瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 本日は東日本大震災からちょうど1年。
 今朝のウェブニュースより
a9e53eca.jpeg 東日本大震災から1年 被災各地で“追悼”―― 1万人を超える犠牲者を出し、戦後最悪の災害となった東日本大震災は11日、発生から1年を迎えた。被災各地では追悼行事が行われ、犠牲者をしのぶ鎮魂の一日となる。/散乱したがれきは、ほぼ片付けられ、多くの自治体は新たなまちづくりに向けて動きだした。しかし、約3,200人が行方不明のままで、警察の捜索活動も続く。/被災地の自治体は地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、追悼式を開く。84人の児童・教職員が死亡、不明の宮城県石巻市の大川小学校には、多くの遺族や関係者が訪れる。/警察庁によると、10日現在で震災による死者数は1万5854人、行方不明者は3155人。
2012/03/11 05:16   【共同通信】
 
f8bf3de6.jpeg 東日本大震災:今なお34万人が避難生活 11日で1年 ―― 東日本大震災から11日で1年を迎える。復興庁などによると今なお34万3935人が全都道府県に散って避難生活を送り、うち11万6787人が7県の仮設住宅に暮らす。警察庁のまとめでは死者は自然災害で戦後最悪の1万5854人に上り、3155人は行方が分からないまま。岩手、宮城、福島3県で推計約2253万トンのがれきが発生したが、最終処理済みは6%にとどまる。被災自治体の復興計画は5~10年での完了を想定し、道のりは遠い。福島県はこれに加え、放射能汚染にも苦しむ。被災地では「風化」を懸念する声が強い。【北村和巳】
毎日新聞 2012年3月10日 20時12分(最終更新 3月11日 0時46分)
 
66cee06e.jpeg 3・11「黙祷」ツイートに意味ある? 震災イベント化に異議の声 ―― ちょうど1年前の東日本大震災では、ツイッターほかSNSの情報ツールとしての存在感がクローズアップされた。あれから1年、ノンフィクション・ライターの神田憲行氏は、そのツイッター上のあるつぶやきに、違和を感じるという。何度も被災地に取材で足を運ぶ神田氏が、問題提起する。
 * * *
 今年も3月11日がやってくる。ツイッターでは震災から3ヶ月後、6ヶ月後のたびに「黙祷」というツイートが流れたが、3月11日にも溢れるのだろうか。/「黙祷」ツイートに何の意味があるのか、敢えて問いたい。/そもそも「黙祷」しているときにツイートは出来無いし、それを呼びかけてもやる人はやるし、やらない人はやらない(出来無い人もいる)。「震災を忘れないために」というかもしれないが、忘れるはずがない。結局、「黙祷」ツイートは、「震災から1年」という“イベント”に参加したいだけではないか。/そう“イベント”なのだ。ネットでは政治家や有名ジャーナリストが、当日のイベントへの参加を呼びかけている。しかしパレードをしたり音楽を鳴らすことで、被災地の人たちの何が報われるというのだ。参加している人たちに「良いことをした」という満足感にひたらせ、逆に目の前の問題から目をそらせることになりはしないか。/ 原発問題はいまだに解決されず、がれき処理は進まず、被災地の経済は沈んだままだ。宮城県下の高校生のうち10人にひとりは奨学金を申請している。彼・彼女らが高校を卒業したときに明るい未来を築けるように、我々大人は用意してあげているのか。震災をイベント化してはならない。被災者を悼む気持ちはそれぞれの胸の中にあればいい。/もちろんメディアも3月11日だけ集中豪雨的に報道し、あとは知らんぷりという(ありがちな)態度は許されない。これはフリーライターといえどもメディアの末端に連なる私の自戒でもある。/3月11日午後2時46分、私は黙祷を捧げている被災者の方たちを取材している予定だ。そのあと出張先のホテルに帰り、自分がこの1年、被災者の人たちにどれだけ役に立つ記事を書けたか、どれだけ寄付などの貢献が出来たか、振り返るだろう。毎年毎年、20年後でも30年後でも、3月11日はあの人たちにどれだけ貢献できたか振り返る。  (NEWSポストセブン 2012.03.10 16:00)
 
  今日は今年最初のは庚申(かのえさる)の日で、帝釈天の縁日であるという。古くから庚申信仰(こうしんしんこう)というのがあり、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰であるという。
 本日のウェブニュースより
572d7161.jpeg 岐阜市元浜町の庚申堂、お色直し終わる ―― 岐阜城下町にある、戦国時代が起源の岐阜市元浜町の庚申(こうしん)堂のお色直しが終わった。くくりざるやつるしびななどの手芸品も堂内を飾り、初庚申の29日は午前10時からお勤めがある。/堂を守る美江寺観音(同市美江寺町)によると、1560(永禄3)年に斎藤道三の嫡男義龍が伝燈護国寺を建立。宗教騒乱「別伝の乱」で破却された後も堂は残り、延宝年間(1673~1681年)に東伝寺として再興された。現在は場所が少し南に移り、再建年代不明だが老朽化が激しいため、市の川原町地区の歴史的建造物群景観形成助成事業で昨年秋から屋根瓦を全面ふき替え、内部も畳を板敷きに改装した。/本尊青面金剛像と木造の三猿は年代物で、先人の信仰の厚さを物語る。手芸品は県生涯学習コーディネーターの山田マサ子さん(64)=同市中川原=が寄進。山田さんは「木挽町の地蔵寺、般若寺とともに城下町の三庚申参りを復活すれば町おこしになる。みんなで盛り上げたい」と話した。  (岐阜新聞web 2012年02月26日 11:20)
 
 これまでも取り上げた葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)の『避暑録話』に、「庚申のまじない」についての記事があったので、掲載する。
 
