瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 来年の年の初めは、浅草七福神めぐりをしてみようと、下調べしてみると、浅草名所七福神は九社寺あって、その由来は「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という故事に由来するということである。何だかよく判らないが、数について調べてみる。
cc245b19.JPG Pythagoras(ピタゴラス、BC582~496年)は「この世のものはすべて数字で表すことができる。その数字の真の意味を理解すれば、その背後にある隠された真実を知ることができる」と説いた。その大まかな内容とは
1: 開始・自立・革新・独創性唯一の存在、「絶対」を表す。
2: 協調・親愛・知恵・受容性二つの関係性を持つ「相対」を表す。
3: 閃き・開放・歓喜・創造性方向性を生み出し、「発展」を表す。
4: 基盤・形態・信頼・現実性4つの柱を持ち、「安定」を表す。
5: 自由・進歩・活動・自発性動きを生み出す「変化」を表す。
6: 慈愛・献身・結合・完全性陽性と陰性のバランスである「調和」を表す。
7: 変革・探求・直観・精神性大いなる変革であり、「飛躍」を表す。
8: 統率・繁栄・活力・現実性物質性と精神性のバランスである「秩序」を表す。
9: 変容・共感・治癒・神秘性完成へ向けてすべてを結実させる「完結」を表す。
10(または0):全包括・全宇宙・神の栄光すべてを含む「完全」を表す。
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65951c99.JPG 数に対して神秘的な意味を与え、これにより特定の数を嫌ったり、あるいは吉とする概念は各民族の間にみられる。中国では古代から奇数を陽数として尊んだのに対して、偶数は陰数として忌み嫌った。この風習は日本にも移入されて現在に及んでいる。しかし、大陸文化が移入される以前にはかえって偶数が尊ばれたこともある。これらの概念は必ずしも一定しておらず、条件によって左右されることが多い。一般に吉とされる奇数の中にも三などのように忌数とされることもある。3人で写真を撮れば中のものが死に、3軒長屋の中の家は祟りがあり、食物の三切れは「身を切る」と考える俗信などがそれである。四は南方諸民族などでは聖数として重要な意味を持っているといわれるが、日本では「死」に通ずるとしてとくに忌ま和、病院や刑務所などでは4号室は避けられた。42は「死に」に音通するために嫌われている。この爺の御袋さまは爺の42歳の厄年の正月に東京に遊びに来ていて倒れ、4月2日にあの世に旅立ったので、こんなこと迷信だと思っても、42「死に」の数は忘れられない。しかし、運送店などでは「しじゅう荷」として好まれているという。また、七は七福神あるいは七賢人等として尊ばれると同時に、月の7日に船出することは忌む。偶数の場合には日本ではとくに八が末広がりで幸運な数とされる。古代日本ではこの「8」は神聖な数とされ、八咫鏡(やたのかがみ)、大八洲などの用例がある。中国でも同様に八が縁起が好いとされるが、理由は「発財」(金持ちになる)の「発」と「八」の発音がおなじであることからで、末広がりの概念は無いらしい。八は中国文化の中で吉祥を表わす数字で、“八卦”“八段錦”“八仙”など目出度いものに八という字を採用している。日本では、九の「く」という読みが「苦」を連想させる事から、凶運とされ、宿泊施設・集合住宅・入院施設の室番号等で9が避けられることがあるが、中国では、九の発音が「久」に通ずる点と、漢字一文字で書ける数字の中で最大の奇数(奇数は吉数、偶数は凶数とされる)である事から、幸運の数字とされるのである。
 昨日は一日中雨。今朝もまだ降っている。
 今日は10月1日(水)で都民の日である。1952年に東京都が制定した記念日なんだそうじゃ。勿論東京都立および都内各市区町村立の学校は休校となる。また、都内に所在する一部の私立学校も休校となる。
1956年には東京開都500年(1457年に江戸城が築城された年を基準として500年目に相当)を記念して、都民の日に「大東京祭」が催された。その後は毎年恒例となり、1982年からは「ふるさと東京まつり」と改称された。大東京祭以降、東京都は毎年都民の日を記念したバッジを発売した。当初は彫刻家の朝倉文夫がデザインしていたそうじゃが、1959年からは漫画家の清水崑によるカッパをモチーフとしたデザインとなった。カッパが採用された理由としては、隅田川にカッパの巣が多くあったとする伝承によるのだそうじゃ。その後、バッジのデザインは漫画家の小島功に引き継がれ、カッパのモチーフもそのまま受け継がれることになった。
