瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

 塾友K.Sato氏の母上が亡くなられたとの訃報をM.Nagata氏より受けました。家族葬とのことで、あまり派手なことは避けたいとのこと、ごく近い有志12名で献花をするということでした。詳しい事はわかりませんが、いずれにしても私の年齢と近い世代の知人の死に唯々冥福を捧げるばかりです。
 昨夜、KS氏より電話を戴き、丁重な献花のお礼がありました。MN氏とごく少数の年齢の近い連中で葬儀に参加したらしく、今朝MN氏より写真付きのメールが入りました。曰く、
4月22日 22時14分着信  題 光士からお礼の件
 皆さま夜分にすみません。 光士のご母堂の葬儀も無事に終わりお礼の連絡がありました 。皆さまに直接お礼の連絡をしたいと言っておりますので連絡先(携帯)を伝えました。 連絡があるとおもいますので、宜しくお願いいたします。 Mitsuhiro


 昨日のブログで、「てんてんてんまり てん手まり」の歌い出しで愛唱される日本の童謡、『まりと殿さま(毬と殿様)』が、紀州の殿様の参勤交代に纏わる、残酷な内容を持っていることを述べましたが、日本の昔からのわらべ歌や童謡の中にはこのようにおぞましい内容が隠されているものが沢山あるようです。
 ずいずいずっころばし
 『ずいずいずっころばし ごまみそずい  茶壺に追われて とっぴんしゃん  抜けたら、どんどこしょ  俵のねずみが 米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう  おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、行きっこなしよ  井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ』
 意味:胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。
 「ずいずいずっころばし」は、古くから日本に伝わる童謡で、手遊び歌として知られ、その遊戯をもいいます。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、不純異性交遊を表す戯歌とも言われています。


 
https://www.youtube.com/watch?v=nm_LPrzgEqM

 通りゃんせ
 『通りゃんせ 通りゃんせ  ここはどこの 細道じゃ  天神さまの 細道じゃ  ちっと通して 下しゃんせ  御用のないもの 通しゃせぬ  この子の七つの お祝いに  お札を納めに まいります  行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも  通りゃんせ 通りゃんせ』
 意味:通りなさい、通りなさい。 ここは、どこの細道ですか? 天神様の細道ですよ。ちょっと通して下さいませんか? 御用の無い者は、通しはしません。 この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。 行きは良いですが、帰りは困難です。 困難ですが、通りなさい、通りなさい。
 「通りゃんせ」は、江戸時代に歌詞が成立したと見られる作詞者不明のわらべ歌ということです。一般に歌われているものは本居長世編・作曲で、作詞はあるいは、野口雨情作とも伝えられています(1920年頃収録レコードに作者として記載されています)。
 川越にある三芳野神社は、子供時代に口ずさんだ、わらべ唄「とうりゃんせ」発祥の地と云われています。不作や天変地異を起こす天神様の怒りを鎮める為、子供を生贄として捧げる唄とも云われています。目の前にある川越城の七不思議の1つに人身御供の話が、あります。七つ釜と云われる沼地のため、地盤がとても悪く、川越城の建設は難航し、そのため、子供を人柱として神に捧げ、完成させたそうです。この唄の「行きはよいよい 帰りはこわい」の歌詞は、いいことがあると騙されて連れてこられ、神に捧げられた子供は、人柱として殺されて、二度と帰っては来ないと云う意味のようです。
 日本の神様は、八百万(やおよろず)の神と云われるように様々な神がいます。祭りや神輿に乗せて満足する神がいる反面、生贄を望む恐ろしい神がいても何ら不思議ではありません。

https://www.youtube.com/watch?v=Cq4G5ku_r0w


 


 てるてる坊主
 『(1番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
  (2番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
  (3番)てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ  それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ』作詞・浅原鏡村  作曲・中山晋平
 てるてる坊主で晴れを祈る風習は、平安時代に中国から伝わったのだそうです。ただし中国では「坊主」ではなく、箒を持った女の子・・・『晴娘』という名の少女にまつわる伝説がその起源といわれています。
 日本では、天候の祈祷をする僧侶に因んで「坊主」になったのでは、といわれています。「てるてる坊主の頭の中身」にまつわる、ちょっと閲覧注意?な伝説も・・・。
 昔、降り続く雨に困っていると、ひとりのお坊さんがやって来ました。お経を唱えてもらえば必ず晴れることで有名なのだといいます。そこで殿様の前でお経を唱えてもらいましたが、次の日も雨は降り止みませんでした。罰として、お坊さんは首をはねられてしまいます。その首を白い布で包んで吊るしたところ、次の日はよく晴れました。これがてるてる坊主の始まり、なのだそうです。

https://www.youtube.com/watch?v=Wi1kcHsIC2U


 かごめかごめ(地方により歌詞が異なる)
 『・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)
・籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?
・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?』
 なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れます。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていません。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていません。
 この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈があります。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難です。また、この歌の発祥の地についても正確な所不詳です。
姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがあります。
 元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典などが採用):籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。
遊女説(提唱者不明):一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。
日光東照宮説(提唱者不明。埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている):日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。
豊國廟説(宮本健次など):正面とは京都の豊国神社周辺(現在の正面通り)を指し、徳川家康を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。
芦名埋蔵金説(提唱者不明):「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。
陰謀説(提唱者不明):「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。
囚人説(提唱者不明):かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
明智光秀・南光坊天海同一人物説(岩辺晃三):南光坊天海の正体が、山崎の戦いに敗れた後も生き延びた明智光秀であることを示唆しているとする説[9]。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に敦賀と亀岡の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。
神示説(提唱者不明):「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

https://www.youtube.com/watch?v=j4vPvzX9PMM


 


雨降りお月さん
 『雨降りお月さん 雲の蔭  お嫁にゆくときゃ誰とゆく  一人で傘 さしてゆく  傘ないときゃ 誰とゆく  シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた  お馬にゆられて ぬれてゆく
  いそがにゃお馬よ 夜が明けよう  手綱の下から チョイと見たりゃ  お袖でお顔を かくしてる  お袖は濡れても 乾しゃ乾く  雨降りお月さん 雲の蔭  お馬にゆられて ぬれてゆく』
 なぜ花嫁が一人で雨の中、傘をさしてお嫁にいくのかの意味がよくわかりません。一説によると、花嫁は死んでしまった娘のことで天国に一人で旅だつ様子を描いているというものがあります。
 雨情の孫、野口不二子さんによると、雨情夫人ひろから興入れの日は雨が降っていて、栃木県塩谷郡喜連川(きつれがわ)から馬で2日もかかって来たという話しを聞かされていたそうです。当時この辺りのしきたりでは、花嫁は馬に乗って婚家に嫁ぎ、花婿や村人たちは、家の前で行列を迎えたそうです。ひろも、しきたり通りに馬に乗って野口家に嫁ぎました。しかし、その日は、あいにくの雨でした・・・ 迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずしました。これが、2人の初めての対面でした。この詩はそのときのことを歌ったものだそうです。
  お嫁さんは、新しい生活への希望に満ちて、凛として馬に乗って嫁いできたことからこの詩は、雨の中を、遠く長い道のりを濡れながらやってきた花嫁に対するねぎらいの思いを歌ったものなのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=21JW-j5JJdc


 