 避暑録話 巻四より 庚申のまじない
 道家有言三屍、或謂之三彭、以為人身中皆有是三蟲、能記人過失。至庚申日、乘人睡去而讒之上帝、故學道者至庚申日輒不睡、謂之守庚申、或服藥以殺三蟲。小人之妄誕、有至此者。學道以其教言、則將以積累功行以求升舉也、不求無過、而反惡物之記其過、又且不睡以守、為藥物以殺之、豈有意於為過、而幸蔽覆藏匿、欺妄上帝、可以為神仙者乎?上帝照臨四方、納三屍陰告而謂之讒、其悖謬尤可見。然凡學道者、未有不信其說。柳子厚最號強項、亦作《罵屍蟲文》。且唐末猶有道士程紫霄、一日朝士會終南太極觀守庚申、紫霄笑曰:「三屍何有?此吾師托是以懼為惡者爾。」據床求枕、作詩以示眾曰:「不守庚申亦不疑、此心長與道相依。玉皇已自知行止、任爾三彭說是非。」投筆、鼻息如雷。詩語雖俚、然自昔其徒未有肯為是言者、孰謂子厚而不若此士也?
52bb6d83.jpeg〔訳〕道家の説に、三尸(さんし)または三彭(さんぽう)というのがあり、すべての人の体内にこの三つの虫がいて、人の過失をちゃんと覚えいて、庚申(かのえさる)の日になると、人が寝込んだ好きに、天に昇って上帝にそれを讒言するのだという。そのため、道教を奉ずる人たちは、庚申の日になると一晩中値ない。それを「守庚申」と称している。あるいは薬を飲んで三虫を殺す人もいる。小人どものでたらめさも、ここまで来ては何をか言わんやだ。
 道教を奉ずるとは、そのとく所の教えからすれば、修行を積むことによって昇天を求めることにあるはずだ。しかるに、過(あやま)ちなからんことことを求めようとはせずに、かえって己の過ちを覚えておるものを憎んだり、寝ずにそれを守(監視)したり、薬物でそれを殺そうとしたりするのは、実は過ちをやらかそうとする魂胆があって、それをうまく隠し通して上帝の目をくらませば、めでたく神仙になれるのだとでもいうのだろうか。上帝は四方をみそなわしつつ、三尸の隠密な報告を聞こし召されるのであるのに、それをしも讒言だとするとは、でたらめさ加減も極まれると言うべきだ。しかも道教信奉者はなべてこれを信ぜぬ者はない。あの柳子厚〔773~819年、中唐の文学者・政治家である柳宗元のこと〕は頑強な人物として音に聞こえているが、その彼でさえ「尸虫を罵る文」を作っているほどだ。
 ただ、唐の末の道士で程紫霄(ていししょう)という人があった。或る日宮仕えの官員たちが、終南山の大極観へ守庚申をやりに集まった。紫霄は笑って、「三尸なんぞ有るもんですか。それはわが祖師たちが、悪をなす者を恐れさせるために設けられた方便ですじゃ」と言うと、寝台に凭れて枕を持って来させて、詩を作って一同に示した。――
  庚申を守らず亦疑いもせず
  此の心長(つね)に道と相依(なじ)む
  天皇(てんのかみ)已(すで)に自ら〔わが〕行止(おこない)を知りたもう
  爾(なんじ)らが三彭について是非(あれこれ)説くに任す
 筆を投げ出すと、もう雷のようないびきであった。詩は通俗的な言い回しもあるが、しかし、これら道家の徒(ともがら)で、進んでこのような言を吐いたものは未だかつてないのである。いやはや、子厚でさえもこの道士には及ばぬとは!
 
215411cc.jpeg※柳子厚とは柳宗元(773~819年)のことで、中唐の代表的文学者の一人。同時代の韓愈がその主義の主張と時勢への順応とを巧みに使い分けたのとは異なり、彼は苦境にあっても頑強なまでに己の主義を貫いた。その考え方には懐疑の精神と合理主義的な志向が著しい。こここで「その彼でさえ」といっているのは、戸のような彼の精神を認めてのことである。
 
 今朝のウェブニュースより
e6b2efac.JPG 藤原新が五輪へ! 日本人トップ2位/東京マラソン ――  ロンドン五輪男子の代表選考会を兼ねた東京マラソン(東京都庁前発東京ビッグサイト着、サンケイスポーツなど後援)が26日、行われ、藤原新(30)=東京陸協=が日本人トップの2時間7分48秒で2位。五輪代表入りがほぼ確実となった。公務員ランナーの川内優輝(24)=埼玉県庁=は2時間12分51秒の14位に終わった。/レースは5キロすぎから外国人招待選手7人と藤原正和(30)=ホンダ=が抜け出してペースを作る。しかし20キロ手前で藤原正は先頭集団から脱落し、第2集団に追いつかれる。藤原新は26キロすぎに第2集団から抜け出し、日本勢トップに立つ。ペースを上げて32キロ過ぎには4位に浮上し、ラスト1キロで2人を抜いた。藤原新は「6分台を狙っていたけど、一人旅が長かったので、きょうはこのタイムで合格」と笑顔を見せた。/優勝はケニアのマイケル・キピエゴ(28)で2時間7分37秒。元世界記録保持者の“皇帝”ハイレ・ゲブレシラシエ(38)=エチオピア=は、レース終盤まで先頭を走っていたが最後に失速し4位に終わった。川内は給水に何度も失敗し、22キロ過ぎに第2集団から脱落した。 (SANSPO.COM 2012.2.26 11:25)
 
