瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
12月26日(月)午後、甥のHから電話が入る。「26日未明、母が風呂場で倒れた。発見されたときは手遅れてあった。今後の予定が決まり次第、再度連絡する」と言うことであった。
五人の兄弟姉妹のうち、幼い時代を一緒に過した期間が一番長かった姉で在ってみれば、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。原爆直後の廣島の街を母と姉と3人でさまよったこと、三次での疎開生活、父の死…… 戦後、門司に帰ってからも、姉が結婚するまでの間、何かと世話を焼いてくれた。僕が結婚してからも、母が東京で倒れた時も、一番最初に駆けつけてくれて寝ずの看病、そして母の死の時も一番力になってくれた。
夕刻、通夜と葬儀の予定が知らされてきた。「年末ではあるし、それに高齢でもあるのだから、無理をして出かけなくてもいいですよ」という甥や姪の声であったが、早速二日市のビジネスホテルに予約をとり、翌27日の前から予定されていたA医院の検診を終えて、午前10時女房と一緒に東京駅に駆けつけた。年末で下り新幹線はどれも満席に近い混みようなので、11時10分発の「のぞみ」グリーン車で駆けつけた。米原付近の降雪で10分遅れで16時23分博多着。鹿児島本線の快速に乗りついで、どうやら通夜の始る1時間前にホテルに着いた。すぐに会場に向かう旨、姪に電話を入れると、姪が甥の息子の運転で迎えに来てくれた。会場は筑紫野市の善光会館という。祭壇はこじんまりとして質素であったが、姉にお似合いのものと思った。
会場では誰と挨拶を交わすと、涙がこみ上げてきて言葉が出ない。通夜は尼さんの正信念仏偈の読経と蓮如上人の「白骨の文章」の読み上げ、そして参列者の焼香で終った。通夜ぶるまい(精進おとし)は親族だけで済まし、甥の息子がホテルまで送ってくれた。
翌28日は午前11時に斎場において、お斎(とき、葬儀前の故人との最後の食事)というので、姪と甥の息子がホテルまで迎えに来てくれた。昨日は慌ててホテルにカメラを忘れて通夜の参加となったが、斎場に着くと早速祭壇をカメラに収める。正午頃、下関の兄が内儀と息子を連れて3人で来訪。
13時より葬儀。若いサラリーマン風の坊さんがお経(多分〔阿弥陀経〕か〔大無量寿経〕?)と正信念仏偈の最初の部分、そして「白骨の文章」読み上げ、何となく在り合わせの商業仏教に感じた。そんなことより、同じ町内に住むというAさんという方の弔辞が心を打った。
火葬場へは親族のみの15・6人で行く。精進おとしの食事の後、大宰府三条台のに設えられた祭壇にお参りして、下関の兄一家とホテルに帰る。兄と暫しの間姉との思い出。
翌29日は親父の66回目の命日。姪のCがポイントカードで指定券がとると言うことで、朝9時ホテルに駆けつけてくれた。二日市から博多駅の「のぞみ」のホームまで見送ってくれた。何とポイントカードの指定券はグリーン車であった。
旅行中天気に恵まれて何よりであった。
帰宅後、今朝ほど姪のCから電話があり、初七日は元旦に当たるので、30日(本日)に法要を行うとの報告を受けた。
いやはや、5人兄弟姉妹の内、生き残っていた3人のうち一番元気であっただけに、あっけない死であった。せめて、長患いせず、元気のままポックリと逝ってしまったのは姉の功徳であったと思う。 南無!
