瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は今年最初のは庚申(かのえさる)の日で、帝釈天の縁日であるという。古くから庚申信仰(こうしんしんこう)というのがあり、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰であるという。
本日のウェブニュースより
岐阜市元浜町の庚申堂、お色直し終わる ―― 岐阜城下町にある、戦国時代が起源の岐阜市元浜町の庚申(こうしん)堂のお色直しが終わった。くくりざるやつるしびななどの手芸品も堂内を飾り、初庚申の29日は午前10時からお勤めがある。/堂を守る美江寺観音(同市美江寺町)によると、1560(永禄3)年に斎藤道三の嫡男義龍が伝燈護国寺を建立。宗教騒乱「別伝の乱」で破却された後も堂は残り、延宝年間(1673~1681年)に東伝寺として再興された。現在は場所が少し南に移り、再建年代不明だが老朽化が激しいため、市の川原町地区の歴史的建造物群景観形成助成事業で昨年秋から屋根瓦を全面ふき替え、内部も畳を板敷きに改装した。/本尊青面金剛像と木造の三猿は年代物で、先人の信仰の厚さを物語る。手芸品は県生涯学習コーディネーターの山田マサ子さん(64)=同市中川原=が寄進。山田さんは「木挽町の地蔵寺、般若寺とともに城下町の三庚申参りを復活すれば町おこしになる。みんなで盛り上げたい」と話した。 (岐阜新聞web 2012年02月26日 11:20)
これまでも取り上げた葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)の『避暑録話』に、「庚申のまじない」についての記事があったので、掲載する。
避暑録話 巻四より 庚申のまじない
道家有言三屍、或謂之三彭、以為人身中皆有是三蟲、能記人過失。至庚申日、乘人睡去而讒之上帝、故學道者至庚申日輒不睡、謂之守庚申、或服藥以殺三蟲。小人之妄誕、有至此者。學道以其教言、則將以積累功行以求升舉也、不求無過、而反惡物之記其過、又且不睡以守、為藥物以殺之、豈有意於為過、而幸蔽覆藏匿、欺妄上帝、可以為神仙者乎?上帝照臨四方、納三屍陰告而謂之讒、其悖謬尤可見。然凡學道者、未有不信其說。柳子厚最號強項、亦作《罵屍蟲文》。且唐末猶有道士程紫霄、一日朝士會終南太極觀守庚申、紫霄笑曰:「三屍何有?此吾師托是以懼為惡者爾。」據床求枕、作詩以示眾曰:「不守庚申亦不疑、此心長與道相依。玉皇已自知行止、任爾三彭說是非。」投筆、鼻息如雷。詩語雖俚、然自昔其徒未有肯為是言者、孰謂子厚而不若此士也?
〔訳〕道家の説に、三尸(さんし)または三彭(さんぽう)というのがあり、すべての人の体内にこの三つの虫がいて、人の過失をちゃんと覚えいて、庚申(かのえさる)の日になると、人が寝込んだ好きに、天に昇って上帝にそれを讒言するのだという。そのため、道教を奉ずる人たちは、庚申の日になると一晩中値ない。それを「守庚申」と称している。あるいは薬を飲んで三虫を殺す人もいる。小人どものでたらめさも、ここまで来ては何をか言わんやだ。
道教を奉ずるとは、そのとく所の教えからすれば、修行を積むことによって昇天を求めることにあるはずだ。しかるに、過(あやま)ちなからんことことを求めようとはせずに、かえって己の過ちを覚えておるものを憎んだり、寝ずにそれを守(監視)したり、薬物でそれを殺そうとしたりするのは、実は過ちをやらかそうとする魂胆があって、それをうまく隠し通して上帝の目をくらませば、めでたく神仙になれるのだとでもいうのだろうか。上帝は四方をみそなわしつつ、三尸の隠密な報告を聞こし召されるのであるのに、それをしも讒言だとするとは、でたらめさ加減も極まれると言うべきだ。しかも道教信奉者はなべてこれを信ぜぬ者はない。あの柳子厚〔773~819年、中唐の文学者・政治家である柳宗元のこと〕は頑強な人物として音に聞こえているが、その彼でさえ「尸虫を罵る文」を作っているほどだ。
ただ、唐の末の道士で程紫霄(ていししょう)という人があった。或る日宮仕えの官員たちが、終南山の大極観へ守庚申をやりに集まった。紫霄は笑って、「三尸なんぞ有るもんですか。それはわが祖師たちが、悪をなす者を恐れさせるために設けられた方便ですじゃ」と言うと、寝台に凭れて枕を持って来させて、詩を作って一同に示した。――
庚申を守らず亦疑いもせず
此の心長(つね)に道と相依(なじ)む
天皇(てんのかみ)已(すで)に自ら〔わが〕行止(おこない)を知りたもう
爾(なんじ)らが三彭について是非(あれこれ)説くに任す
筆を投げ出すと、もう雷のようないびきであった。詩は通俗的な言い回しもあるが、しかし、これら道家の徒(ともがら)で、進んでこのような言を吐いたものは未だかつてないのである。いやはや、子厚でさえもこの道士には及ばぬとは!