 海老名市在住のchaboさんから、2枚の写真を貼付したメールが届いていた。曰く、「走る姿の撮影は難しいです。」
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 夢渓筆談 巻18より 活版の始まり
 版印書籍、唐人尚未盛為之、自馮瀛王始印五經、已後典籍、皆為版本。慶歷中、有布衣畢昇、又為活版。其法用膠泥刻字、薄如錢唇、每字為一印、火燒令堅。先設一鐵版、其上以松脂臘和紙灰之類冒之。欲印則以一鐵範置鐵板上、乃密布字印。滿鐵範為一板、持就火煬之、藥稍鎔、則以一平板按其面、則字平如砥。若止印三、二本、未為簡易;若印數十百千本、則極為神速。常作二鐵板、一板印刷、一板已自布字。此印者才畢、則第二板已具。更互用之、瞬息可就。每一字皆有數印、如之、也等字、每字有二十餘印、以備一板內有重復者。不用則以紙貼之、每韻為一貼、木格貯之。有奇字素無備者、旋刻之、以草火燒、瞬息可成。不以木為之者、木理有疏密、沾水則高下不平、兼與藥相粘、不可取。不若燔土、用訖再火令藥熔、以手拂之、其印自落、殊不沾汙。昇死、其印為余群從所得、至今保藏。
〔訳〕書籍を木版で印刷することは、唐代ではまだあまり盛んではなかった。馮瀛王(ふうえいおう)が初めて五経を木版印刷で刊行して以来、伝統的に重要視されてきた書籍はすべて木版本になったのである。慶暦年間〔宋、仁宗の年号。1041~48年〕になるとさらに平民の畢昇(ひっしょう)が活版を作り出した。その方法は厚さが銅銭の縁ほどの粘土に字を彫る。一字ごとに一活字を作り、焼いて硬度を高める。一方鉄板を用意し、その上に松脂・蝋と紙灰のたぐい〔の接着剤〕を塗り付ける。さて印刷となると鉄製のわくを鉄板の上に置いてから、活字をぎっしりと敷き並べ、一鉄わくで一活版ができると、火でこれを熱して接着剤を少し溶かしてから、平らな板でその面をおさえて、括字面を砥石のように平らにする。もし二、三冊だけ印刷するというのなら、この方法はあまり簡便とはいえないが、数十冊、数百冊、数千冊という本を印刷するとなったら、非常に手早く出来る。いつも二枚の鉄板を用意して、一枚の方で印刷し、一方が印刷し終わった時には、次の版が組み上がる。こうして交互に用いれば、またたくまに印刷ができるわけだ。活字はみな数本ずつ用意され、「之」とか「也」などの字になると二十余本も用意されて一版内の重複にそなえる。使わない時は活字を〔韻別に分類して〕各韻ごとに紙をはって韻を示し木の枠に入れてしまっておく。普段用意していないなうな特殊な珍しい字は、その度に粘土に刻(ほ)り、わら火で焼き固めれば、すぐさま出来上がる。〔粘土を用いて〕木を使わない理由は、木目の細かさには粗密があり、水にぬれると高さが不揃いになってしまうし、そのうえ接着剤によくくっ付きすぎて、取り出しにくいからで、粘土の活字のほうが良い。使い終わってから熱して接着剤を溶かし、手で払えば粘土活字はパラリと落ちて、少しも汚れないのだ。昇が死んだあと、その活字は一族中の兄弟達のものとなり、今に至るまで大事な所蔵品になっている。
 
0e75f30e.JPG※馮瀛王とは馮道〔882~954年〕のことで、五代の時に後唐・後晋・遼・後漢・後周五王朝の宰相になったため、後世節操がないとの批評が生まれたが、かれは歴代君主に愛民を説き、実際の行政上でもその実施に努めたので、当時の人々からは称揚されている。死後に瀛王に追封された。五経のの木版刊行は後唐の長興三〔932〕年に始り、後周の太祖〔951~53年〕の時に完成するという、十世紀の乱世の中で王朝の転変を乗越えて着々と進められた、まさに馮道ならではなしえぬ事業であった。これが中国における木版印刷の初めであるとされている。なお実際には五経でなく、九経〔宋以前の九経は礼記・左伝・詩・周礼・儀礼・易・尚書・公羊伝・穀梁伝〕を刊行した。
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10c7cb99.JPG※畢昇(ひっしょう、生年不詳~1052年頃)は、中国・北宋の人物で11世紀に膠泥活字を用いて印刷を行ったとされる。膠泥を用いて活字を作り(膠泥活字)、印刷を行ったとされる。ただし、当時は木版印刷が主流であり、彼の印刷法が幅広く普及したわけではなかった。14世紀、元代になると木活字が愛用されるようになり、以後清朝の乾隆代〔18世紀〕には大小の木活字二五万余字を揃えて『四庫全書』が刊行される。中国で考案された活字の法は、早く朝鮮にも伝えられた。15世紀の初期から19世紀の中期まで、李朝歴代の王立鋳字所で銅を主とする鋳造活字が盛んに使われ、その活字本は日本にも伝わって、日本の古活字版刊行の基をひらいた。ヨーロッパでドイツのJohannes Gutenberg〔ヨハネス・グーテンベルグ、1398?~1468年〕が活字の母型と黄銅製の鋳型を発明し、Mainz(マインツ)で活版の印刷を始めたのは15世紀中期のことである。
 
 夢渓筆談 巻14より 集句詩
 古人詩有“風定花猶落”之句、以謂無人能對。王荊公以對“鳥鳴山更幽”。“鳥鳴山更幽”本宋王籍詩、元對“蟬噪林逾靜、鳥鳴山更幽”、上下句只是一意;“風定花猶落、鳥鳴山更幽”則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶、往往親切、過於本詩。後人稍稍有效而為者。
〔訳〕古人の詩に「風定まりて花なお落つ」という句があり、これに対句をつけられる人はいないといわれていた。王荊公〔王安石〕がこれに「鳥鳴きて山さらに幽(しず)か」と対句をつけた。「鳥鳴きて山さらに幽か」というのは、もともと宋の王籍〔おうせき、生卒年不詳〕の詩であり、「蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か」という対になっていて、上下句はただ一つの意境を詠ったもの。「風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か」となれば、上句は静中に動あり、下句は動中に静ありとなる。
 集句詩なるものは荊公がはじめて作ったものである。長い詩に至っては百韻にも及んでおり、すべて前人の句をつなぎ合わせたものであるが、語気といい対偶といい、しばしばもとの詩よりずっとぴったりしたものになっていた。その後をついでまねて作ってみる者も少々はいるようである。
 
7bb0a2b0.JPG※集句詩の詩形は明の胡震享が『唐音葵籤』で、「晋の傳咸(ふかん)がはじめ、唐の昭宗の時にも同谷子という者が集句詩を作って時政をそしっている」と述べているように、宋代以前にもあったものらしい。宋の蔡條(さいとう)の『西清詩話』でも「集句詩は宋初からあったがそう盛んでなかった。石曼卿〔992~1040年〕が機智に富んだ集句詩を作って以来盛んになった。王荊公が始祖ではない」と言っている。王安石が特に巧みであったので宋代集句詩の代表的作者とされ一般にも始祖とみなされてしまったらしい。
 