7c2d0226.JPG このバッジは都営施設の無料入場を認める際の目印として用いられ、都内窓口で一般販売を行った他、都内の小中学校などでも組織購入が行われた。このため、1960年代から1990年代ごろまでの間に都内で幼少期を過ごした世代には、カッパバッジとして広く親しまれることになったのじゃ。しかし、無料公開される施設が減少するなどバッジの目的が薄れたため、1997年の都民の日を最後にバッジの販売は行われなくなったそうじゃ。 全国的に販売が行われたわけではない東京ローカルのバッジのために都民以外にはまるで知られていなかったが、漫画「こちら葛飾区亀有公園前は出所」に登場したことで昭和にかつて存在した東京文化として広く知られるようになったのだそうじゃ。
0248d709.JPG あの水道局のマークと見違える東京都の紋章は昭和18年の東京都制施行の際、東京市のマークを受け継いだもので、このマークは、明治22年の東京市会で決定されたらしい。紋章の意味は東京の発展を願い、太陽を中心に6方に光が放たれているさまを表し、日本の中心としての東京を象徴しているのじゃそうだ。
 東京都シンボルマーク選考委員会が候補作品20点の中から一つを選定し、平成元年6月1日に、東京都のシンボルマークを制定した。このシンボルマークは、東京都の頭文字「T」を中央に秘め、三つの同じ円弧で構成したもので、色彩は鮮やかな緑色を基本とする。これからの東京都の躍動、繁栄、潤い、安らぎを表現したものなのだそうじゃ。
 昭和59年6月、「都の花選考会」で東京都の花が正式に決定された。ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期にかけ、染井村(現在の豊島区駒込)に住んだ植木職人がヤマザクラの品種を改良したといわれ、満開時の見事さ、散りぎわの花吹雪は格別じゃが、爺の幼少期には軍国教育に利用されたので爺にとってサクラのイメージは好いものでなかった。爺になってから、これは何もサクラの所為ではないことに気が付いた。
 東京の木選定委員会で決定した三種の候補の木 (ケヤキ、イチョウ、ソメイヨシノ)について住民の一般投票を行ったそうじゃ。委員の大多数はケヤキに賛成であったそうじゃが、都民投票のとおりイチョウに決定した。昭和41年からイチョウが東京都の木となったのじゃ。イチョウは古代植物の生き残りといわれ、日本と中国の一部だけに現存している木で、公害や火にも強いため、街路樹としても使われている。
 鳥獣保護及び狩猟に関する法律の規定に基づき樹立した東京都鳥獣保護事業計画の都民の鳥の指定により昭和40年10月1日「ユリカモメ」に決定した。羽は白く、嘴と足が朱色の「カモメ」で、東京付近では、10月下旬から11月上旬にシベリア東北部、カムチャッカ方面から渡来して4月頃まで東京湾、隅田川、多摩川などに群れをなしてみられる。その姿は美しく、古来から詩歌や絵画の題材となっているが、とくに爺の住む直ぐそばの言問橋の謂れの在原業平の和歌の中に詠み込まれていることは有名じゃ。ミヤコドリの通称で知られ、他のカモメ類と同様に雑食性で、小魚類や、水棲昆虫などを採食している。
 雨降りにて、外にも出掛けられず、その間「都民の日」について考えてみた。
 今朝は、台風の影響が残り雨のため徘徊できず。その時間は文天祥の「正気歌」探しと、その写し作りに費やした。
 文天祥(1238~1282年)は、中国南宋末期の軍人、政治家。字は宋瑞(そうずい)または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)という。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されたが、忠節を守るために断って刑死したという人物。
文天祥
4d7d550f.JPG正気歌 原詩
7f325727.GIF正気歌 読み下し文
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一旦は下野した文天祥であつたが、モンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦、1276年に右丞相兼枢密使となり、元との和約交渉の使者とされるが、元側の談判の後で捕らえられる。文天祥が捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落したが、宋は幼帝を奉じて抵抗を続けた。文天祥も元の軍中より脱出して、各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行されるのである。その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容なんだそうだ。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受けたのである。この時に文天祥はこの『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだのじゃそうだ。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかったらしい。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めるしである。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けたという。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。
