瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 「そんな易(やす)い問題も解けないのか?」と言われて、「やすい問題」とはどんな問題かと一瞬戸惑ったことがあります。普通標準語では「やさしい問題」と言って、「やすい問題」とは言わないからです。
 しかし、平易であること「やすい」という用法は方言では珍しくないのみでなく、古語の用法においても、この方が古くかつ正統的なのです。「おやすい御用」「飲みやすい薬」「行きやすい所」というように、古来の用法は今でも残っています。
 平易であることをいう「やさしい」の用法はどうでしょう。ヘボンの『和英語林集成』(1867年刊)には、ヤサシイの項にeasy,not difficult という訳が見えます。問題はこの意味をどの時代まで遡りすることが出来るかなのです。
 「万葉集」から始まる「やさし」の語史は、江戸時代に入ってもなかなか平易(easy,not difficult)の意を確かめることが出来ません。
 「やさしい」の語源をウェブの『語源由来辞典』でしらべてみました。


 【やさしいの語源・由来】
 優しいは、動詞「やす(痩す)」の形容詞形で、身が痩せ細るような思いであることを表した語である。平安時代、他人や世間に対してひけめを感じながら振る舞う様子から、「控え目である」「つつましやかである」の意味を持つようになり、慎ましい姿を優美と感ずることから、「優美だ」「上品で美しい」「けなげだ」「好感が持てる」と評する用法が生まれた。/さらに、「けなげだ」「好感が持てる」といった意味から、「こちらが恥ずかしくなるほど思いやりがある」という意味も派生し、近世以降、「親切だ」「心温かい」の意味で使用されることが多くなった。/「容易だ」を意味する「やさしい(易しい)」は近世末頃から使用が見られ、「優しい配慮があってわかりやすい・簡単だ」というところから派生した用法だ
とありました。

 「万葉集」の貧窮問答歌の反歌で山上憶良が
   世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば ――万葉集巻5・893――
  (世の中を辛いものだとも肩身が狭いと思うけれども、飛び立って逃げることもできない。鳥ではないのだから。)
と嘆いた、その「やさし」ですが、もともとは「身も細るようだ」の意だったのが、「身も痩せる程はずかしい」「こちらが恥ずかしくなるほど優美で風情がある」「穏やかで素直である」「情が細やかである」と移り拡がってきました。

 狂言の舞台で主人が太郎冠者を使いに行かせようとします。太郎冠者は足に持病の「しびり(痺れ)」が起こり痛くて一歩も歩けないと仮病を使います。そこで主人が、今晩のご招待にも連れて行けないと残念がってみせます。太郎冠者は慌ててこれからお使いに行ってきますといいます。
「何とその体(てい)でゆかれるものぢゃ」
「私のしびりはやさしいしびりで、宣命(せんみゃう)を含めますれば、そのまゝ治りまする」


「それはやさしいしびりぢゃ、早う宣命を含めて直せ」
「かしこまってござる。ヤイしびり、よう聞け。今晩伯父御様へ行けば、お茶の、御酒のとあって、それがしまでもご馳走になる。直ってくれい、しびり。エイ、ホイ」


「いまのはなんぢゃ」
「しびりのへんじでござる」  (狂言「しびり」)
 一言、いい聞かせただけでたちどころに直る「しびり」が「やさしいしびり」であるなら、この「やさしい」は、「簡単にして手軽い」のいであってもさしつかえなさそうにみまえますが、「手軽い」という語義の成立する以前の室町時代の狂言の観衆は、「やさしいしびり」と聞けば、「素直で温和なしびり」の意に解していたことでしょう。当時「優しい」という言葉は「素直で温和なこと」「けなげで愛らしいこと」「控え目で優雅なこと」「柔和でゆうびなこと」などの意を併せ持つ形容詞であったのです。

 寛政5年(1793)頃成立、同9年刊行の「古今和歌集遠鏡」は本居宣長が古今和歌集を当時の口語によって訳したものです。江戸時代の言葉なので少し読みづらいが、現代語の感じで読んでも意味がまったくわからないということはありません。
   何をして  身のいたづらに  老いぬらむ  年の思はむ  ことぞやさしき  詠人知らず  ――古今集1063――
 本居宣長の口語訳に「おれはまあ何をして此やうに年よったことやら。何にもせずに年ばっかりよって、身に積もった歳の思ふところが、はづかしい」とあります。歌の末尾の「やさしき」は「はづかしい」と訳されていますが、決して誤りではなく、「やさし」の古義は万葉集以来、正にこの通りだったのです。「やさし」の「恥ずかしさ」とは身も細るような恥ずかしさでしょう。身も細るような恥かしさは、慎ましく控えめな様子となって表れるし、上品で優雅なさまとしても映ります。「優し」の意味の歴史は恥じらいの美学というものを再発見させます。

 式亭三馬の滑稽本『浮世床』初編、客の聖吉がけん蔵に言います。
「学問をしてほんとうの身持ちの人は少ない」
けん蔵がこたえます。
「さうささうさ、字を知るよりか、三弦(さみせん)を習って踊りの地を引く方がいい。むづかしい字をしる程損がいくかと思ふよ。まづ観音さまの「音」の字を見ねへ。やさしく書けば七百といふ字だが、むづかしく書くと六百といふ字だ。してみれば舌切雀の葛籠(つづら)といふ物で、手がるい方が徳だ。ソレよしかの ソレ、七百よ【ト火ばしで灰の中へ書いて見する】ソリヤ、むつかしく書くと六百、ソレ見たか是、ちよつとしても百損がいく。」
 「音」の字は、崩して書くと「七百」という字に似て、「むづかしく書くと六百」に似る、差し引き百の損だとするこの珍説、「やさしく書けば」の「やさし」を「手軽い方が徳だ」に結びつけて考えますと、その意味はeasy,not difficult に極めて近いようです。


 かくして数十年後の1687年にヘボンの『和英語林集成』のヤサシイの項にeasy,not difficult という訳が登録されることになるのでしょう。『浮世床』初編は文化101813)年刊行されました。


 


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