 夢渓筆談巻13より 銀鼓と寶刀
 寶元中、黨項犯邊、有明珠族首領驍悍、最為邊患。種世衡為將、欲以計擒之。聞其好擊鼓、乃造一馬、持戰鼓、以銀裹之、極華煥、密使諜者陽賣之入明珠族。後乃擇驍卒數百人、戒之曰:“凡見負銀鼓自隨者、並力擒之。”一日、羌酋負鼓而出、遂為世衡所擒、又元昊之臣野利、常為謀主、守天都山、號天都大王、與元昊乳母白姥有隙。歳除日、野利引兵巡邊、深涉漢境數宿、白姥乘間乃譖其欲叛、元昊疑之。世衡嘗和蕃酋之子蘇吃曩、厚遇之。聞元昊嘗賜野利寶刀、而吃曩之父得幸於野利。世衡因使吃曩竊野利刀、許之以緣邊職任、錦袍、真金帶。吃曩得刀以還。世衡乃唱言野利已為白姥譖死、設祭境上、為祭文、敘歳除日相見之歡。入夜、乃火燒紙錢、川中盡明、虜見火光、引騎近邊窺覘、乃佯委祭具、而銀器凡千余兩悉棄之。虜人爭取器皿、得元昊所賜刀、乃火爐中見祭文已燒盡、但存數十字。元昊得之、又識其所賜刀、遂賜野利死。野利有大功、死不以罪、自此君臣猜貳、以至不能軍。平夏之功、世衡計謀居多、當時人未甚知之。世衡卒、乃錄其功、贈觀察使。
〔訳〕宝元年間〔宋、仁宗の年号、1038~39年〕タングートが国境地帯に侵入したが、中でも明珠族の首領が手強く、いちばんの厄介者になっていた。种世衡(ちゅうせいこう)が指揮官となって、これを何とか謀(たば)って生け捕りにしようとした。首領が非常に太鼓を打つのが好きだと聞いて、馬を一頭したて、銀をかぶせたまことにきらびやかな戦鼓を持たせて、忍びの者に明珠族のところへわざと入りこませた。そのうえで、えりすぐりの兵士数百人に、「なんでも銀の戦鼓を背負って行く者を見たら、力を合わせて生け捕りにせよ」と厳命した。と、ある日、タングートの首領は戦鼓を背負って出撃してきたので、とうとう世衡に捕えられてしまった。
 また、李元昊〔りげんこう、タングート国家西夏の景宗皇帝〕の臣、野利(やり)こそは策士であって、天都山を守り、天都大王と号し、元昊の乳母の白姥(はくぼ)とは仲が悪かった。ある年の暮れ、野利が兵を引き連れて国境を巡察した際、中国内に深く入り込んで数野を過した。白姥はその機に乗じて叛意があるぞと中傷したが、元昊は半信半疑だった。世衡は以前タングートの酋長の子蘇吃曩(そきつのう)を捕え、これを鄭重にもてなしていた。元昊がかつて野利に宝刀を賜ったこと、そして吃曩の父が野利に気に入れられていることを聞くと、世衡は吃曩に野利の刀を盗ませて、辺境地区官吏の職位・錦の袍・純金の帯を与えることを約束した。吃曩が刀を手に入れて帰って来ると、世衡は、野利はすでに白姥のために中傷されて死んだと公言し国境に祭壇を設け、祭文を作って、ある年の暮に〔野利と〕カイケンしたときの楽しかったことなどを書き込んでおき、夜になると、紙銭を焼いたから草原は明々と照らし出された。タングートは日の光を見ると馬を引いて近づき様子をうかがい始めた。そこでわざと祭具を捨て、およそ千余両もする銀器もみな捨てて去った。タングートはこれを奪い合い、元昊が野利に賜った刀や、炉の中の数十字だけ残っている祭文も見つけた。元昊はこれらの品を手に入れ、自分が賜った刀を認めると、とうとう野利に死を賜った。野利は大変な功労があり、死罪などとんでもないことだったから、これ以来君臣が疑いあって戦いもできぬようになってしまった。
 西夏平定の功は、世衡の計略に負うところが多いが、当時の人はまだあまりよくこれを知っていなかった。世衡が亡くなると、その功を認められ、観察使の職位が贈られた。
 
※宋の秦鳳路原州および永興軍環州一帯〔今の甘粛省東北部平涼専区〕に侵入したタングートには、明珠・滅蔵・康度という三大部族があり、いずれも強悍で討伐も困難なら順撫策にも応ぜず、この地帯の悩みの種になっていた。
94b0b669.JPG※种世衡、字は仲平。宋の仁宗の時の名将。環州一帯の守備軍司令官となり、対タングート作戦に当たること数年、智謀に長けた上に士卒を可愛がり存分に戦力を発揮させて善戦し、また補給についても十分手を尽くして住民に迷惑をかけなかったので、没した時人々は彼の画像を画いて祀ったと言う。


0c67c68e.JPG※景宗李元昊は、帝王と将帥の器量を兼備した人で、前代太宗李徳明が宋と和親関係を結び貿易の利を蓄積して充実させた国力を元に、兵制・礼楽・文字を制定し、都を現在の寧夏回族自治区にあたる銀川市に当たる興慶府に定めるとともに、宋の国境に対して全面的な攻勢をとり、両国の交戦は数年に及んだが、両軍とも戦い疲れて1044年に和約が結ばれた。
 
 夢渓筆談 巻13より 曹瑋の戦法
 曹南院知鎮戎軍日、嘗出戰爭小捷、虜兵引去。瑋偵虜兵起遠、乃驅所掠牛羊輜重、緩驅而還、頗失部伍。其下憂之、言於瑋曰:“牛羊無用、徒縻軍、若棄之、整眾而歸。”瑋不答、使人侯。虜兵去數十裏、聞瑋利牛羊而師不整、遽襲之。瑋愈緩、行得地利處、乃止以待之。虜軍將至近、使人謂之曰:“蕃軍遠來、幾甚疲。我不欲乘人之怠、請休憩士馬、少選決戰。”虜方苦疲甚、皆欣然、嚴軍歇良久。瑋又使人諭之:“歇定可相馳矣。”於是各鼓軍而進一戰大破虜師、遂棄牛羊而還。徐謂其下曰:“吾知虜已疲、故為貪利認誘之。此其復來、幾行百裏矣、若乘銳便戰、猶有勝負。遠行之人若小憩、則足痹不能立、人氣亦闌、吾以此取之。”
〔訳〕曹南院〔曹瑋〕が鎭戎軍を治めていた頃、かつて出撃して軽く一戦をものし敵軍は兵を引いて去った。瑋は敵軍がすでに遠くに去ったことを確かめると、奪い取った牛羊輜重(しちょう)を追いたてながら、のんびりと帰途に着いたので、隊伍が乱れてしまった。部下が心配して、「牛や羊は使い道もなく、部隊の足手まといになるばかり、これを捨てて整然と隊伍を整えて帰った方がよいと存じますが」と、瑋に進言したが、瑋は黙ったまま斥候を出す。敵軍は数十里ほど兵を引いた所で、瑋が牛羊に気を取られて隊伍を乱したと聞いて、急遽取って返して瑋の軍の襲撃にかかる。瑋の方はますます行軍の速度を落とし、地の利のいい所をみつけると、そこに待機して敵軍を迎えた。
 敵軍が至近距離に近づくと、使者をはけんして、「お前たちは遠くから駆けつけたので、きっと疲れていることだろう。相手の弱みに付け込むのは好まぬ。兵士も馬も一休みさせて、一息入れてから決戦することにしようではないか」と申し入れさせた。敵は折しも非常に疲れているところだったから、みな喜んで兵をまとめしばらく休息をした。瑋はまた使者を派遣して「一息入れた所で、さて勝負いたそう」と申し入れ、太鼓を打って各部隊を進攻させ、一撃で敵部隊を大いに破ると、牛羊を捨てて帰還した。ここで瑋はやっと口を開いて部下に言った。
「わしは敵がすでに戦い疲れているのを知っていたから、わざと欲に目がくらんだふりをして敵を誘ったのだ。再び追いついた時には、敵は百里近くも走り続けているわけだ。もしその勢いに乗ってすぐ戦闘に突入したなら、まだ相当戦えただろう。が、長距離は知ったものが、ちょっと一休みをすると、かえって足がしびれて立てなくなり、意気も挫けてしまうものだ。そこをわしは狙ってやったのさ」と。
 