正気歌 訳文 その14c45d21a.GIF
正気歌 訳文 その2
fe629258.GIF 文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎(あさみけいさい、1652~1712年)が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖だけでなく吉田松陰も、日露戦争時の広瀬武夫などもそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているそうだ。
 今朝は、雨。朝食後、日が射すかに見えたが、以後ふったりやんだで、家に閉じ込められた。
9月13日(土)に、水戸下屋敷の墨堤に面した所にある藤田東湖の漢詩碑をカメラに収めたが、表面はかなり風化していてよく読めない。なんとしても、文面を知りたくて、方々を探してみた。
 藤田東湖は安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50歳であったという。
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3001664f.JPG 天地正気の原文を見つけることが出来たが、見たこともない字が10字近くもあり、とうとう最後は「霧+金=かぶと」の字は探し出すことが出来なかった。ブログにはルビ振りは無理なので、ワードで打ち込んだものをプリント、さらにこれをスキャンしてなんとか収めた。まあ、読みもなんとかルビをつけたものの、正しいかどうかは解らない。意味までは手が回りかねるので、興味ある方はご自分でお調べくだされ。



 9月3日(水)に塾友のIK氏からメールが入った。曰く、
「日高先生 いつもプログ拝見しています。ロシアンマフィア? のおかげで大揺れの相撲界ですが、今月9月21日(日)の席を2枚入手いたしました。ご都合よろしければ道子先生とご一緒にご覧になりませんか?
ご都合がよろしければ国技館前で待ち合わせし先生方をお席までご案内したします。私は別の席で観覧しますが、相撲がはねましたら席までお迎えにあがります。(後略)」
 勿論、滅多にこんな機会はないので、快く好意を受けることにした。
 はてさて、今朝は雨で徘徊にも行けず、この「ロシアンマフィア? 」――大相撲マリファナ汚染問題について、調べてみた。
「2008年9月3日(水)01:29  元幕内力士の大麻事件を受けて日本相撲協会が2日、十両以上の力士を対象に抜き打ちで尿検査をしたところ、西前頭3枚目の露鵬(28)=大嶽部屋=と東十両6枚目の白露山(26)=北の湖部屋=が大麻の陽性反応を示した。相撲協会は警視庁に通報し、警視庁は両力士から任意で事情を聴いた。また、大麻取締法違反(所持)容疑で両力士の所属部屋と自宅の計3カ所を家宅捜索した。
 両力士はともにロシア出身で実の兄弟。相撲協会や警視庁の事情聴取に、「身に覚えがない」などと薬物の使用を否定している。捜索で、大麻や吸引具などは見つからず、押収物はなかったという。(Asahi com)」というものである。
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 横綱の白鵬が11日大島部屋で出げいこをこなした後に大相撲の一連の大麻騒動について話している。「若ノ鵬にはもう一度やらせてもいいんじゃないかという気持ちにもなる」と若の鵬に同情的な発言であった。
白鵬は解雇された若ノ鵬、露鵬、白露山の3人について、「一生懸命頑張っていたし、まだまだこれからだった。何場所か休ませる手(処分)はなかったのかな」と残念そうに語っている。
武蔵川新理事長は外国人力士に再教育を行う方針を打ち出しているが、白鵬は「外国から来て目立つこともある。一から出直す必要がある。初心に戻ることが大事」と謙虚に受け止めている。また、14日初日の秋場所に向けて、世間の力士に対する心象が悪化していることが懸念されるいたが、白鵬は「全員がそうではない。応援してくれている人は知っている。萎(い)縮せず、今まで通り良い相撲を取る。大丈夫です」と述べ、番付最上位である東の正横綱の自負にあふれていたようだ。
 全く、白鵬の言うとおりで、「日本相撲協会よ、なにしちょる」と言いたくなる。好い事尽くめで相手を言いくるめて日本へ連れてきて、たった1度の過ちでポイ捨てはあまりにも可哀想だ。まあ、聞くところによると、マリファナは麻薬だとはいうが、酒や煙草とあまり違いはなさそうだ。
 まあ、日本相撲協会よ、伝統をいうなれば、寛容こそ日本の最大の美徳ではなかったのか?
