瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻21より 紫姑神
舊俗正月望夜迎廁神、謂之紫姑。亦不必正月、常時皆可召。余少時見小兒輩等閑則召之、以為嬉笑。親戚間曾有召之而不肯去者、兩見有此、自後遂不敢召。景祐中、太常博士王綸家因迎紫姑、有神降其閨女、自稱上帝後宮諸女、能文章、頗清麗、今謂之《女仙集》、行於世。其書有數體、甚有筆力、然皆非世間篆隸。其名有藻牋篆、茁金篆十餘名。綸與先君有舊、余與其子弟遊、親見其筆跡。其家亦時見其形、但自腰以上見之、乃好女子;其下常為雲氣所擁。善鼓箏、音調淒婉、聽者忘倦。嘗謂其女曰:「能乘雲與我遊乎?」女子許之。乃自其庭中湧白雲如蒸、女子踐之、雲不能載。神曰:「汝履下有穢土、可去履而登。」女子乃韈而登、如履繒絮、冉冉至屋復下。曰:「汝未可往、更期異日。」後女子嫁、其神乃不至、其家了無禍福。為之記傳者甚詳。此余目見者、粗誌於此。近歳迎紫姑者極多、大率多能文章歌詩、有極工者。余屢見之、多自稱蓬萊謫仙。醫蔔無所不能、棋與國手為敵。然其靈異顯著、無如王綸家者。
〔訳〕古くからの習俗で、正月十五日の夜、紫姑と呼ぶ厠(かわや)の神の神降ろしをする。また正月とは限らず、いつでもこの神を下すこともできる。わたしが若かった時も、子供たちが面白半分にこの神を降ろす遊びをしているのを見たことがある。親戚の間でもかつてこの神をおろしたところ、どうしても去ろうとはしないことが二度ほどあったので、以後神降ろしをしないようになった。景祐年間〔宋、仁宗の年号、1034~57年〕で、太常博士〔天子の宗廟の祭祀の礼を議する顧問官〕の王綸の家で紫姑を迎えたところその息女が神がかりになって、みずから上帝の後宮の女たちであると称し、すこぶる清麗な文章を書いた。いまこれを『女仙集』といい、世間に流布している。その書には数体あって非常に筆力があるが、どれも世の常の篆隷(てんれい)とは異なっていて、「藻牋篆(そうせんてん)」「茁金篆(さつきんてん)」など十余の名称が付いている。王綸は父と古い交わりがあったから、わたしも王家の子弟と遊んだことがあり、その筆跡もこの目で見ている。王家にはまたしばしばその神が姿をあらわした。とはいうものの腰から上をあらわすだけで、なかなかの美しい女、下半身は常に雲におおわれていた。筝を上手に弾き、その調べは凄艶で聴き手をうっとりとさせた。かつて息女に神が「雲に乗ってわたしと遊ばぬか」といったので承知すると、庭の中に白雲がもくもくとわきあがった。息女が足を踏み入れたが、雲に乗ることができない。「お前の履物の下に穢れた土がついている。履物を脱いでからのるがよい」と神が言う。息女がそこで韈(たび)だけになってのると、絹を踏んでいるようで、しだいに屋根まで上ったがまたおりてしまった。「お前はまだ駄目だ。またの機会を待て」という。のち息女が嫁ぐと、神はおりてこなくなり、王家にはなんの禍福もなかった。このことを大変詳しく記して伝えているものもあるが、わたしは目撃者として、ここに大要を記した次第である。近年、紫姑の神降ろしをする者は大変多い。おおむね文章詩歌をよくし、きわめて巧みなものある。わたしもしばしばこれを見たが、多くは蓬莱謫仙(ほうらいたくせん)と自称し、医療といい占いといい効験あらたかで、囲碁も名人でさえかなわない。しかしその霊異の顕著さでは王綸家のものに如くものはなかった。
※古今図書集成に引かれた『紫姑顕異録』によると、「山東省の人で、山西寿陽の李景の妾になったところ、李の妻が嫉んで、正月15日にそっと厠(かわや)の中で殺してしまった。天帝がこれを憐れんで厠の神にした。そこで世人はその人形を作って夜厠で迎え祭り、占いをして三姑と呼ぶ」とある。その人形というのは近代中国農村での習俗の記録を概観すれば、木杓とか箒とか塵取りなど婦人の手にする台所用品や荘子道具を素材として作ったもので、これを女の子が抱いているうちに神が降りてきて、人の質問に対する人形の揺れ方で答えを判断する場合が多く、日本の「こっくりさん」の類に近い。沈括のこの記録によれば、宋代には日本の恐山のイタコのような紫姑の神降ろしを職業とする者が多かった。