af572283.JPG※曹瑋〔973~1030年〕は、字は宝臣、諡は武穆(ぶぼく)。のち宋代において軍事を司る最高機関であった枢密院の次官〔簽書枢密院事〕になり、宣徽(せんき)南院〔宮中の祭宴を司る役所。大臣・枢密院官などの高官が担当する〕の官にもなつたので曹南院と呼ばれる。太宗の時、西夏軍に対する作戦を十九歳で担当し、その時すでに老将のように沈着であったという。真宗が即位すると、引き続き対西夏作戦にあたり、鎭戎軍の長官となって、西夏の太宗李継遷〔けいせん、963~1004年〕の軍をしばしば破った。以後40年間の先人生活で失策を犯したことがないという名称であった。
 
 
 夢渓筆談 巻13より 王元澤の機転
 王元澤數歳時、客有以一麞一鹿同籠以問雱:“何者是麞、何者是鹿?”雱實未識、良久對曰:“麞邊者是鹿、鹿邊者是麞。”客大奇之。
c06de8f5.JPG〔訳〕王元沢〔王雱(おうほう)〕が五、六歳の時、ある客が麞(のろ)と鹿とを同じ籠に入れて「どっちが麞でどっちが鹿だ?」と雱に聞いた。雱には実は未だその見分けはつかなかったのだが、ややあって「麞の隣にいるのが鹿で、鹿の隣にいるのが麞だよ」と応えたので、客は大いに感心した。
 
※王雱(1043~1076年)の字は元澤、王安石の子で少年の頃から才華に溢れ、元服前にすでに数万言の書を著したという。のち天章閣待制の官となったが、三十三歳にして父に先立ち世を去った。
f269bd38.JPG※麞(のろ)は角が短い小型の鹿。肩髙70cmほど。夏毛は赤褐色で冬毛は淡黄色。臀部に大きな白斑がある。なおここで言う鹿はいわゆるニホンジカの類、すなわち肩高70~90cmで、栗色の毛に白斑をもち、冬には斑紋がなくなり、灰褐色となるもの。
 昨夜の内に横浜のYMさんからメールがはいった。曰く、
「YMです。このたびは、メールとお写真をありがとうございました。/お返事出すのが遅れてしまいすみませんでした。/日高先生の思いやりと行動力の速さには、本当に頭が下がります。/告別式にも参列できませんでしたから、未だに私の中では、信じられません。/日高先生が、書いていますようにきっとMさんの事は、語りつくせないのだと思います。/私でさえそう思うのですから、先生や、同級生の方々のことを思いますと、涙が出てきます。/心からご冥福を祈るとともに みなさんを思いやる日高先生 道子先生に感謝いたします。」
 
c7c9696e.JPG 北宋末から南宋初期にかけて活躍した葉夢得(1077~1148年)の避暑録話のなかに「范文正公の奇怪さ」に付いて書いた一文を見つけたので、掲載しておく。
 



 避暑録話 巻四より 范文正公の奇怪さ
 陸龜蒙作《怪松圖贊》、謂草木之性本無怪、生不得地、有物遏之、而陽氣作於內、則憤而為怪。範文正公初數以言事動朝廷、當權者不喜、每目為怪人。文正知之、及後復用為西帥、上疏請城京師以備敵、曰:「吾又將怪矣。」乃書《龜蒙贊》以遺當權者、曰:「朝廷方太平、不喜生事。某於搢紳中獨如妖言、既齟齬不得伸辭、因乖戾得無如龜蒙之松乎?」時雖知其諷己、訖不能盡用其言。
〔訳〕陸亀蒙の「怪松図の賛」にいう、「草木はその本性として、も友と奇怪なはえ方はせぬ。ただ土地が所を得ず、その成長を妨げる何かがあると、生気が内にこもって、勃然として奇怪な形を作る」と。
 范文正公は、当初しばしば意見を具申して朝廷をゆさぶったため、当路者はこれが気に入らず、いつも公を怪人〔奇っ怪な人間〕あつかいにしていた。公はそのことを知っていて、西帥となった時、意見書をたてまつり、国都の城壁を堅固にして夷狄(いてき)に備えるよう請願したが、その時公は「またしても怪人あつかいにされるさ」と言って、そこで陸亀蒙の賛を書いて当路者たちに送り届け、こう付け足した――「朝廷におかれては、時まさに太平のため、事を起こすことを喜ばれませぬが、それがしは公卿のなかで、ただ独り妖言をなしております。なにかとぎくしゃくとして申したきことも申せぬため、かくは亀蒙の松のごときひねくれ方とはあいなりましょう」。その時みな、自分たちがあてつけられているのだとは知ったが、ついに公の建言をすべて採用するには至らずじまいだった。
 