 今日は朝から雨。何処にも出掛けず、橋の基本的つくりと形状について調べることにした。
橋の上部構造と下部構造
6b0380fd.JPG橋の断面図
05a2203b.JPG 橋のつくりは上部構造と下部構造がある。
 上部構造は川や道路等を横断する部分であり、車両や人間はこの上または内部を通過することで橋を渡る。支長間に応じて各種各種の構造形式が提案されており、橋の外観に最も影響を与える部分である。
 桁橋やトラス橋などの場合、荷重を支える主桁や主構などと、車両や人などを直接支える路面をつくる床版(しょうばん)、床版をささえる縦桁、横桁が主要な部材であるという。車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干のこと)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とを繋ぐ支承(ししょう、沓《シュー》ともいう)や、道路と橋梁との境に当たる伸縮継手も上部構造に含める。
 下部構造は上部構造を支え荷重を地盤に伝える役目をもつ。橋台(きょうだい、橋の両端に設置される)と橋脚(きょうきゃく、橋の中間に設置される)の上に設けられた支承(シュー)によって上部構造は支持されているのである。
 橋の形状にには次のようなものがある。
桁橋とアーチ橋
20b3560c.JPGいろいろな形状のは
fa06a4de.JPG橋のいろいろ
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 桁橋(girder bridge):多くの橋の中でもっとも経済的とされている形式である。歴史的には断面の形状がいろいろと考案されてきたが、現在はⅠ形が標準で単純に桁橋と呼ぶ。また箱形に断面を補強したものを箱桁橋と呼ぶ。橋の支持の違いから、両端のみを支える形式を単純桁、両端以外に中間部分をも支える形式を連続桁という。支持は支承と呼ばれ、1個所は橋台に固定され、他は温度、過重などによる変位に対して移動できる構造となっている。箱桁形式はねじれに対して抵抗が大きく、曲線橋に多く採用されている。
 アーチ橋(arch bridge):アーチは曲げられることに対して合成のある、曲線を持った構造物である。けた橋には可動する支承を設けるのに対して、アーチでは両端とも水平方向に対して固定される。このため、荷重により水平に保つ力が生じる。これはアーチ特有のもので水平力といい、地盤の良好なところに用いられる形式である。
 ニールセン・ローゼ橋(Nielsen-Lohse system bridge):ニールセン系の橋は、アーチ部と桁部を斜めの吊材で結んだ構造で、ローゼ桁は桁の部分に曲げられる力を分担し、抵抗を図る構造形式である。両方の構造形式を併せ持つニールセン・ローゼけた橋は、非常に剛性のある形式であるが、設計も製作も難しい橋である。
 トラス橋(truss bridge):基本的には、引っ張りと圧縮の力に抵抗する部材で構成される形式である。製作・架設が容易である。
 ラーメン橋(rahmen《rigid frame》 bridge):剛な節点(rigid frame)をもち、橋脚と桁を合体させた形式である。最近は図のような方丈ラーメン形式が主流である。高速道路や渓谷をまたぐ位置に適している。
 つり橋(suspension bridge):現在ではもっとも長支間の架橋が可能な形式で、風に強くするため、床組みにはトラス、箱桁形式が多く用いられる。
 斜長橋(cable stayed bridge):連続桁の中間支点上に塔をたて、桁の中間点よりケーブルを張った構造である。路面より上に出る構造物はケーブルのみのため、非常にすっきりした形式である。重心が低いため地震には強いが、長支間になると風に対して弱くなるので、空気力学的な考慮が必要となる。

63年前の宮場広場
17ece2f3.jpg 今日は8月15日、63回目の敗戦記念日。