千載集(964)の周防内侍の歌の詞書
 二月ばかり月明き夜 二条院にて人人あまた居明して物語りなどし侍りけるに 内侍周防寄り臥して 枕をがなと 忍びやかに言ふを聞きて 大納言忠家これを枕にとて腕を御簾の下より差し入れて侍りければ よみ侍りける
   春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ


https://trendtube.wdeco.jp/playlist/?query
現代語訳
 夜更けまで人々が話しなどしている時に、内侍周防が物に寄りかかって横になっていました。周防が、ふと「枕が欲しいわ」とつぶやきました。耳にした藤原忠家が、「これを枕に」と自分の腕を御簾の下から差し入れてきました。それに対して詠んだ歌。
    春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。
※周防の返事は「他人の噂になるような遊びに乗るつもりはありませんよ」 という、洒落た断り文句。大納言忠家は、藤原俊成の祖父にあたる高位の貴族です。地方役人の娘である周防とは身分が違います。あきらかに遊びで声を掛けてきたを分かる男へ、即興の歌ではぐらかします。“春の夜の夢”は、実際の“2月(春)の夜”と、“はかない実現性の無い夢”という意味を持たせています。“かいなく”は、“甲斐がない(それほどの値打ちもない)”と、差し出された“腕(かいな)”を掛けています。技巧を駆使した見事な句に、忠家は、こう返します。
    契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき
   (前世からの契りがあったので、春の夜更けにわたしたちはこうしてここにいます。御簾深く差し入れた手枕を、ただの春の夢にしてしまうのは、もったいないじゃないですか?)
 無理矢理に関係を持たせようとするときの口説き文句です。“春の夜”や“かひなき”、“夢”など、周防の歌の句を使ったこちらも、技巧派の歌で返しています。雅な大人の恋の駆け引きでしょう。


 


ウェブニュースより
 稀勢 第72代横綱へ 25日に正式決定、19年ぶりの日本出身横綱誕生 ―― 「大相撲初場所・千秋楽」(22日、両国国技館)
 14日目に初優勝を決めた大関稀勢の里(30)=田子ノ浦=が横綱白鵬(31)=宮城野=をすくい投げで破って14勝1敗とし、初の天皇賜杯を手にした。取組後には、審判部が八角理事長(元横綱北勝海)に横綱昇進を審議する臨時理事会の招集を要請。23日の横綱審議委員会(横審)の推挙を経て、25日の春場所番付編成会議と理事会で正式に1998年の三代目若乃花以来、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。

 千秋楽、取組がすべて終わっても館内は熱気に包まれていた。待ちに待った優勝インタビュー。稀勢の里が登場すると、万雷の拍手と歓声がこだました。
 「ずいぶん長くなったけれど、いろんな人の支えがあって、ここまで来られた」と万感の思いを口にした。そして、両親が見ている前で勝った、と問われると、もう涙腺は耐えられなかった。「最後は必死になって残して…はい…」と、おえつ交じり。「一日一番という気持ちでやった結果」と男泣きしながら言葉を絞り出した。
 前日に悲願の初優勝を果たしても、気持ちを切らさなかった。「壁になる」と宣言した気合十分の白鵬が立ち合いからど迫力で突進してきた。左を差され、ぐいぐい押され俵に足がかかった。絶体絶命のピンチから代名詞の左のおっつけで相手を起こした。そのまま左を差して、大逆転の投げを豪快に決めた。
 常に優勝を阻まれてきた宿敵を直接対決で撃破。「気持ちだけ引き締めていきました。これから自信になります。自分一人の力じゃない。我慢して腐らずできて本当に良かった」とかみ締めた。


 自己最多となる大きな14勝目。「誰かに支えられている気がした」。踏ん張り切れた土俵際に、先代師匠の故鳴戸親方(元横綱隆の里)を思う。相撲も礼儀も、すべてを教わった角界の父に捧げる有終星には言葉にはできない感慨がある。
 11年11月。師の急逝に25歳関脇だった愛弟子は人目をはばからずに泣いた。中学2年の夏、中学校の担任にも告げずに鳴戸部屋の稽古を見学。「一番、稽古が厳しい部屋に」と荒波に飛び込んだ。
 指導は想像以上だった。部屋の力士一人が部屋のルールを破れば連帯責任で夜中でも正座を命じられた。テレビ出演の依頼を受けたが、白鵬と控室が同じだったため「仲良しこよしじゃ駄目だ」と出演は許されなかった。
 勝負の世界の厳しさを徹底的にたたき込んでくれた師匠。遅咲きで「おしん横綱」と呼ばれた。師匠が30歳9カ月、自身は師匠に次ぐ史上4位、30歳6カ月の年長で横綱昇進となることは確実だ。部屋に戻ると遺影の前で正座をし、手を合わせて思いを伝えた。
 審判部の二所ノ関部長(元大関若嶋津)は13勝でも「昇進相当」としていたが異論なしの14勝目。取組後、八角理事長に臨時理事会の招集を要請した。25日に、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。来場所からは17年ぶりの4横綱時代となる。
 「賜杯?言葉にならない」と喜びに浸りながら、自らの力に満足はない。「まだまだ物足りない部分があるし、強くなれる。これで終わりじゃない」。新入幕から73場所での昇進は史上最も遅い。「平成のおしん横綱」ははや先の戦いを見据えた。

「栄花物語」月の宴
 ただ今の摂政太政大臣にては、基経の大臣(おとど)の御子、四郎忠平の大臣、帝の叔父にて、世を政(まつりごち)ておはす。その大臣の御子五人ぞおはしける。太郎は今の左大臣にて、実頼と聞こえて、小野宮と言ふ所に住み給ふ。次郎は右大臣にて、師輔の大臣、九条と言ふ所に住み給ふ。三郎の御有様おぼつかなし。四郎師氏(もろうぢ)と聞こえける、大納言までなり給ひける。五郎師尹(もろただ)の左大臣と聞こえて、小一条と言ふ所に住み給ふ。
 さればただ今は、この太政大臣の御子ども、やがていとやむごとなき殿ばらにておはす。この殿ばら皆各々御子ども様々にておはする中に、九条の師輔の大臣、いとたたはしくおはして、数多の北の方の御腹に、男十一人、女六人ぞおはしける。小野宮の左大臣殿は、男三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり、一所は宮腹の具にておはす。差し次は女御にておはしけり。次々様々にておはす。小一条の師尹の大臣、男子二人、女一所ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり。
現代語訳
 この時の摂政太政大臣は、基経大臣(藤原基経)の子、四男忠平大臣(藤原忠平)でした、帝(第六十二代村上天皇)の叔父でしたので、世を治めました。忠平大臣には男子が五人いました。長男は今の左大臣で、実頼(藤原実頼。摂政関白太政大臣)と申して、小野宮(現京都市中京区。地下東西線丸田町近く)という所に住みました。次男は右大臣で、師輔大臣(藤原師輔)、九条という所に住みました。三男(藤原師保もろやす)のことはよく知りません(出家したらしい)。四男は師氏(藤原師氏)と申して、大納言までなりました。五男は師尹左大臣(藤原師尹)と申して、小一条という所に住みました。
 こうして今では、この太政大臣(藤原忠平ただひら)の子たちは、次第に身分高くなりました。この殿たちには皆それぞれ子が多くいましたが、九条師輔大臣(藤原師輔)には、たいそう多く子がありました、多くの北の方の腹に、男十一人(十二人、一人は僧)、女は六人いました。小野宮左大臣殿(藤原実頼さねより)には、男が三人ほどいました。女君もいました、一人は宮腹(源高明たかあきら。第六十代醍醐天皇の第十皇子)の妻でした。差し次([すぐ次])は女御(三女、藤原述子。第六十二代村上天皇女御)でした。次々それぞれでした。小一条師尹大臣(藤原師尹)には、男の子二人、娘が一人いました。男子一人(藤原定時さだとき)は、若くして亡くなりました。

