瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
夢渓筆談 巻25より どっこい生きている
蜀中劇賊李順、陷劍南、兩川、關右震動。朝廷以為憂。後王師破賊、梟李順、收復兩川、書功行賞、子無間言。至景祐中、有人告李順尚在廣州、巡檢使臣陳文璉捕得之、乃真李順也、年已七十餘。推驗明白、囚赴闕、覆按皆實。朝廷以平蜀將士功賞已行、不欲暴其事。但斬順、賞文璉二官、仍閣門祗候。文璉、泉州人、康定中老歸泉州、余尚識之。文璉家有《李順案款》、本末甚詳。順本味江王小博之妻弟、始王小博反於蜀中、不能撫其徒眾、乃推順為主。順初起、悉召鄉裏富人大姓、令具其家所有財粟、據其生齒足用之外、一切調發、大賑貧乏;錄用材能、存撫良善;號令嚴明、所至一無所犯。時兩蜀大饑、旬日之間、歸之者數萬人、所向州縣、開門延納、傳檄所至、無復完壘。及敗、人尚懷之。故順得脫去三十餘年、乃始就戮。
〔訳〕蜀〔四川〕の反徒李順が、剣南〔四川の成都地方〕を陥れたので、両川〔四川の東部と西部〕と関右〔四川の北隣陝西地方〕は大騒ぎとなり、朝廷も動揺した。のち官軍が反徒を破り、李順の首を切ってさらし、両川を平定して論功行賞を施したあとは、もう不安なうわさも立たなくなった。景祐年間〔宋、仁宗の年号、1034~38年〕になると、李順がなお広州州〔広東〕に生きていると密告するものがあらわれ、巡察使の陳文璉(ちんぶんれ)が捕えたところ、なんと本物の李順であった。年はすでに七十余歳、取り調べの結果も確かなので、都へ護送して再審したが全く間違いない。朝廷では、すでに四川の乱を平定した将士に論功行賞を施してしまっているので、事実を暴露するわけにもいかず、李順を斬り、陳文璉らを賞して乗輿供奉官にしただけであった。文璉は泉州〔福建〕の人で康定年間〔宋、仁宗の年号、1040~41年〕に年老いて泉州に帰ったが、わたしも知り合いの仲である。文璉の家に「李順案款(じけんきろく)」があって事の次第は非常に詳しい。李順は、もと味江の王小傳の妻の弟であった。王小傳が四川で反乱を起こしたものの、その仲間を掌握しきれなかったので、みなが李順を盟主に押したのである。李順は立ち上がるや、郷里の金持豪族をすっかり呼び集めて、すべての財産穀物を申し立てさせ、家族の暮らしている分だけを除いて、あとはそっくり徴発して貧乏人にふるまった。人材はすべて登録して採用し、良民を保護し、軍令も厳格であったから、どこでも犯罪は起さなかった。時に四川地方は大飢饉にあっており、十日あまりの間に李順のもとに投じるものが数万人にのぼり、李順の軍の向かう州県は、みな門を開いて歓迎し、檄文の伝わった先は、どこでも破られない軍塁はなかった。敗北するにおよんでも、人々はなお李順をしたった。だからこそ李順は脱出することができて三十余年も経ってやっと刑に服したのである。
※宋の太宗の淳化四〔993〕年二月に、茶や布の貿易を政府の手に握ろうとしたため四川の小工商業者は大きな打撃を受けた。茶商人の王小皤(本書の王小傳。王小波とも書かれる)と李順が「われ、貧富の均しからざるをにくむ。いま汝のためにこれを均しくせん」というスローガンをかかげて眉州〔びしゅう、四川省眉山〕に挙兵したところ貧苦に苦しんでいた四川の佃戸〔でんこ、農奴的小作人〕・中小商人・手工業者たちがぞくぞくと参加し、たちまち大規模な農民暴動となり、富豪の財産を没収しては貧民に分配していき、眉州彭山県知事をも殺した。同年十二月に王小皤は戦死したが、李順は翌五年の正月には成都を、二月には剣州〔四川省剣閣県〕を攻略して大蜀王をとなえた。李順が捕らえられたと伝えられたのは、同年五月、成都においてである。もちろんこれは本物の李順ではなく、その後もかれの仲間と言う張余なる人物が、嘉州〔嘉定〕、戎州〔宣賓〕、濾州、渝州〔巴県〕、涪州〔涪陵〕、忠州〔忠県〕、万州〔万県〕、開州〔開県〕と四川省南部、岷江および揚子江沿いの八州を攻略しており、翌至道元〔993〕年三月にやっとこの乱は平定されている。
※『宋史(卷五、本紀第五太宗二)』で述べているような逆賊としての王小波・李順の乱とは異なり、沈括が李順らの政策や軍紀の正しさを率直に記述して民衆の視点に至りえていることは注目に値する。
四川の民衆はこうした農民軍の英雄に対する愛情の情を歴史的に抱き続けてきたようで、Agnes Smedley〔アグネス スメドレー、1892~1950年〕は『偉大なる道』のなかで、「四川省北部の儀隴県の農家に生まれた朱徳が、子どもの頃機織職人から、太平天国軍なかでももっとも民衆ににんきのあった首領石達開〔せきたっかい、1831~1863年〕が成都で処刑されたあとにも多くのものが生きている石達開に会ったという話を聞いたと語ったことを伝えている。