※陸亀蒙〔りくきもう、?~881年〕は中国、晩唐の詩人。字(あざな)は魯望(ろぼう)。蘇(そ)州(江蘇省)の人。科挙に及第せず、一時、地方官の幕僚となって出仕したものの、やがて松江(しょうこう)(江蘇省)の甫里(ほり)に隠棲(いんせい)して晴耕雨読の気ままな生涯を終えた。これは、彼と『松陵集』で詩を唱和しあった皮日休(ひじつきゆう)とともに、晩唐期における士人の新しい生き方を示したものといえる。詩風は穏やかな情感を詠じ、きわめて清麗と評される。詩文集はその隠棲の地にちなんで『唐甫里先生文集』20巻とも、松江の別名、笠沢(りゅうたく)にちなんで『笠沢叢書(そうしょ)』四巻ともいう。その雑文(小品文(しょうひんぶん))は比喩(ひゆ)や風刺に富み、後の魯迅(ろじん)によって鋭い現実批判の文章として称賛されたものである。
60916650.JPG※范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身で、2歳の時に父を失って母が長山の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓にもどした。應天府に行って苦学し、1015年に大中祥符中進士に及第して広徳軍司理参事となり晏殊〔あん しゅ、991~1055年〕に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡〔りょいかん、979~1044年〕に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖〔よせい、1000~1064年)・尹洙〔いん しゅ、1001~1047年〕・欧陽修〔おうよう しゅう100~1072年〕も次々と朝廷を去り、自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏〔タングート族〕をたてると、轉運使〔西帥〕として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍圖閣直学士であることから「龍圖老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽修が推薦し枢密副使・参知政事となった。仲淹は富弼〔ふひつ、1004~1083年〕とともに上奏して、1.黜捗(ちゅっちょく)を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。穎州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。
 
  昨夕、ナベちゃんからFAXが届いた後、電話。どうやらマイチの家かららしい。同期のチャキちゃんやクリちゃんも一緒らしい。2月7日通夜、8日葬儀と決まったらしい。遺体はマイチの家に帰ったらという。とても穏やかな顔をしているとのこと。クリちゃん・チャキちゃんとも交互に話したが、電話の向こうの声はいずれも哭いて、途切れる。いずれも慶応義塾大学で、マイチとクリちゃんが経済学部、チャキちゃんが医学部、ナベちゃんが工学部 ―― この間兼愛塾の先輩として臨海学校の指導員を勤めてくれた。以来、現在に至るまでこの老い耄れのために尽くしくれた。マイチを喪ったいま、何もしてやれないのが口惜しい。
 
 この時期は1年中で最も冷え込む時期、寒冷前線が日本列島を覆っているようだ。今朝のウェブニュースより、
0c1cd677.JPG 氷点下列島 46県庁所在地の3日の予報 ―― 北日本を中心に零下42度を下回る寒気が流れ込んでいる影響で、2日も日本海側を中心とした大雪と全国的な冷え込みが続いた。この寒気はいったん緩むが、別の寒気が再び日本を襲う可能性があるという。大雪のピークは過ぎたが、3日も降り続く見込み。気象庁は雪崩などへの注意を呼びかけた。/気象庁によると、2日は北海道から沖縄まで、平年より厳しい寒さを記録した。3日の予想も、沖縄を除く46都道府県庁所在地のすべてで、最低気温が0度を割るところまで冷え込む見込みとなっている。/1月全体でみても、大半の地域で平均気温は平年より低くなった。東京都心の1月の平均気温は、平年値より1.3度低い4.8度。5度台を割り込むのは2001年以来で、4.5度を記録した86年以来の水準となった。/大雪の影響も各地で深刻だ。2日夕の時点で、青森市(酸ケ湯)の積雪はなお420センチ以上ある。山形県や新潟県でも300センチ超が続くところが3地点ある。24時間降雪量は、滋賀県高島市で61センチなど西日本の各地も目立つ。太平洋側の名古屋市でも16センチとなった。冬型の気圧配置の強まりを受けて風も強まり、一部では吹雪となった。/3日午後6時までに予想される24時間降雪量は多いところで、北陸50センチ、東北・関東甲信(群馬県、長野県中心)40センチ、中国30センチ、東海(岐阜県中心)、近畿、九州北部20センチとなっている。四国の山地でも雪が降る見込み。風も続き、北海道南部から中国地方にかけて、ところによって最大風速15メートル前後の吹雪となる恐れがあるという。/気象庁によると、寒気は弱まりながら東に進み、来週初めにかけて収まるとみられる。しかし、その後、北極側からの寒気が今度はシベリア東部を回り込む形で日本に接近する見込みで、北日本や東日本は再び影響を受けそうだという。(朝日新聞デジタル 2012年2月2日18時15分)
 
 本日は節分で、初午でもある。
aa6b21a3.JPG 浅草寺の節分会(せつぶんえ)。テレビのニュースなどで賑やかな節分会の風景は、今も昔も変わりない。当時浅草寺は先進的なお寺だったらしく、大がかりな節分会を行ったのは、関東で最初だったと伝えられている。浅草寺に倣って豆まきの風習がだんだん江戸庶民に広まったのは、江戸の中期以降のことだ。/豆まきの行事は実際は古くから行われており、「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」と呼ばれた。平安時代、宮中において大晦日に盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。古く中国に始まり、日本へは文武天皇の頃に伝わったという。節分に除災招福のため、豆を撒(ま)く行事は、追儺の変形したものであるらしい。/つまり、最初は宮中の行事だったものが寺社でも行われ、やがて一般化したものと思われる。大晦日とあるのは、旧暦(太陰太陽暦)の関係で、立春が正月に当たるからである。/節分は字が示すように季節の分かれ目で、立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日を指す。もともと年に4日あったことになるが、立春の前日だけが残ったのは、厄を払って新年を迎えるという別格の節分だったからだろう。/ではなぜ、まくのは豆なのか。他の物ではいけないのだろうか。基本的には、大豆を炒(い)ったものを使用することになっている。「マメに暮らすため」とかいうのは都合良すぎはしないか。/米や小豆は、ちょっと小さすぎて投げにくい。鬼をやっつけるには迫力に欠ける。小石を投げるという手もあるが、これだと障子が破れたり物が壊れるので具合が悪い。それ以前に、大豆のような貴重な食べ物を投げてしまって良いのかという素朴な疑問も残る。/大豆は、「畑の肉」と言われるほど栄養価の高い食べ物であることは当時も知られていたはずである。食べ物を投げるという行為は、どうしても日本の文化や日本人の精神構造として、そぐわない。まいた後、拾って食べれば良いという合理的な考え方もあるにはあるが…。/『古事記』には、イザナミノミコトが鬼に桃を投げる場面があるそうで、鬼は桃が苦手だったらしい。その時の桃は熟した桃だったのか桃の種だったのかは分からない。中国では古くから、桃には鬼を退治する霊力があると考えられていて、それが伝わったようだ。鬼ヶ島に鬼退治に出かけた昔話、『桃太郎』も桃だった。この桃が時代を経て、現実的に入手しやすい大豆に転化したとの説もある。
9dbcd3f1.JPG 初午(はつうま)は、2月の最初の午の日。稲荷社の縁日で、雑節の一つとされることもある。/江戸市中には「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわるほど、多くの稲荷社があったという。思い出されるものでも、王子稲荷や穴森稲荷、烏森稲荷・鉄砲洲稲荷・浅草の袖摺稲荷・豊川稲荷・玉姫稲荷・三囲稲荷・吉原の九郎助稲荷といったものがある。また大名や旗本の屋敷にも稲荷祠があったという。/全国稲荷社の本社である京都の伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅4年2月11日(2月9日説もある)であったとされ、この日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。この日を蚕や牛・馬の祭日とする風習もある。江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門した。/本来は旧暦二月の最初の午の日であるが、現在では新暦2月の最初の午の日とされている。そのため、元々は春先の行事だったのが、冬の一番寒い時期の行事となってしまった。また今では二月最初の午の日とされるが、古来は、立春以降の最初の午の日に行われていたという。
 