大鏡 藤原忠平 貞信公
 この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
 つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
,世継*}『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
 この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
{*《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。

現代語訳
 このおとどは、基経のおとどの四男でございます。御母は、本院大臣時平殿、枇杷大臣仲平殿と同じです。この忠平殿は、延長八年(930)九月一日摂政、天慶四年(941)十一月関白宣旨をお受けなさいました。公卿にて四十二年、大臣の位にて三十二年、世をお治めになること二十年でございます。後の御いみなは貞信公と申しあげました。小一条大臣と申し上げます。また、朱雀院、村上天皇の御伯父であられます。この殿のご子息は五人。殿が太政大臣の位にあられた時、ご長男の実頼殿は左大臣にて、小野宮と申し上げます。次男の右大臣師輔殿は、九条殿と申し上げました。四男の師氏殿は大納言でいらっしゃいました。五男は、後に左大臣になられたのですが、師尹のおとどで、小一条殿と申し上げました。この四人の君達が、左右大臣、納言などに続いていらっしゃったことは、大変に素晴らしいご栄華でございますね。ご長女は、先坊の御息所でいらっしゃいました。
 実頼、師輔、師尹の三人の大臣が小一条に参上なさるために、小一条の南、勘解由小路には石畳が造られたのです。それは、未だに残ってございます。宗像の明神がお邸においでになったために、大臣方は東洞院と小代の辻より車を降りられたので、石畳は雨などが降る日のためだとお聞きしました。おおよそ、その一町に人々は参りませんでした。今は身分の低い者も車や馬に乗ってみしみしと通りますので、昔の名残を畏れ多く拝見いたします。私などは、今も、並々のことではそこを通りません。今日ここに参りましたが、腰が痛みましたので、仕方なくそこを通って参りました。それでも、石畳をよけて歩きました。南の端のたいそうひどいぬかるみを踏んでしまいましたので、汚い着物が更にこのようになってしまいました。皆さんにもお見せしましょう。さて、「先祖の御物は何でも欲しいものだが、小一条だけはそうでもない。人は子を産み、また死んでいくために家という物が必要だが、神が居られるためにそのような時に他へ移らなければならない邸は、どうにもならない。また、おおよそ、普段から気が緩むことがなくて、畏れ多い」とただいまの入道道長殿は仰られたのですな。全く、その通りでございます。この忠平殿には宗像の明神が現実に物など申し上げなさったそうです。「私より忠平殿の御位が高くいらっしゃるのは、差し支えがある」と申し上げられたので、それはとても不都合なことだと、神の御位をお上げになられました。
 何時というのは憶えておりませんが、思うに醍醐か朱雀院の御時でありましょう、忠平殿が宣旨をお受けになって、それを執り行うために陣座の方へいらっしゃる途中、南殿の御帳台の後ろ辺りを通られました。なにやら気配がして、忠平殿の御太刀のいしづきが捉えられました。とても変に思ってお探りになると、むくむくと毛むくじゃらで、爪は長い刀の刃のような手でありました。「鬼であるぞ」と大変恐ろしく思われましたが、臆した様子を見せまいとお念じになり、「帝の宣旨を承って定に参上する人を捉えるのは何者か。放さないなら、怒るぞ」と言って、御太刀を引き抜いて、その手を捉えましたところ、鬼は慌てて手を放して、丑寅の隅の方へ行ってしまいました。思うに、夜のことでありましょう。
 他の殿のことよりも、この忠平殿のことを申し上げるのは、畏れ多くもあり、またしみじみと思い出深いものでございますな。
 世継はそういうと、鳴き声になり、鼻を度々かんだ。
 どうしたことでございましょうか、忠平殿は七ヶ月でお生まれになられたと人々は申し伝えております。天暦三年(949)八月十一日にお亡くなりになりました。正一位が贈られました。御歳、七十一でございます。


 


ウェブニュースより
【全文】トランプ大統領就任演説「今日、この日から、アメリカ第一のみ」――第45代のアメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプ氏は120日(現地時間)、ワシントンで就任式に臨み、就任演説をした。全文は以下の通り。