蜀中劇賊李順、陷劍南、兩川、關右震動。朝廷以為憂。後王師破賊、梟李順、收復兩川、書功行賞、子無間言。至景祐中、有人告李順尚在廣州、巡檢使臣陳文璉捕得之、乃真李順也、年已七十餘。推驗明白、囚赴闕、覆按皆實。朝廷以平蜀將士功賞已行、不欲暴其事。但斬順、賞文璉二官、仍閣門祗候。文璉、泉州人、康定中老歸泉州、余尚識之。文璉家有《李順案款》、本末甚詳。順本味江王小博之妻弟、始王小博反於蜀中、不能撫其徒眾、乃推順為主。順初起、悉召鄉裏富人大姓、令具其家所有財粟、據其生齒足用之外、一切調發、大賑貧乏;錄用材能、存撫良善;號令嚴明、所至一無所犯。時兩蜀大饑、旬日之間、歸之者數萬人、所向州縣、開門延納、傳檄所至、無復完壘。及敗、人尚懷之。故順得脫去三十餘年、乃始就戮。
〔訳〕蜀〔四川〕の反徒李順が、剣南〔四川の成都地方〕を陥れたので、両川〔四川の東部と西部〕と関右〔四川の北隣陝西地方〕は大騒ぎとなり、朝廷も動揺した。のち官軍が反徒を破り、李順の首を切ってさらし、両川を平定して論功行賞を施したあとは、もう不安なうわさも立たなくなった。景祐年間〔宋、仁宗の年号、1034~38年〕になると、李順がなお広州州〔広東〕に生きていると密告するものがあらわれ、巡察使の陳文璉(ちんぶんれ)が捕えたところ、なんと本物の李順であった。年はすでに七十余歳、取り調べの結果も確かなので、都へ護送して再審したが全く間違いない。朝廷では、すでに四川の乱を平定した将士に論功行賞を施してしまっているので、事実を暴露するわけにもいかず、李順を斬り、陳文璉らを賞して乗輿供奉官にしただけであった。文璉は泉州〔福建〕の人で康定年間〔宋、仁宗の年号、1040~41年〕に年老いて泉州に帰ったが、わたしも知り合いの仲である。文璉の家に「李順案款(じけんきろく)」があって事の次第は非常に詳しい。李順は、もと味江の王小傳の妻の弟であった。王小傳が四川で反乱を起こしたものの、その仲間を掌握しきれなかったので、みなが李順を盟主に押したのである。李順は立ち上がるや、郷里の金持豪族をすっかり呼び集めて、すべての財産穀物を申し立てさせ、家族の暮らしている分だけを除いて、あとはそっくり徴発して貧乏人にふるまった。人材はすべて登録して採用し、良民を保護し、軍令も厳格であったから、どこでも犯罪は起さなかった。時に四川地方は大飢饉にあっており、十日あまりの間に李順のもとに投じるものが数万人にのぼり、李順の軍の向かう州県は、みな門を開いて歓迎し、檄文の伝わった先は、どこでも破られない軍塁はなかった。敗北するにおよんでも、人々はなお李順をしたった。だからこそ李順は脱出することができて三十余年も経ってやっと刑に服したのである。
※宋の太宗の淳化四〔993〕年二月に、茶や布の貿易を政府の手に握ろうとしたため四川の小工商業者は大きな打撃を受けた。茶商人の王小皤(本書の王小傳。王小波とも書かれる)と李順が「われ、貧富の均しからざるをにくむ。いま汝のためにこれを均しくせん」というスローガンをかかげて眉州〔びしゅう、四川省眉山〕に挙兵したところ貧苦に苦しんでいた四川の佃戸〔でんこ、農奴的小作人〕・中小商人・手工業者たちがぞくぞくと参加し、たちまち大規模な農民暴動となり、富豪の財産を没収しては貧民に分配していき、眉州彭山県知事をも殺した。同年十二月に王小皤は戦死したが、李順は翌五年の正月には成都を、二月には剣州〔四川省剣閣県〕を攻略して大蜀王をとなえた。李順が捕らえられたと伝えられたのは、同年五月、成都においてである。もちろんこれは本物の李順ではなく、その後もかれの仲間と言う張余なる人物が、嘉州〔嘉定〕、戎州〔宣賓〕、濾州、渝州〔巴県〕、涪州〔涪陵〕、忠州〔忠県〕、万州〔万県〕、開州〔開県〕と四川省南部、岷江および揚子江沿いの八州を攻略しており、翌至道元〔993〕年三月にやっとこの乱は平定されている。
※『宋史(卷五、本紀第五太宗二)』で述べているような逆賊としての王小波・李順の乱とは異なり、沈括が李順らの政策や軍紀の正しさを率直に記述して民衆の視点に至りえていることは注目に値する。
四川の民衆はこうした農民軍の英雄に対する愛情の情を歴史的に抱き続けてきたようで、Agnes Smedley〔アグネス スメドレー、1892~1950年〕は『偉大なる道』のなかで、「四川省北部の儀隴県の農家に生まれた朱徳が、子どもの頃機織職人から、太平天国軍なかでももっとも民衆ににんきのあった首領石達開〔せきたっかい、1831~1863年〕が成都で処刑されたあとにも多くのものが生きている石達開に会ったという話を聞いたと語ったことを伝えている。
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