 今は受験シーズン真っ只中。今朝のウェブニュースより
718dbd78.JPG 合格へ「はばたく」切符、今年も ―― ●JR福島駅で配布/ 受験シーズンを迎え、受験生を応援する「合格きっぷ」をJR福島駅が無料配布している。/同駅の社員が毎年アイデアを出し合って作る。今年は新幹線はやぶさをイメージした絵柄で、しおりにもなる。佐倉(千葉県、総武線)、花咲(北海道、根室線)、羽場(長野県、飯田線)、多久(佐賀県、唐津線)の駅名が書かれ、途中に名前や志望校を記入する空欄があり、つないで読むと「さくらはなさき、○○の合格へ、はばたく」。/きっぷを手にした福島市の中学3年、石戸谷(いしとや)枝美さん(15)は「あと30日間、全力で頑張りたい」と県立高校の受験に向け、気持ちを引き締めていた。/限定5千枚。既に約3500枚が配布された。31日もJR福島駅の東、西の両改札口で配る。  (asahi.com 2012年01月31日)
 
 夢渓筆談巻9より 擧人は駱駝なみ
 舊制:天下貢舉人到闕。悉皆入對、數不下三千人、謂之群見。遠方士皆未知朝廷儀範、班列紛錯、有司不能繩勒。見之日、先設禁圍於著位之前、舉人皆拜於禁圍之外、蓋欲限其前列也。至有更相抱持、以望黼座者。有司患之、近歳遂止令解頭入見、然尚不減數百人。嘉祐中。余忝在解頭、別為一班、最在前列。目見班中唯從前一兩行稍應拜起之節、自余亦終不成班綴而罷、每為閤門之累。常言殿庭中班列不可整齊者、唯有三色、謂舉人、蕃人、駱駝。
〔訳〕旧制では、全国の擧人が宮城に来て、全員入内して天使に拝謁したが、その数は三千人を下らず、これを「群見」と呼んだ。 遠方の士はみなまだ朝廷の儀礼を知らないから列も滅茶苦茶で、役人も整理しようがない。で、群見の日には、まず玉座の前に囲みをつくり、擧人たちは囲みの外で拝することにした。その前列だけに接見を限ろうとしたのである。ところが互いに抱き上げあって玉座を望むものまででてきたので、これを憂えた係りの役人が、近年になって解頭〔首座合格者〕だけに接見を許すようにした。とはいってもまだ数百人にしか減らない。
 嘉祐年間〔宋、仁宋の年号、1056~63年〕に、私も解頭になり特別の一般に入って最前列に並んだ。見たところ班中の前一、二列だけが、何とか拝起の礼に応ずることが出来るが、あとは結局いい加減のまま、朝廷の儀式係りに面倒をかけるばかりであった。よく言われることであるが、宮庭できちんと整列できないものが三つある。それは擧人と蕃人と駱駝であると。
2c03e8e0.JPG※ 宋代の科挙〔高等文官試験〕は郡で行う解試、中央の礼部で行う省試、皇帝自らが行う殿試からなる三層制で、進士の試験を受けるものを擧人とか貢擧人と呼んだ。ここではあとに解頭〔解試首席合格者〕に限ったとあり、人数も三千人の多きを数えているから、解試合格者のことであろう。
※ 沈括は嘉祐年間に科挙を受験し、同八〔1063〕年、33歳の時に進士となっている。
 