 
 ジョン・ロバーツ連邦最高裁判所長官、カーター大統領、クリントン大統領、ブッシュ大統領、オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、そして、世界中の皆さん、ありがとうございます。
 私たちアメリカ国民は今、素晴らしい国家的な努力に参加し、国を再建して、すべての人のために約束を果たします。私たちは共に、アメリカの、そして、世界の歩む道を決めるのです。これから歩む長い道です。私たちは課題に直面するでしょう。さまざなま困難にも直面するでしょう。しかし、その仕事をやり遂げます。
 4年ごとに、私たちはこうした道のりのために集まり、秩序だって速やかに政権を移行します。この政権移行を快く支えてくれたオバマ大統領とミシェル・オバマ大統領夫人に感謝します。素晴らしい人たちです。ありがとうございます。
 本日の式典には、とても特別な意味があります。なぜなら、ひとつの政権から別の政権へ、または、ひとつの政党から別の政党へ、単なる政権交代をしているわけではなく、ワシントンD.C.から国民である皆さんへ、政権を取り戻しているからです。
 あまりにも長い間、ワシントンにいる一部の人たちだけが、政府から利益や恩恵を受けてきました。その代償を払ったのは国民です。ワシントンは繁栄しましたが、国民はその富を共有できませんでした。政治家は潤いましたが、職は失われ、工場は閉鎖されました。権力層は自分たちを守りましたが、アメリカ市民を守りませんでした。彼らの勝利は、皆さんの勝利ではありませんでした。彼らは首都ワシントンで祝福しましたが、アメリカ全土で苦しんでいる家族への祝福は、ほとんどありませんでした。
 すべての変革は、この場所から始まります。今、ここで始まっているのです。なぜなら、この瞬間は皆さんの瞬間だからです。皆さんのものです。今日、ここに集まっている皆さん、アメリカ中でこれを見ている皆さんのものです。今日という日は、皆さんの1日なのです。これは皆さんの式典です。そして、このアメリカ合衆国は、皆さんの国なのです。
 本当に大切なことは、どの党が政権を握るかということではなく、政府が国民により統治されることです。2017年1月20日は、国民がこの国の治める日として、これからずっと記憶に刻まれるでしょう。この国の忘れ去られた人々は、もう忘れ去られることはありません。誰もが皆さんに耳を傾けています。何千万の人々が、歴史的な運動に参加しています。
 今まで世界が見たことのない動きが起きています。この動向の中心にあるのは、とても強い信念です。それは、国は国民に奉仕するために存在しているということです。アメリカ国民は、子供たちのために素晴らしい学校を望んでいます。また、家族のために安全を、自分自身のために良い仕事を望んでいます。正しい人々、そして、正しい国民がそう望むのは正当で、当然のことです。
 しかし、多くの市民には、異なる現実が存在しています。母親と子供は都市部で貧困に苦しみ、工場は錆びき、アメリカ中に墓石のごとく散らばっています。教育は高額で、若く輝かしい生徒たちは、知識を習得できていません。犯罪、ギャング、麻薬があまりにも多くの命を奪い、花開くことのない可能性をこの国から奪っています。
 こうしたアメリカの殺戮は、今ここで終わります。今、ここでです。
 私たちはひとつの国家であり、彼らの痛みは、私たちの痛みです。彼らの夢は、私たちの夢です。そして、彼らの成功は、私たちの成功です。私たちは、ひとつの心、ひとつの故郷、ひとつの輝きに満ちた運命を共有しています。今日、私がした就任の誓いは、すべてのアメリカ国民の忠誠の誓いです。
 何十年もの間、私たちはアメリカの産業を犠牲にし、外国の産業を豊かにしてきました。他の国々の軍隊を援助してきました。一方で、アメリカの軍隊は、悲しくも枯渇しています。私たちは他の国の国境を守っていますが、自分たちの国境を守るのを拒んでいます。海外に数兆ドルを投資しましたが、アメリカのインフラは絶望に陥り、腐っています。他の国々を豊かにしましたが、自国の富、力、自信は、地平線のかなたへ消えて行きました。ひとつずつ、工場が閉鎖され、この国を去りました。数百万人のアメリカ人労働者が置き去りになることなど考えもしないで、そうしたのです。中間層の富が、その家庭から奪われ、世界中に再分配されました。
 しかし、それは過去です。今、私たちは未来だけを見据えています。私たちは今日、ここに集まり、新しい決意を発し、すべての街、すべての外国の首都、すべての政権にそれを響かせます。今日、この日から始まります。新しいビジョンがアメリカを治めるでしょう。今日、この日から、アメリカ第一のみになります。アメリカ第一です。
 貿易、税金、移民、外交についてのすべての決定は、アメリカの労働者と家族の利益のために下されます。他国の暴挙から国境を守らなければなりません。彼らは私たちの商品を生産し、私たちの会社を盗み、私たちの仕事を破壊しています。保護こそが偉大な繁栄と力に繋がるのです。
 私は全力で皆さんのために戦います。決して失望させません。アメリカは再び勝利します。これまでにない勝利です。雇用を取り戻し、国境を回復し、富を取り戻し、そして、夢を取り戻します。このすばらしい国の隅々に新しい道路、橋、空港、トンネル、鉄道を建設します。生活保護を受けている人たちに仕事を与え、アメリカの労働者の手と力で国を再建します。
 私たちは2つの単純なルールに従います。アメリカ製の商品を買い、アメリカ人を雇うことです。世界の国々と友好的な善意の関係を築きますが、すべての国には自国の利益を優先させる権利があることを理解した上で、そうします。私たちは自分たちの生き方をすべての人に押し付けることはしませんが、模範として輝やかせたいと思っています。私たちはすべての人が追随するような輝きを放つでしょう。私たちは古い同盟関係を強化し、新たなものを形づくります。イスラム過激派のテロに対し世界を結束させ、地球上から完全に根絶させます。
 私たちの政治の基盤は、アメリカ合衆国への完全な忠誠心です。国への忠誠を通し、私たちはお互いへの忠誠を再発見するでしょう。愛国心に心を開けば、偏見など持たないはずです。聖書はこう教えています。神の民が一体となって暮らすのは、何と素晴らしく喜ばしいことでしょう、と。私たちは隠さずに思っていることを語り、相違について討論しますが、いつも団結を求めなければなりません。アメリカが団結すれば、誰もアメリカを止めることはできません。
 恐れることはありません。私たちは守られています。そして、私たちはこの先も守られるでしょう。私たちは軍や法執行機関の素晴らしい人たちに守られるています。そして、最も大切なのは、神により守られていることです。
 最後に、私たちは大きく考え、さらに大きな夢をみなければなりません。アメリカで、私たちは分かっていると思うのですが、国家は、努力してこそ存続するのです。口ばかりで行動が伴わない政治家をこれ以上受け入れることはできません。彼らは文句ばかり言って、何もしていません。意味のないお喋りは終わりを迎える時です。今、行動の時が来ています。それはできない、と言うのはやめましょう。どんな課題も、心を開き、戦い、アメリカの精神を持てば、乗り越えられます。失敗することはありません。私たちの国は再び繁栄し、栄えるでしょう。
 私たちは、新しい時代の誕生に立ち会っています。宇宙の神秘を解き明かし、地球上から病気の苦しみを失くし、未来の産業とテクノロジーを利用する準備をしています。新しいアメリカの誇りは、私たちの魂を揺さぶり、視野を高め、分断を埋めるでしょう。今こそ、思い出す時です。兵士が永遠に心に刻む知恵です。黒い肌、褐色の肌、白い肌、誰であろうと、同じ愛国心の赤い血が流れています。私たちは同じ輝かしい自由を享受しています。みんな同じ偉大な星条旗に忠誠を誓っているのです。子供がデトロイトの都市部で生まれようと、ネブラスカの風の吹く平原で生まれようと、同じ夜空を見上げ、同じ夢を心に抱き、同じ全知全能の創造主によって生命の息吹が吹き込まれます。
 ですから、アメリカ国民の皆さん、すべての街に住んでいる市民の皆さん、それが近くても、遠くても、小さくても、大きくても、山から山まで、海から海まで、この言葉を聞いてください。皆さんは再び無視されることは決してありません。皆さんの声、希望、夢が、アメリカの歩む道を決めるのです。そして、皆さんの勇気、善意、愛が、その道を永遠に照らすのです。
 一致団結して、私たちはアメリカを再び強い国にします。アメリカを再び富める国にします。アメリカを再び誇り高い国にします。アメリカを再び安全な国にします。そうです。ともに力を合わせ、アメリカを再び偉大な国にします。ありがとうございます。皆さんに神の祝福がありますように。そして、アメリカに神の祝福がありますように。ありがとうございます。アメリカに神の祝福あれ。 The Huffington Post  |  執筆者:吉野太一郎 メール投稿日: 2017年01月21日 11時34分 JST 更新: 2017年01月21日 11時34分 JST