 商業ベースに乗せられたとしか言いようのないオリンピック。同じ場面を何回も何回もしつこく放映するテレビ。大げさなコメンテータの決まり文句。高校野球だって、プロ野球選手養成の機関と化していると見られるふしもある。まあ、平和とはこんなものなのじゃろう。
 8月15日にあわせた各局の特集番組というのが毎年毎年放映される。もっともらしく戦争の悲惨さをかもし出して、その鎮魂歌として平和番組とやらを垂れ流ししているようじゃ。悲惨な戦争の傷を癒すどころか、じつは、戦争被害者の傷に塩を擦り込むような、そこには独善的傲慢さが内在しているとはいえないのじゃろうか。平和番組の美名の下に行われている欺瞞、平和を主張する権利は吾にありといわんばかりの思い上がったテレビ局の姿が垣間見られるのではないじゃろうか。
 爺もかつては、そうであったが、平和主義者は戦争の原因について深く理解していないで平和を論じている場合が多く見られるようじゃ。戦争はその形態や主体によって様相が異なる複雑な政治現象であり、その原因は近代的な国家間の国益に関わる問題だけでなく、国内的な紛争である内戦においてすらも宗教や民族、歴史などが重層的に組み合わされている。これらの政治的、経済的、社会的、民族的、歴史的な問題についての無知が平和主義の楽観主義的な啓蒙思想の源泉のひとつとなっているのではなかろうか。これが平和ボケを生むひとつの要因となっているんじゃろうなぁ。はたして、戦争をしていないから、平和といえるのだろうか? 
 雇用はあっても働かない若者が多い。毎日ゲームに明け暮れている。不安を抱えて自殺するものが増えている。いやいや無差別殺人なんていうのも流行しているらしい。これでも平和といえるのだろうか。
 世の爺・婆どもは怒って文句ばかり言っている。そのくせ、誰よりも平和を享受している様だ。まあ、文句が言えるだけ幸せというべきじゃろう。
 いやはや、この爺の頭も平和ボケで怒る気力も消え失せた。この63年間一体何を求めてきたというのじゃろう。まあ、日本はそれほど平和であったというべきじゃのう。
 

 誘われて「書の名宝展」なるものに行った。
「書」とは文字を審美的対象として書く一つの芸術を言うのであろう。この芸術は古くから中国に発達し、中国の文字いわゆる漢字を使用する朝鮮・日本および安南の諸国にも発達したという。
15世紀イングランドの聖書写本
におけるカリグラフィー
b6c8f940.JPGContemporary Western
Calligraphy
de6b257c.JPG 西欧にもCalligraphyといって、文字を審美的対象として書くことがなかったわけではないが、中国に比べて、その意義や重要性はほとんどゼロにも等しい。こんなことから「書」は中国並びに中国文化圏にあった諸国の特有の芸術といって差し支えなかろう。
 「書」は独立した立派な芸術であるばかりでなく文学や絵画と相並んでそれらの芸術と融合しながら重要な地位を占めてきたものであろう。
 これは中国の文字がアルファベットとは違って、元々絵文字から発達したという漢字の特殊性に基づいているのかもしれない。漢字は絵文字を大胆に抽象化するとともに、抽象化された基礎文字の組み合わせなどによって、いかなる言語をも写しうるよう考案された文字なのである。中国上古における漢字形成の過程において、今日の抽象絵画が高度の美的直感と構成上の苦心を必要とすると同じ様に、そこに何らかの美的配慮が行われなかったはずはなかろう。漢字は計り知れない造形の苦心の成果になるもので、それが視覚芸術として審美的対象になる可能性は、最初から感じそのものに内在していたのである。「書」が特殊な芸術として発達したのも当然だといわねばならないだろう。
前衛書道 「道」
e106e86c.JPG前衛書道 「形象HANA」
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 近年日本で前衛書道と称し、文字性のない文字を主張する派があるというが、文字性を離れて「書」が成立することは「書」そのものの本来の性質からいって肯定できないように思うのじゃ。



 

博多櫛田神社 祇園山笠
f89ff65d.jpg京都祇園祭 長刀鉾
01010e9c.jpg 小倉八坂神社 祇園太鼓