舊俗正月望夜迎廁神、謂之紫姑。亦不必正月、常時皆可召。余少時見小兒輩等閑則召之、以為嬉笑。親戚間曾有召之而不肯去者、兩見有此、自後遂不敢召。景祐中、太常博士王綸家因迎紫姑、有神降其閨女、自稱上帝後宮諸女、能文章、頗清麗、今謂之《女仙集》、行於世。其書有數體、甚有筆力、然皆非世間篆隸。其名有藻牋篆、茁金篆十餘名。綸與先君有舊、余與其子弟遊、親見其筆跡。其家亦時見其形、但自腰以上見之、乃好女子;其下常為雲氣所擁。善鼓箏、音調淒婉、聽者忘倦。嘗謂其女曰:「能乘雲與我遊乎?」女子許之。乃自其庭中湧白雲如蒸、女子踐之、雲不能載。神曰:「汝履下有穢土、可去履而登。」女子乃韈而登、如履繒絮、冉冉至屋復下。曰:「汝未可往、更期異日。」後女子嫁、其神乃不至、其家了無禍福。為之記傳者甚詳。此余目見者、粗誌於此。近歳迎紫姑者極多、大率多能文章歌詩、有極工者。余屢見之、多自稱蓬萊謫仙。醫蔔無所不能、棋與國手為敵。然其靈異顯著、無如王綸家者。
〔訳〕古くからの習俗で、正月十五日の夜、紫姑と呼ぶ厠(かわや)の神の神降ろしをする。また正月とは限らず、いつでもこの神を下すこともできる。わたしが若かった時も、子供たちが面白半分にこの神を降ろす遊びをしているのを見たことがある。親戚の間でもかつてこの神をおろしたところ、どうしても去ろうとはしないことが二度ほどあったので、以後神降ろしをしないようになった。景祐年間〔宋、仁宗の年号、1034~57年〕で、太常博士〔天子の宗廟の祭祀の礼を議する顧問官〕の王綸の家で紫姑を迎えたところその息女が神がかりになって、みずから上帝の後宮の女たちであると称し、すこぶる清麗な文章を書いた。いまこれを『女仙集』といい、世間に流布している。その書には数体あって非常に筆力があるが、どれも世の常の篆隷(てんれい)とは異なっていて、「藻牋篆(そうせんてん)」「茁金篆(さつきんてん)」など十余の名称が付いている。王綸は父と古い交わりがあったから、わたしも王家の子弟と遊んだことがあり、その筆跡もこの目で見ている。王家にはまたしばしばその神が姿をあらわした。とはいうものの腰から上をあらわすだけで、なかなかの美しい女、下半身は常に雲におおわれていた。筝を上手に弾き、その調べは凄艶で聴き手をうっとりとさせた。かつて息女に神が「雲に乗ってわたしと遊ばぬか」といったので承知すると、庭の中に白雲がもくもくとわきあがった。息女が足を踏み入れたが、雲に乗ることができない。「お前の履物の下に穢れた土がついている。履物を脱いでからのるがよい」と神が言う。息女がそこで韈(たび)だけになってのると、絹を踏んでいるようで、しだいに屋根まで上ったがまたおりてしまった。「お前はまだ駄目だ。またの機会を待て」という。のち息女が嫁ぐと、神はおりてこなくなり、王家にはなんの禍福もなかった。このことを大変詳しく記して伝えているものもあるが、わたしは目撃者として、ここに大要を記した次第である。近年、紫姑の神降ろしをする者は大変多い。おおむね文章詩歌をよくし、きわめて巧みなものある。わたしもしばしばこれを見たが、多くは蓬莱謫仙(ほうらいたくせん)と自称し、医療といい占いといい効験あらたかで、囲碁も名人でさえかなわない。しかしその霊異の顕著さでは王綸家のものに如くものはなかった。
※古今図書集成に引かれた『紫姑顕異録』によると、「山東省の人で、山西寿陽の李景の妾になったところ、李の妻が嫉んで、正月15日にそっと厠(かわや)の中で殺してしまった。天帝がこれを憐れんで厠の神にした。そこで世人はその人形を作って夜厠で迎え祭り、占いをして三姑と呼ぶ」とある。その人形というのは近代中国農村での習俗の記録を概観すれば、木杓とか箒とか塵取りなど婦人の手にする台所用品や荘子道具を素材として作ったもので、これを女の子が抱いているうちに神が降りてきて、人の質問に対する人形の揺れ方で答えを判断する場合が多く、日本の「こっくりさん」の類に近い。沈括のこの記録によれば、宋代には日本の恐山のイタコのような紫姑の神降ろしを職業とする者が多かった。
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目高 拙痴无
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