大和物語 九十一
 三条の右のおとど、中将にいますかりける時、祭の使にさされていでたまうけり。
 かよひたまひける女の、絶えてひさしくなりにけるに、「かかることなむいでたつ。扇もたるべかりける、ひとつたまへ」といひやりたまへりけり。
 よしある女なりければ、よくておこせてむとおもふたまひけるに、色などもいときよらなる扇の、香などもいとかうばしうておこせたり。ひきかへしたる裏の端の方にかきたりける。
  ゆゆしとていむとも今はかひもあらじうきをばこれにおもひよせてむ
とあるをみていとあはれとおぼして、返し、
  ゆゆしとて忌みけるものをわが為になしといはぬは誰がつらきなり
※三条の右のおとど=藤原定方。内大臣藤原高藤の子。平安中期の歌人。官は従二位、右大臣に至り、三条の右大臣と呼ばれる。
現代語訳
 三条の大臣こと藤原定方様が、中将でいらっしゃった時に、賀茂の祭りの奉幣の勅使に指名されて出かけなさいました。
 夫として通っておられた女が、定方様の訪問が途絶えてひさしくなってしまった時に、定方様が「このたびこのような事態が起きて出発します。扇を持っておられたはずだから、一つください」と言っておやりになりました。
 由緒ある家柄のしっかりした女だったので、きっとうまく用意して寄越すだろうと思っておられたところ、色彩なども非常に綺麗な扇で、香などをたきしめて香りなども非常によい状態にして寄越しました。その扇の裏返した端のほうに書きつけてあった歌、
  祭りが終わればすぐ用済みになるのが不吉だからといって、贈るのを避けたとしても、結婚してすぐ用済みになったようにあなたに捨てられた私には、いまさらなんの甲斐もないでしょう。せめてこの扇に恨みつらみの思いをこめた歌を書いてあなたに贈りましょう。
と書いてあるのを見て、ひじょうに済まなかったとお感じになって、そこで作った返歌
  不吉だといって避けていた扇を、わたしのために「そんなもの無いわ」と言わないで、わたしのところにその不吉なものを贈って寄越すのは、いったい誰が冷淡なのだろう。(あなたのほうこそ、私に対して冷たいのじゃありませんか?)


 漢字は機械的に教えられるものではありません。覚えるものであり、悟るものです。言葉は文章の中に作品の中にあるものです。その息吹のままその語を捉えることです。文字だけを切り離して教えようとするのは、暗号を覚えさせるのと同じで、初めから無理な話なのです。
 漢字記憶法とか漢字教育法などというもので問題を解決しうると考えるのは基本的には誤りなのであります。記憶法とか教育法とかいうものには便宜的なものが多いのです。
 親=立木のそばで見まもる親 放=木の枝で向こう方へ追っ払う 原=がけ下の泉が原っぱに流れる 配=酒つぼが割れないか心配 字=家で子どもが字を書く 安=家の中の女は安全 切=刀で七つに切る 和=禾(米)を食べられる平和な時代 知=知ったことを矢つぎばやにいう
 これらは学業不振児のために作られたものといいますが、どれも便宜的な説法にすぎません。便宜的な説法ならばなるべくなるべく字形解釈に触れない形式のほうがまだしもと思われます。
 業=タテタテチョンチョン、ヨコチョンチョン、ヨコヨコヨコのタテチョンチョン 寒=ウサンタテタテハッチョンチョン
 また、分解的方法では 朝=十月十日 壽=士のフエは一吋(インチ) のように覚えます。いわゆる離合です。
 江戸期には先日のブログで述べたように「歌字尽(うたじづくし)」のようなものが行われましたが、この方法は新しく試みられることもあります。
 尸部の 尾、尻、尿、屍、屁 「毛は尾にて 九は尻(しり)なれば 水尿(いばり) 死ねば屍(かばね)ぞ 比ぶるは屁ぞ」
 攵部の 政、故、救、改   「正しきは 政(まつりごと)なり 古き故 救(すくひ)求めて 己(おのれ)改たむる」

 正しい字説を児童に理解させるのは困難なことです。しかし字を覚えさせるために、誤りを教えてもよいという道理はありません。
 白川静先生は「正しい字形教育を阻害しているのは、ほかならぬあの新字表である」と仰っています。
 
 たとえば、「器」「臭」「戻」「突」「類」の「大」の部分は元「犬」でした。「大」よりも「犬」の方が、成り立ちがよく分かります。
 器:口が4つ + 犬
   口はさまざまな容器を表す。犬は種類の多いものの代表として加えた。
   儀式に使ういろいろな器を並べたさま。犬は器を清めるための犠牲の犬。 (白川説)
 臭:自 + 犬
   自は鼻の形。犬の鼻は臭いをよく嗅ぎ分ける。
 戻:戸 + 犬
   暴犬が戸内に閉じ込められ暴れるさま→逆らう、もどる。
   玄関の下に悪霊よけのために埋められた犬。悪霊を追い返す→もどす。 (白川説)


 突:穴 + 犬
   穴の中から急に犬がとび出すさま→つく。
   かまどの穴に犠牲の犬を供えるさま。かまどから煙を出すための煙突→つきでる、つく。 (白川説)
 類:米 + 犬 + 頁
   米は、たくさんの植物の代表。犬は、種類の多い動物の代表。頁は、あたま。多くのものの頭かずをそろえて、区わけすることをあらわす。
   頁は、儀礼のときの衣冠を整えた姿。米と犬の犠牲を供え、礼装して拝む形。常例の祭りににせた臨時の祭礼→にせる、るいする。 (白川説)
 白川説の大きな特徴は、犬を儀式の犠牲としている所であります。事実、古代中国の遺跡からは、犠牲に捧げられた犬の骨が多く見つかっています。

 白川氏は著書「常用字解」の中で、「犬」が「大」になったことについて、次のように仰っています。
 「今の常用漢字の字形は、犬を大に変えて臭としているが、臭は大きな鼻の意味となり、においという意味にはならない。ほかにも、常用漢字では器、突、類、戻としているが、伏、就は大に変えていない。常用漢字の字形には、このように字の構造や意味を理解できないように変えてしまっている場合がある。」
 

 シェークスピアといえば、爺が小学6年生の時に使用した国定教科書「小学国語読本 尋常科用巻十二」に『リヤ王』という題で、小学生向けにハッピーエンドに変更されて掲載されていました。少し長くなりますが、国定教科書復刻版から転写しておきましょう。爺がこの教科書を用いたのは1943(昭和18)年の事でありますから、表記は旧(歴史的)仮名遣い、漢字も旧字体です。
 