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 15日は博多の祇園山笠、17日には京都八坂神社の祇園山鉾巡行、18日には小倉祇園太鼓と立て続けに祇園祭が行われている。
飯能市竹寺 牛頭天王
8b148253.JPG松江市八重垣神社
スサノオ壁画

b4d3b290.jpg そも、祇園信仰(ぎおんしんこう)は、牛頭天王(ごずてんのう)・スサノオに対する神仏習合の信仰であるという。
 牛頭天王はもともとはインドの神で、疫病を流行らす悪神であったが、後に仏教に取り入れられてからは祇園精舎の守護神の一人となったものであるという。スサノオは日本神話に登場する神であるが、「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)や、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説などがある。牛頭天王もスサノオもどちらも災疫をもたらす神行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来さんとされたそうじゃ。こんなことから、スサノオを祀る神社は祇園神社と呼ばれるようになったのじゃ。祇園神社の総本社は八坂神社(京都市東山区)とされるが、廣峯神社(兵庫県姫路市)も総本社を名乗っているそうじゃ。かつては祗園社という名前であったのが、明治の神仏分離の時に現在(いま)の名前になったものだそうじゃ。
 行疫神を慰め和(なご)ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形で、その祭礼を「祇園御霊会(ごりょうえ)」といい、10世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになったのだそうじゃ。祇園御霊会は祇園社の6月の例祭として定着し、天延3年には朝廷の奉幣を受ける祭となり、後の祇園祭となったもの。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もあるという。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)行われるようになったそうじゃ。明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称したそうじゃ。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称したものだそうじゃ。
 「旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の巨丹将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟巨丹将来の一族を滅ぼした。武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた」という蘇民将来伝説というのが近畿を中心に日本各地にあり、これを起源とする民間信仰がある。
水沢市黒石寺ポスター
f11c5d2a.jpg 荒川区スサノオ神社の茅の輪
397e9bdb.jpg 岩手県内を始め各地に伝わる蘇民祭(水沢市黒石《こくせき》寺の宣伝ポスターがJR東日本から拒否されて話題を呼んだのう)を始め、京都の八坂神社や伊勢・志摩地方の年中行事で厄除け祈願として、茅(ち)の輪潜(くぐ)りや蘇民将来護符の頒布、注連(しめ)飾りなどの祭祀が盛んに行われているそうじゃ。
 しかしながら、祇園祭にかぎらず祭の目的が時代の変化によって参加者達の利害とは離れてしまったものが多く、行事の内容も社会環境の変化等により変更を余儀なくされた祭もあんじゃ。それらの結果、祭を行うことそのものが目的に成り代わっているような、目的から考えると形骸化した状況の祭がほとんどとなってしもうた。このため、全くの部外者や、見物する者や参加する者という当事者にとっても「祭=楽しいイベント(お祭り騒ぎ)」という程度の認識しか持たれないことが多く、祭のために仕事を休むということは、例えば葬儀のためにということなどと比べると遥かに理解が得られにくい状況になったんじゃのう。