  12月26日(月)午後、甥のHから電話が入る。「26日未明、母が風呂場で倒れた。発見されたときは手遅れてあった。今後の予定が決まり次第、再度連絡する」と言うことであった。
 五人の兄弟姉妹のうち、幼い時代を一緒に過した期間が一番長かった姉で在ってみれば、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。原爆直後の廣島の街を母と姉と3人でさまよったこと、三次での疎開生活、父の死…… 戦後、門司に帰ってからも、姉が結婚するまでの間、何かと世話を焼いてくれた。僕が結婚してからも、母が東京で倒れた時も、一番最初に駆けつけてくれて寝ずの看病、そして母の死の時も一番力になってくれた。
 夕刻、通夜と葬儀の予定が知らされてきた。「年末ではあるし、それに高齢でもあるのだから、無理をして出かけなくてもいいですよ」という甥や姪の声であったが、早速二日市のビジネスホテルに予約をとり、翌27日の前から予定されていたA医院の検診を終えて、午前10時女房と一緒に東京駅に駆けつけた。年末で下り新幹線はどれも満席に近い混みようなので、11時10分発の「のぞみ」グリーン車で駆けつけた。米原付近の降雪で10分遅れで16時23分博多着。鹿児島本線の快速に乗りついで、どうやら通夜の始る1時間前にホテルに着いた。すぐに会場に向かう旨、姪に電話を入れると、姪が甥の息子の運転で迎えに来てくれた。会場は筑紫野市の善光会館という。祭壇はこじんまりとして質素であったが、姉にお似合いのものと思った。
 会場では誰と挨拶を交わすと、涙がこみ上げてきて言葉が出ない。通夜は尼さんの正信念仏偈の読経と蓮如上人の「白骨の文章」の読み上げ、そして参列者の焼香で終った。通夜ぶるまい(精進おとし)は親族だけで済まし、甥の息子がホテルまで送ってくれた。
aaecd89e.jpg 翌28日は午前11時に斎場において、お斎(とき、葬儀前の故人との最後の食事)というので、姪と甥の息子がホテルまで迎えに来てくれた。昨日は慌ててホテルにカメラを忘れて通夜の参加となったが、斎場に着くと早速祭壇をカメラに収める。正午頃、下関の兄が内儀と息子を連れて3人で来訪。
 13時より葬儀。若いサラリーマン風の坊さんがお経(多分〔阿弥陀経〕か〔大無量寿経〕?)と正信念仏偈の最初の部分、そして「白骨の文章」読み上げ、何となく在り合わせの商業仏教に感じた。そんなことより、同じ町内に住むというAさんという方の弔辞が心を打った。
b1470ee7.jpg 火葬場へは親族のみの15・6人で行く。精進おとしの食事の後、大宰府三条台のに設えられた祭壇にお参りして、下関の兄一家とホテルに帰る。兄と暫しの間姉との思い出。
 翌29日は親父の66回目の命日。姪のCがポイントカードで指定券がとると言うことで、朝9時ホテルに駆けつけてくれた。二日市から博多駅の「のぞみ」のホームまで見送ってくれた。何とポイントカードの指定券はグリーン車であった。
 旅行中天気に恵まれて何よりであった。
 帰宅後、今朝ほど姪のCから電話があり、初七日は元旦に当たるので、30日(本日)に法要を行うとの報告を受けた。
いやはや、5人兄弟姉妹の内、生き残っていた3人のうち一番元気であっただけに、あっけない死であった。せめて、長患いせず、元気のままポックリと逝ってしまったのは姉の功徳であったと思う。 南無!

3c90a7e9.JPG  26日に亡くなった姉は、来年4月1日に東京で行われる初孫恵理ちゃんの結婚式を本当に楽しみにして、電話の都度、「恵理ちゃんの結婚式にはみんなと会えるわね。それまでは元気にしててね」と言っていた。
 JICAのニュースとお知らせから、恵理ちゃんの活躍の記事と東京新聞の12月18日「日曜版」の記事を掲げ姉への追悼としたい。
 南スーダンの人々と一緒に国づくりを考えた -中村恵理JICAアフリカ部職員- 2011年10月28日
320ea2e7.JPG 住民投票により、国民自らの手でスーダンからの独立を選び、7月にそれを実現させた南スーダン。国全体で整備された舗装道路は70キロメートルしかない。また、15歳以上の識字率は27パーセント(女性は16パーセント)、妊産婦死亡率は10万件中2,054人と世界最低の水準にとどまり、開発課題は山積みだ。そんな南スーダンで2009年6月から2年余り、国づくりを支えた。
・戦後復興の経験を共有したい
中村職員は、幼いころから、祖父母の戦争体験を聞いて育った。二世代で人々の暮らしを大きく変えた日本の経験を、紛争後の国づくりに取り組む開発途上国の人々と共有できるのではと漠然と考えるようになった。
 大学院で国際公共政策を専攻し、紛争研究のゼミに所属。2006年に国際協力銀行(JBIC)に入り、インドの円借款事業を担当した。2008年10月の統合時にJICAに移り、希望の異動先に「パキスタン」「パレスチナ」「スーダン」と、紛争影響国を挙げた。JICAといえども、治安の不安定な国での勤務を希望する職員は必ずしも多くない。すぐに異動が決まり、常駐先は、北部スーダンよりも復興への道のりが険しい南部スーダンを選んだ。
 周囲からは「大変なところへ行くんだね」と言われたが、本人にそんな気負いはなかった。実際、赴任してみると首都ジュバは治安もよく、街には穏やかな空気が流れていた。ルールを守って行動したからということもあるが、危険な目に遭ったことは一度もない。生活と仕事の拠点はプレハブ。暑さは厳しかったものの、エアコンがあったため、さほど苦にはならなかった。休日にはヨガや読書で息抜きをした。
 
・「JICAスタイル」への理解を求めて
しかし、2005年に南北スーダンの間で包括和平合意が締結され、南部スーダン自治政府が成立してからまだ日が浅い。そのため、仕事面では苦労が伴った。中村職員の仕事は、農業・農村開発、理数科教育強化などのプロジェクトのマネジメントだが、担当省庁の行政官には、予算を組み、計画を立て、それに基づいて業務を進めるといった基本的な行政運営の経験がなかった。また、「お金さえあれば、自分たちは何でもできる」と考える人も少なくなかったため、当初は、人材育成を重視するJICAの支援は理解されにくかった。
 しかし、1年、2年と政府との対話に努め、能力強化を継続した結果、省庁のさまざまな会合に呼ばれて意見を求められるようになった。ある農業省幹部は「JICAは、政策にかかわる中央省庁から現場の畑にまで日本人を送り込み、技術やノウハウを提供してくれる」と評価する。
 
・コミュニケーションを大切に
782b0504.JPG 現地の人々から学んだこともある。南スーダンでは、部族主義や汚職によって政府内部での競争が成り立たず、透明性も確保されていない。そのため、人々の行動や発言には、文化的、歴史的な背景だけでなく、このような社会的背景があることを理解し、彼らの本当の意図をくみ取る必要があるということだ。しかし、それは、たまに会議で顔を合わせるだけでは見えてこない。彼らをよりよく理解するため、なるべく省庁や現場に足を運んだ。
 
2011年10月に南スーダンから帰国し、JICA本部で同国を担当する中村職員は「長期にわたる紛争が影響しているからか、南スーダンの人々は、感情を抑えがち。さらに、新しい国の誕生に伴い世界中から援助機関やNGOがジュバに集まってきており、ともすれば現地の人々の声は、かき消されてしまっている。人々との対話を大切にし、ニーズを的確にくみ取って有効な解決策を提案していければ」と話している。  JICA 「トピックス:ひと模様」より
 
 2011年(平成23年)12月18日 東京新聞(日曜版)よりスキャン
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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