リヤ王
       (一)
    リヤ王は、三人の娘、娘のむこ、重臣などを面前に呼んで言渡す。
リヤ王「予も大分高齢になったによって、以来めんだうな政治の事は若い者たちに任せ、身輕になって老後を送りたいと思ふ。そこで、今日は、我が王国を三分して、三人の娘たちに與へることとする。(臣下に)地図を持て。
 さて、娘ども。そなたたちの中で、誰が一番此のわしを大事に思つてくれるか、それを、そなたたちの口から聞きたい。其の上で、一番孝行の心ある者に、最大の恩恵を與へるであらう。先づ、姉のゴナリルから申せ。
ゴナリル「父上、私は口で申すことの出来ます以上に、父上を尊敬も致し、おいとしくも思ひます。此の世にある何よりも、どんな尊い寶よりも、いや、私自身の命よりも、父上を大切と存じます。この世に生まれたどんな孝行の子にもまして、眞心を父上に捧げます。
リヤ王「うむ。(地圖を指して)では、此の線から此の線までを、そなたに與へる。茂った森林、豊かな平野、魚に富む川、廣い牧場のある此の領域の領主と、そなたをするのだ。さて、二番娘のリガンは。
リガン「私の心持は、姉上と全く同じでございます。姉上は、私の思ってゐる通りをおつしゃいました。たゞほんの少しおつしやり足らぬところが違ひますだけで、私は、あらゆる幸福、一切の楽しみを犠牲にしましても、父上お一人にお仕へ申すのを仕合はせと存じます。
リヤ王「では、これがそなたの領地ぢや。廣さにおいても、値うちにおいても、決して姉のに劣りはせぬぞ。さあ、いとしい末のコーデリヤは何とだ。
コーデリヤ「あゝ、何と申し上げたものか、口先だけでは実行の伴なはない事は、私には申し上げられない。父上、私にはなんにも申し上げることがございませぬ。
リヤ王「なんにも。
コーデリヤ「はい。
リヤ王「なんにもない所からは、なんにも生まれぬぞ。改めて申せ。
コーデリヤ「私は、此の心にあることを口に出して言へないのでございます。私は、あなたを父上として大切に致すつもりでございます。
リヤ王「コーデリヤ、言方をつくろはぬと、身のためにならぬぞ。
コーデリヤ「父上のお言附けをまもります。子としての勤もいたします。
リヤ王「あいきやうのない言葉ぢゃ。たつたそれだけか。
コーデリヤ「………
リヤ王「それは本心で言ふのか。
コーデリヤ「はい。眞實でございます。眞實よりほかに、私は何もございませぬ。
リヤ王「勝手にしろ。其の眞實だけを持参金にして、どこへでも嫁入るがよい。残りの三分の一は、改めて長女と次女とにわけ與へる。
重臣「あ、もうし、それはあんまりではございませぬか。
リヤ王「弓は引きしぼつてある。矢先を避けろ。
重臣「私は謹んで申し上げます。末姫様は、決して御不孝なお方ではございませぬ。若し私の此の判断があやまつてをりますなら、どうぞ私の首をお召くださいませ。
リヤ王「いや、くどい、くどい、もう言ふな。さて、かう領地を二分して二人の娘に與へるからには、予は今後百人だけの家来をつれ、月代りに姉娘・妹娘の許へ参って、餘生を送ることにする。
(フランス王に)大王、末娘とのかねての婚約、あなたはそれをお果しになるおつもりか。御覧の通り、一切持参金なしの乞食同然、如何やうになされようと、あなた次第でござるが――。
フランス王「私は持参金と婚約は致しませぬ。コーデリヤどのの尊い眞實を寶に、どこまでも妃と致します。
リヤ王「よいやうになされ。娘は勘当でござるぞ。
フランス王「承知いたしました。
       (二)
     リヤ王、家来たちと狩から帰る。ゴナリルの召使に、
リヤ王「少しも待てぬ。早速食事の支度をしろと言へ。いや、もうすつかり疲れた。食事だ、食事だ。
     ゴナリル、むづかしさうな顔をして出て来る。
 どうしたのだ、娘。なぜ額に八の字を作つてゐる。近頃は、むづかしい顔ばかり見せるなう。
ゴナリル「どうも、無作法千萬なお附きの家来たちが、しよつちゅうのゝしり合つて、私の宅はまるではたご屋同然でございます。それも、きっと父上に取りしまつて頂かうと存じますのに、どうやら父上がしり押しをなすっていらつしやるやうに思はれてなりませぬ。私がとりしまりをすることになりまして、自然父上のごきげんを損ねるやうなことになるかと存じます。
リヤ王「それで、お前さんはわしの娘か。
ゴナリル「もし、そんな皮肉はごめんかうむります。父上は御高齢でいらつしやるから、御賢明でなくてはなりませぬ。父上、さつきも申しました通り、毎朝毎晩、お附きの百人の大騒ぎ、これには私もほとほと閉口致します。今日限り五十人にへらすことに、御同意を願ひます。
リヤ王「おのれ、よくも申したな。予の馬に鞍を置け。家来ども、集まれ。道知らずの恩知らずめ。もう厄介にならぬわい。わしには、まだもう一人の娘がある。あゝ、あゝ、後悔先に立たず、飼い犬に手をかまれた方がまだましぢや。
ゴナリル「どうなりともお好きなやうになさいませ。
       (三)
     リガンの家の門前で、召使に、
リヤ王「なに、御病気でお目にかゝれぬと。病気なら、父が病床へお見舞い申すと言へ。
     リガン出て来る。
 おゝ、来た。さうあるべきぢや。娘よ、姉めはひどい女ぢやぞ。不孝者の爪で、わしの心をかきむしりをつた。
リガン「父上、あなたには、姉上の眞心がよくおわかりにならないのだと存じます。
リヤ王「なんと。
リガン「私には、姉上が少しでもお勤をお怠りにならうとは思はれませぬ。あなたのお附きの者の亂暴に對して、或はお小言が出たかもしれませぬが。
リヤ王「わしの家来を五十人にへらしをつた。
リガン「五十人で結構ぢやございませぬか。おとなしく、姉上の所へお歸りあそばせ。
リヤ王「いや歸らぬ。決して歸らぬ。今日から、そなたの所で世話にならう。
リガン「私の所では、五十人の半分の二十五人にして頂きたうございます。それに、姉上の所へいらつしやつてからやつと二週間、私の方には、まだお迎え申す準備がしてございませぬ。
リヤ王「これや、不孝者のうは手ぢや。おゝ、神々もご照覧あれ、年も積もり、悲しみも積つて、見るかげもなくなった此の老いの果を、おのれ、不孝者め、今に世界中がひつくり返らないでゐるものか。
     外は次第に暴風、雷雨。
 出て行かう。あらしだ。あらしよ、吹け。雨よ、瀧つ瀬と降れ。雷よ、天地をつんざけ。
       (四)
     リヤ王が姉たちにぎゃく待されてゐることを探知したコーデリヤは、フランス王に従い、老父王のために軍勢を率ゐて英国に渡つた。ひどいあらしの翌朝、発狂した老人が荒野にさまよつてゐるのをフランス兵が発見して陣所に伴なひ、侍醫が手を盡して介抱する。それがリヤ王であった。
侍醫「いかが致しませうか。もう大分長くお休みになってをります。
コーデリヤ「萬事おためによいやうに取りはからつておくれ。
     王に近寄って、寝顔を眺め、
 おゝ、おとう様。私の力、侍醫の力、ありとあらゆる薬物の力で、姉上たちからお受けになったお心の痛みが、すつかり取れますやうに。たとへ、あなたがおとう様でないにもせよ、此の白い髪やおひげを見ては、御気の毒だと思はねばならないはずだのに、まあ、此のお顔を荒狂ふあのあらしにおさらしになつたとは。あのはためく雷に、すさまじい雨に。
     リヤ王、目を開く。
リヤ王「墓場から、わしを連出すとはあんまりぢや。はて、あなたは、天人ぢやな。
コーデリヤ「私を御存じございませぬか。
リヤ王「かうつと、わしは、いままでどこにゐたのかな。こゝはどこぢや。や、日がさす。手をつねると痛い。
コーデリヤ「私を、ようく御覧下さいませ。
リヤ王「どうか、なぶつてくださるな。わしは、ばかな、たはけた老人でござる。はて、お前さんは、どうやら見覺えのある方のやうだが、はつきりせぬ。笑つて下さるな、どうもわしの末娘コーデリヤのやうに思へてならぬ。
コーデリヤ「其のコーデリヤでございます。コーデリヤでございます。
リヤ王「涙を流して泣いて下さるのか。おゝ涙ぢや。お前さんは、わしをうらんでゐるはずだが。
コーデリヤ「なんでうらむわけがございませう。なんでうらむわけがございませう。
リヤ王「わしはフランスへ来てゐるのか。
侍醫「いや、御本國にいらせられます。
リヤ王「えい、だますな。
コーデリヤ「まだお心の亂れがお直りになってゐない。
     と歎息する。
侍醫「其の點はお心強く思し召しあそばしませ。激しい御亂心は、もうをさまりました。御后様には、奥へいらつしやつて、しばらくお會ひならぬ方がよろしうございます。こゝ二三日で、きつと御本復になりますから。