 まあ、国民の祝祭日など設けて、法令でいくらその日の意義などほざいた所で、国民は休みが多いほど喜ぶもので、その祝祭日の意義など考えている方はどれだけござらっしゃるのやら。

 今日は、盆の入りである。盆とは『盂蘭盆会(うらぼんえ)』といい、インドの古い言葉『ウランバナ』を漢字に訳したものであるという。『ウランバナ』の意味は『さかさまに、ぶら下げられる』ほどの苦しみを表現しているのだそうだ。お盆の行事の目的は「もし、祖先がそのような苦しみに遭っているのであれば、救ってさしあげたい」と願う心から生まれた行事じゃろう。
b92ef75a.JPG 釈迦の十大弟子で神通第一といわれた目連が、神通力により亡き母の行方を探してみると、母は餓鬼道に落ち苦しんでいた。餓鬼道の世界は食べ物も食えず水も飲めない、とてもつらい苦しい世界じゃ。目連はなんとか母を救えないかとお釈迦様に助けを求めたところ、『お前の母の罪はとても重い人に施すことをせず、自分勝手な人間だったから、餓鬼道に落ちたのだ』と、諭したというのじゃ。目連はお釈迦様の教えに従い、僧たちの修行の最終日である七月十五日に仏弟子を集め、母の追善供養をしたところ、その功徳のおかげで母は餓鬼道をのがれ天上界へ昇ることが出来たというんじゃ。これは、爺がまだ餓鬼(子供)であった頃、祖母(ばあ)さまから聞かされた話じゃ。そして、これが「お盆」の始まりだととも聞かされた。
3ca7fd96.jpg お盆の日にちは地方によって異なり、
東京など都市部では、7月13日~16日(4日間)に行うことが多い。
地方では、 8月13日~16日(4日間)に行う所が多い。
まあ、いずれにしても初めと終わりに多少異なることはあっても15日を含むことは変わりない。
 12日夕刻か13日午前中に精霊棚や仏壇のお飾りとお供えを済ませ、13日の夕刻、縁側の軒先か精霊棚のところに吊るされた盆堤灯に火を灯す。
 家の門口や玄関で素焼の焙烙(ほうろく)にオガラと呼ばれる皮をはいだ麻の茎を折ってつみ重ね、火をつけて燃し、その場で合掌する。これを迎え火といい、オガラを燃したその煙に乗って先祖の精霊が家に戻ってくるのを迎える。
 家に迎えた精霊を今度は送り火を焚いてお墓に帰ってもらうのじゃ。迎え火をたいた同じ場所で16日(又は15日)オガラをつみ重ねて送り火を焚く。京都の夜空を美しく彩る「大文字焼」は、この送り火の大掛かりなものという。
451a701b.jpg 送り火の一種に、船にしつらえた灯籠を川や海へ流しこの灯籠と一緒に盆に迎えた先祖の霊を送り出すことがある。「精霊流し」という自作・自演の歌を歌っている歌手もいるように、精霊流しの際には、盆の間に供えた野菜や果物などのお供え物も流すのじゃ。これは祖先の元へ供物を贈るということと、死の世界と関わったけがれを水によって清めるという2つの意味をもったものであろう。 精霊流しや灯籠流しなどで霊を迎えたり送ったりする地方や宗派もあったようじゃが、 最近ではそれができる川や海がなくなっているというのが実情のよう。  もうすぐ、隅田川花火大会があるが、あの夏祭りのメインイベントの打ち上げ花火も元来は、精霊送りの行事であったに違いない。
 爺の家には、神棚もなければ、仏壇もない。触らぬ神に祟り無しで、なまじっか家にそんなものを備えて粗末に扱えば罰が当たりそうで、家の中に置く気になれぬ。浅草寺の五重塔に爺の父母と兄夫婦の位牌を納めて、上京した親戚や知人でお参りしたい人は五重塔の前で合掌してもらうことにしている。
 今日の盆の入りから、浅草寺五重塔院参拝日となり、ご先祖様の位牌の前で手を合わせることが出来る。久方ぶりに爺も重い腰を上げてお参りすることにしよう。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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