下谷七福神のひとつ寿老神を祭っていることから参詣者が多い。
def7bde9.jpg ⑦入谷鬼子母神(真源寺):1659(萬冶2)年光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したことによる。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。当寺院は、七福神の福禄寿を祀っている。

277fe596.jpg 入谷鬼子母神からは言問通りを東進。スカイツリーを見上げながら帰宅した。





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 本日、王子の飛鳥山公園へ研究会に出席して、終わった後、王子駅のちかくの飲み屋でがやがや新年会を楽しました。15人で、ビールも日本酒もおいしくいただきました。さきほど帰宅したばかりで、頭はフラフラ(笑)。
 「爺は手袋や襟巻は大きらい」って、たいしたものですね(笑)。だって、本日の私はかなり着込ましたよ。
 ところでお寺についてよくお調べになりましたね。勉強になりました。ありがとうね。
シン 2011/01/08(Sat) 編集
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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