 


 今朝も朝から蒸し暑く感じます。手元の温度計は気温29℃、湿度74%を示しています。
 のろのろ台風12号が福岡を直撃しそうです。福岡の甥の家族が心配です。
 ウェブニュースより
 台風12号、長崎市付近に上陸 ―― 九州の西の海上を北上していた台風12号は5日午前1時過ぎ、長崎市付近に上陸した。
 気象庁は、九州北部などで、高波や土砂災害、河川の増水などへの警戒が必要としている。
 台風12号は5日午前0時現在、中心気圧は996ヘクト・パスカル、中心付近の最大風速は20メートル、最大瞬間風速は30メートルで、5日午前9時に佐賀県唐津市付近に達する見込み。

 4日は九州南部で大雨が降り、鹿児島県志布志市で1時間に66.5ミリ、宮崎県西米良村で63ミリの雨量を観測。6日午前0時までの24時間に予想される雨量は、近畿で180ミリ、九州北部、四国、東海で150ミリなど。  (2016年09月05日 01時41分 Copyright © The Yomiuri Shimbun)

 シドニー在住の姪Mihoちゃんより返信メールが届きました。曰く、
2016年9月5日21時23分着信 Re: 伯母さんからのメール
 浅草サンバカーニバルはどうでしたか?
 私が小さい時に暑い夏におばさんが連れて行ってくれたのをとても思い出します。
 綺麗なお姉さんたちがきらびやかな格好をして踊っているのがとても印象的でした。
 こちらは、少しずつですが暖かくなってきました。
 オーストラリアは、一応、春という暦はあるのですが、とても時期が短くてすぐ夏になってしまいます。日本の四季がとても綺麗だということをこちらに来ると改めて感じます。
 9月ははるなの誕生日で、こちらの親戚と一緒にバーべーキューパーティーをやります。
 色々と料理の用意が大変なのですが、少しずつ準備をしています。
 なかなか体が治るのは時間がかかりますね。マットもまだくしゃみをするだけで痛みを感じています。
 おばさんも早く完治してくれてるといいですね。リハビリを頑張ってください。
 おじさんも無理せず毎日をお過ごしください。 Miho


 


また、藤沢市在住のMY氏からも、返信メールが届きました。曰く、
2016年9月4日22時35分着信 RE: 日本におけるシェークスピア
 日高 様
 N君と違いシェイクスピアに始まり現在の新劇に至る日本の演劇の歴史など全く無知な私にとって大変わかりやすい解説を読ませていただき有難うございます。
 シェイクスピアの作品をあの時代にこれほどまで生涯をかけて翻訳し研究した坪内逍遥という人は凄い人だなと正直驚きます。また川上音二郎一座が「ハムレット」を欧米にて上演したとのことにも驚きます。
 戦後間もない時期に門中の講堂で前進座の「ベニスの商人」を観たときのことは今でも覚えています。
 西洋の劇を日本語にして日本人の役者が演じたことに先ず驚きました。何しろそれまでは生の芝居など一度も観たことがなかったのですから。今風に言えばカルチャーショックを受けたわけです。
 それにしても何故、突然お役人はこのような芝居を中学生に見せたのか真意がわかりません。GHQの占領政策の一環だったのかもしれないなと思ったりもしますが。
 何の考えもなく纏まりもない駄文となり失礼しました。
 今日は又一段と蒸し暑い一日でした。お身体にはくれぐれもお気を付けください。 Y


 


 昨日は、藤沢市在住のMY氏に、メールしてみました。曰く、
2016年8月24日14時38分発信 題:ご無沙汰しています。
 お変わりありませんか。
 私は相変わらず、おさんどんで明け暮れています。女房の方は少しずつですが、よくなっているようなのですが、当分はいまの生活が続くものと思われます。
 でも、おさんどんも少しは慣れてきたので、これからはブログの方も毎日でなくても、書けるようになるかもしれません。まあ、よろしくお願いします。
  K君もS君もいなくなり、こうしてメールの交換ができるのも、N君と貴君ぐらいになってしまいました。
 パソコンのメールも修復できたことだし、これからはせいぜい頑張ってときどきメールするつもりです。
 まずは、取り敢えず、パソコンメール修復のテストを兼ねて、ご機嫌伺まで。 日高 節夫
 


MY氏からの返信が届いていました。曰く、
8月24日23時24分受信 RE: ご無沙汰しています
 メール有難うございます。
 奥様のケアと併せて家事全般にわたって奮闘中とのこと、私などは想像するだけでも中々真似のできないことと感服しています。
 メールを頂いた後で久しぶりに貴ブログを拝見しました。野崎君にもこの半年くらいご無沙汰していますがブログに紹介されている彼のメールによればまずまず元気そうでなによりです。貴君はこの2~3年病気との戦いで大変だったと推察します。
 私はお蔭さまで身体の方は特別悪いところもなく(自分でそう思っているだけ)過ごしています。ここ数年休んでいたウオーキングを今春から再開しました。理由は肥満傾向が増してきたことです。食べ過ぎないように注意していますが体重はなかなか減りません。早朝5時半頃から約1時間散歩しています。隅田川があるわけでなし実に殺風景な我が家の近くを歩いています。足の方は特に痛みもないので助かっています。
 最近はご飯や麺類など炭水化物の摂り過ぎに注意しています。中途半端なことを書いてしまいました。
 今日はもう遅くなりましたので取り敢えずメールのお礼で失礼します。後日改めて近況報告をします。 MY

 西伊豆旅行に行っていて、返信できなかったという塾友のMitsuhiro氏からのメールが届いていました。曰く、
2016年8月25日2時24分 Re:テスト送信
 日高先生
 こんばんわ。先日はありがとうございました。MAILは間違いなく、受け取れております。Hitomeもたいしたものですね。
 では、また伺わせていただきます。 Mitsuhiro
 


 昨日は、買い物にLifeまで出掛けました。帰りに言問橋東詰めの交叉点で信号を待っていると、「先生!」と呼ばれて、振り向くとそこに塾生のChikaちゃんの顔がありました。昨年の暮れに姉のKanamiちゃんと我が家にお節料理を届けてもらった時に逢って以来の久しぶりの対面でした。取り敢えず、携帯にChikaちゃんの姿を納めました。

 ブログを見て、爺がおさんどんをしている事をおおよそ知っているらしく、「先生、ナスやキュウリなどの野菜召し上がりますか?」と訊ねます。
 「う~?」しばらく答えに詰まっていると、「知り合いの農家からもらった野菜があまっているので、これから先生と一緒に先生の家に伺いますので、食べて下さい。」
 「じゃ、家まで来て、女房とも会って行ってもらうか。」


 


 家に着くと、やはり塾友であるYS女史が婆様の見舞いに訪ねてくれていました。Chikaちゃんの塾の先輩でもあり、富士小学校の同窓でもあることから、2人を紹介すると、しばらく話がはずんでいるようでした。