※柳子厚とは柳宗元(773~819年)のことで、中唐の代表的文学者の一人。同時代の韓愈がその主義の主張と時勢への順応とを巧みに使い分けたのとは異なり、彼は苦境にあっても頑強なまでに己の主義を貫いた。その考え方には懐疑の精神と合理主義的な志向が著しい。こここで「その彼でさえ」といっているのは、戸のような彼の精神を認めてのことである。
本日のウェブニュースより
岐阜市元浜町の庚申堂、お色直し終わる ―― 岐阜城下町にある、戦国時代が起源の岐阜市元浜町の庚申(こうしん)堂のお色直しが終わった。くくりざるやつるしびななどの手芸品も堂内を飾り、初庚申の29日は午前10時からお勤めがある。/堂を守る美江寺観音(同市美江寺町)によると、1560(永禄3)年に斎藤道三の嫡男義龍が伝燈護国寺を建立。宗教騒乱「別伝の乱」で破却された後も堂は残り、延宝年間(1673~1681年)に東伝寺として再興された。現在は場所が少し南に移り、再建年代不明だが老朽化が激しいため、市の川原町地区の歴史的建造物群景観形成助成事業で昨年秋から屋根瓦を全面ふき替え、内部も畳を板敷きに改装した。/本尊青面金剛像と木造の三猿は年代物で、先人の信仰の厚さを物語る。手芸品は県生涯学習コーディネーターの山田マサ子さん(64)=同市中川原=が寄進。山田さんは「木挽町の地蔵寺、般若寺とともに城下町の三庚申参りを復活すれば町おこしになる。みんなで盛り上げたい」と話した。 (岐阜新聞web 2012年02月26日 11:20)
これまでも取り上げた葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)の『避暑録話』に、「庚申のまじない」についての記事があったので、掲載する。
避暑録話 巻四より 庚申のまじない
道家有言三屍、或謂之三彭、以為人身中皆有是三蟲、能記人過失。至庚申日、乘人睡去而讒之上帝、故學道者至庚申日輒不睡、謂之守庚申、或服藥以殺三蟲。小人之妄誕、有至此者。學道以其教言、則將以積累功行以求升舉也、不求無過、而反惡物之記其過、又且不睡以守、為藥物以殺之、豈有意於為過、而幸蔽覆藏匿、欺妄上帝、可以為神仙者乎?上帝照臨四方、納三屍陰告而謂之讒、其悖謬尤可見。然凡學道者、未有不信其說。柳子厚最號強項、亦作《罵屍蟲文》。且唐末猶有道士程紫霄、一日朝士會終南太極觀守庚申、紫霄笑曰:「三屍何有?此吾師托是以懼為惡者爾。」據床求枕、作詩以示眾曰:「不守庚申亦不疑、此心長與道相依。玉皇已自知行止、任爾三彭說是非。」投筆、鼻息如雷。詩語雖俚、然自昔其徒未有肯為是言者、孰謂子厚而不若此士也?
〔訳〕道家の説に、三尸(さんし)または三彭(さんぽう)というのがあり、すべての人の体内にこの三つの虫がいて、人の過失をちゃんと覚えいて、庚申(かのえさる)の日になると、人が寝込んだ好きに、天に昇って上帝にそれを讒言するのだという。そのため、道教を奉ずる人たちは、庚申の日になると一晩中値ない。それを「守庚申」と称している。あるいは薬を飲んで三虫を殺す人もいる。小人どものでたらめさも、ここまで来ては何をか言わんやだ。
道教を奉ずるとは、そのとく所の教えからすれば、修行を積むことによって昇天を求めることにあるはずだ。しかるに、過(あやま)ちなからんことことを求めようとはせずに、かえって己の過ちを覚えておるものを憎んだり、寝ずにそれを守(監視)したり、薬物でそれを殺そうとしたりするのは、実は過ちをやらかそうとする魂胆があって、それをうまく隠し通して上帝の目をくらませば、めでたく神仙になれるのだとでもいうのだろうか。上帝は四方をみそなわしつつ、三尸の隠密な報告を聞こし召されるのであるのに、それをしも讒言だとするとは、でたらめさ加減も極まれると言うべきだ。しかも道教信奉者はなべてこれを信ぜぬ者はない。あの柳子厚〔773~819年、中唐の文学者・政治家である柳宗元のこと〕は頑強な人物として音に聞こえているが、その彼でさえ「尸虫を罵る文」を作っているほどだ。
ただ、唐の末の道士で程紫霄(ていししょう)という人があった。或る日宮仕えの官員たちが、終南山の大極観へ守庚申をやりに集まった。紫霄は笑って、「三尸なんぞ有るもんですか。それはわが祖師たちが、悪をなす者を恐れさせるために設けられた方便ですじゃ」と言うと、寝台に凭れて枕を持って来させて、詩を作って一同に示した。――
庚申を守らず亦疑いもせず
此の心長(つね)に道と相依(なじ)む
天皇(てんのかみ)已(すで)に自ら〔わが〕行止(おこない)を知りたもう
爾(なんじ)らが三彭について是非(あれこれ)説くに任す
筆を投げ出すと、もう雷のようないびきであった。詩は通俗的な言い回しもあるが、しかし、これら道家の徒(ともがら)で、進んでこのような言を吐いたものは未だかつてないのである。いやはや、子厚でさえもこの道士には及ばぬとは!
※柳子厚とは柳宗元(773~819年)のことで、中唐の代表的文学者の一人。同時代の韓愈がその主義の主張と時勢への順応とを巧みに使い分けたのとは異なり、彼は苦境にあっても頑強なまでに己の主義を貫いた。その考え方には懐疑の精神と合理主義的な志向が著しい。こここで「その彼でさえ」といっているのは、戸のような彼の精神を認めてのことである。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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