 YS女史はすぐに帰宅しましたが、Chikaちゃんはそれから30分ほど婆さまも交えて話し込んでしまいました。
 Chikaちゃんが帰宅後、置いて行った袋の中には、キュウリ・ナス・トマト・いんげんと沢山の野菜が詰まっていました。

ウェブニュースより 

東京都心など関東の平野部でも積雪 ―― 急速に発達している低気圧の影響で、東日本や北日本を中心に湿った雪が降っていて、東京都心など関東の平野部でも雪が積もっているところがあります。気象庁は、積雪による交通への影響や路面の凍結などに十分注意するよう呼びかけています。


気象庁によりますと、本州の南岸にある低気圧が急速に発達しながら北東へ進んでいて、東日本や北日本では湿った雪が降っていて、東京23区など関東の平野部でも未明から雨が雪に変わり各地で積もっています。
 18日午前4時の積雪は、長野県松本市や埼玉県秩父市で12センチ、前橋市や埼玉県熊谷市で5センチ、東京の都心と横浜市で4センチとなっています。また、国土交通省が東京・八王子市に設置した積雪計では6センチとなっています。
 このあとも東日本や北日本を中心に雪が降り続き、太平洋側の平野部でも積雪が増える見込みで、18日夕方までに降る雪の量は、いずれも山沿いの多いところで、▽東北で60センチ、▽関東甲信で50センチ、▽北陸と東海で30センチ、▽北海道で25センチ、▽中国地方で20センチで、▽東京23区でも10センチと予想されています。

 また、18日は全国的に風が強まり、最大風速は、北日本から西日本の▽陸上で15メートルから20メートル、▽海上で20メートルから25メートル、▽最大瞬間風速は30メートルから35メートルに達する見込みです。
 全国的に波も高くなり、東北で8メートル、北海道と伊豆諸島で6メートルと、大しけが予想されています。
 低気圧は18日夜には三陸沖に達し、その後、日本付近は強い冬型の気圧配置が続くため、18日夜以降も広い範囲で風の強い状態が続くほか、北海道のほか、東北や北陸、西日本の日本海側を中心にさらに雪が強まり、広い範囲で大雪となるおそれがあります。18日の夕方から19日の夕方までに降る雪の量は、いずれも多いところで、▽北海道で120センチ、▽北陸で100センチ、▽東海で70センチ、▽東北で60センチ、▽近畿で50センチ▽中国地方で40センチなどと予想されています。
 気象庁は、積雪による交通への影響や路面の凍結、電線や樹木への着雪、それに強風や高波にも十分注意するよう呼びかけています。   (NHK Web News 118 424分)


 

 昨日、日曜日から大相撲秋場所が始まりました。初日の結びで白鵬が隠岐の海に敗れるという番狂わせがありました。


 ウェブニュースより


白鵬 まさかの黒星スタート ――「大相撲秋場所・初日」(13日、両国国技館)


 史上最多36度目の優勝を狙う白鵬が、小結隠岐の島に寄り切りで敗れ、波乱のスタートとなった。隠岐の島は13度目の対戦で初めて“大横綱”に勝った。/横綱鶴竜は小結栃ノ心を寄り切って、白星発進。大関陣は照ノ富士、稀勢の里、琴奨菊、豪栄道の4人がすべて勝った。/今場所は特に人気が高く、初日から「札止め」を記録。現在、前売り券は5、6日目に少し残っているだけで「満員御礼」が続きそうだ。  (ディリー スポーツ 2015913日)


 


 昨日のブログでPerseus(ペルセウス)のお話は終わりましたので、今日からは天馬ペーガソスに乗って怪獣キマイラを退治したことで知られる英雄Bellerophōn(ベレロポーン)のお話に移ります。


 


Bellerophōn(ベレロポーン)は本名ではなく、もとはHipponoosu(ヒッポノオス)といいました。ヒッポノオスはKorinthos(コリントス)王Glaukos(グラウコス)の子で、Sīsyphos(シーシュポス)の孫にあたるといいます。しかし本当の父親はPoseidō(ポセイドーン)だったとされます。
※ Sīsyphos(シーシュポス):ギリシア神話に登場する人物で徒労を意味する「シーシュポスの岩」で知られます。
 彼の家系は代代馬好きな家系で、特に彼の父親グラウコスは馬使いの名人として名を馳せていました。グラウコスは馬を強く育てようとするあまり、馬に人間の肉を食わせて育てたといいます。おかげで馬はたくましく成長しましたが、同時に信じられないほど気が荒くなってしまったのです。そしてついにはグラウコスを背から振り落とし、彼を引き裂いて食ってしまったということです。
 このような不幸な前例があるにもかかわらず、息子のヒッポノオスもまた馬に対して異常な熱情を抱くようになります。ポセイドーンは彼にPēgasos(ペーガソス)を与えますが、彼はその馬を乗りこなすことができませんでした。そこで、女神Athēnā(アテーナー)が彼に黄金の手綱を与えたので、ようやく彼は天馬ペーガソスを乗りこなせるようになったといいます。
 一説には、女神アテーナーがベレロポーンに黄金の轡を与え、これを使って、ペーガソスを捕まえたといいます。

 ヒッポノオスはあるとき誤って兄弟のBelleros(ベレロス)を殺してしまったことから、ベレロポーン(ベレロスを殺した者)と呼ばれるようになったといいます。ベレロポーンはその罪で彼はコリントスを追放されてしまい、Árgo(アルゴス)のTiryns(ティーリュンス)王Proitos(プロイトス)のもとに身を寄せ、王によって罪の清めを受けるのでした。
※ Tiryns(ティーリュンス)王Proitos(プロイトス):Akrisos(アクリシオス)と双子の兄弟。2人は生まれる前から母の胎内で争い、成長すると王位をめぐって戦ったといいます。
 このとき、プロイトスの妃Stheneboia(ステネボイア、Anteia〈アンテイア〉ともいいます)がベレロポーンを恋してしまったのです。ステネボイアはあれこれ手を使って彼を誘惑するのですが、ベレロポーンはこれを厳しくはねつけ、相手にしなかったことから妃の恨みを買うことになったのです。ステネボイアは可愛さ余って憎さ百倍、ベレロポーンを憎悪するようになり、夫のプロイトスに向かって、ベレロポンが自分を犯しそうになったと濡れ衣を着せ、讒言したのです。プロイトス王はベレロポーンを殺そうかとも思いましたが、当時の習慣として、一度客人として宴会を共にした友人を殺すことは大罪とされていましたので、直接ベレロポーンを殺すことは憚られたのです。そこで彼は、ベレロポーンを小アジアのLycia(リュキア)王のもとに送り、そこで彼を殺してもらおうと考えたのでした。
 プロイトスはベレロポーンに手紙を持たせてリュキア王Iobatēs(イオバテース)のもとに送ったのです(ちなみに、この逸話から「自分の窮地をもたらす状況を自分で作る事」を「ベレロポーンの手紙」と言う事があります)。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[EugenePum 04/29]
[m1WIN2024Saulp 04/22]
[DavidApazy 02/05]
[シン@蒲田 02/05]
[нужен разнорабочий на день москва 01/09]
[JamesZoolo 12/28]
[松村育将 11/10]
[爺の姪 11/10]
[爺の姪 11/10]
[松村育将 11/09]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/