26日に亡くなった姉は、来年4月1日に東京で行われる初孫恵理ちゃんの結婚式を本当に楽しみにして、電話の都度、「恵理ちゃんの結婚式にはみんなと会えるわね。それまでは元気にしててね」と言っていた。
JICAのニュースとお知らせから、恵理ちゃんの活躍の記事と東京新聞の12月18日「日曜版」の記事を掲げ姉への追悼としたい。
南スーダンの人々と一緒に国づくりを考えた -中村恵理JICAアフリカ部職員- 2011年10月28日
住民投票により、国民自らの手でスーダンからの独立を選び、7月にそれを実現させた南スーダン。国全体で整備された舗装道路は70キロメートルしかない。また、15歳以上の識字率は27パーセント(女性は16パーセント)、妊産婦死亡率は10万件中2,054人と世界最低の水準にとどまり、開発課題は山積みだ。そんな南スーダンで2009年6月から2年余り、国づくりを支えた。
・戦後復興の経験を共有したい
中村職員は、幼いころから、祖父母の戦争体験を聞いて育った。二世代で人々の暮らしを大きく変えた日本の経験を、紛争後の国づくりに取り組む開発途上国の人々と共有できるのではと漠然と考えるようになった。
大学院で国際公共政策を専攻し、紛争研究のゼミに所属。2006年に国際協力銀行(JBIC)に入り、インドの円借款事業を担当した。2008年10月の統合時にJICAに移り、希望の異動先に「パキスタン」「パレスチナ」「スーダン」と、紛争影響国を挙げた。JICAといえども、治安の不安定な国での勤務を希望する職員は必ずしも多くない。すぐに異動が決まり、常駐先は、北部スーダンよりも復興への道のりが険しい南部スーダンを選んだ。
周囲からは「大変なところへ行くんだね」と言われたが、本人にそんな気負いはなかった。実際、赴任してみると首都ジュバは治安もよく、街には穏やかな空気が流れていた。ルールを守って行動したからということもあるが、危険な目に遭ったことは一度もない。生活と仕事の拠点はプレハブ。暑さは厳しかったものの、エアコンがあったため、さほど苦にはならなかった。休日にはヨガや読書で息抜きをした。
・「JICAスタイル」への理解を求めて
しかし、2005年に南北スーダンの間で包括和平合意が締結され、南部スーダン自治政府が成立してからまだ日が浅い。そのため、仕事面では苦労が伴った。中村職員の仕事は、農業・農村開発、理数科教育強化などのプロジェクトのマネジメントだが、担当省庁の行政官には、予算を組み、計画を立て、それに基づいて業務を進めるといった基本的な行政運営の経験がなかった。また、「お金さえあれば、自分たちは何でもできる」と考える人も少なくなかったため、当初は、人材育成を重視するJICAの支援は理解されにくかった。
しかし、1年、2年と政府との対話に努め、能力強化を継続した結果、省庁のさまざまな会合に呼ばれて意見を求められるようになった。ある農業省幹部は「JICAは、政策にかかわる中央省庁から現場の畑にまで日本人を送り込み、技術やノウハウを提供してくれる」と評価する。
・コミュニケーションを大切に
現地の人々から学んだこともある。南スーダンでは、部族主義や汚職によって政府内部での競争が成り立たず、透明性も確保されていない。そのため、人々の行動や発言には、文化的、歴史的な背景だけでなく、このような社会的背景があることを理解し、彼らの本当の意図をくみ取る必要があるということだ。しかし、それは、たまに会議で顔を合わせるだけでは見えてこない。彼らをよりよく理解するため、なるべく省庁や現場に足を運んだ。
2011年10月に南スーダンから帰国し、JICA本部で同国を担当する中村職員は「長期にわたる紛争が影響しているからか、南スーダンの人々は、感情を抑えがち。さらに、新しい国の誕生に伴い世界中から援助機関やNGOがジュバに集まってきており、ともすれば現地の人々の声は、かき消されてしまっている。人々との対話を大切にし、ニーズを的確にくみ取って有効な解決策を提案していければ」と話している。 JICA 「トピックス:ひと模様」より
2011年(平成23年)12月18日 東京新聞(日曜版)よりスキャン


五人の兄弟姉妹のうち、幼い時代を一緒に過した期間が一番長かった姉で在ってみれば、思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。原爆直後の廣島の街を母と姉と3人でさまよったこと、三次での疎開生活、父の死…… 戦後、門司に帰ってからも、姉が結婚するまでの間、何かと世話を焼いてくれた。僕が結婚してからも、母が東京で倒れた時も、一番最初に駆けつけてくれて寝ずの看病、そして母の死の時も一番力になってくれた。
夕刻、通夜と葬儀の予定が知らされてきた。「年末ではあるし、それに高齢でもあるのだから、無理をして出かけなくてもいいですよ」という甥や姪の声であったが、早速二日市のビジネスホテルに予約をとり、翌27日の前から予定されていたA医院の検診を終えて、午前10時女房と一緒に東京駅に駆けつけた。年末で下り新幹線はどれも満席に近い混みようなので、11時10分発の「のぞみ」グリーン車で駆けつけた。米原付近の降雪で10分遅れで16時23分博多着。鹿児島本線の快速に乗りついで、どうやら通夜の始る1時間前にホテルに着いた。すぐに会場に向かう旨、姪に電話を入れると、姪が甥の息子の運転で迎えに来てくれた。会場は筑紫野市の善光会館という。祭壇はこじんまりとして質素であったが、姉にお似合いのものと思った。
会場では誰と挨拶を交わすと、涙がこみ上げてきて言葉が出ない。通夜は尼さんの正信念仏偈の読経と蓮如上人の「白骨の文章」の読み上げ、そして参列者の焼香で終った。通夜ぶるまい(精進おとし)は親族だけで済まし、甥の息子がホテルまで送ってくれた。
13時より葬儀。若いサラリーマン風の坊さんがお経(多分〔阿弥陀経〕か〔大無量寿経〕?)と正信念仏偈の最初の部分、そして「白骨の文章」読み上げ、何となく在り合わせの商業仏教に感じた。そんなことより、同じ町内に住むというAさんという方の弔辞が心を打った。
翌29日は親父の66回目の命日。姪のCがポイントカードで指定券がとると言うことで、朝9時ホテルに駆けつけてくれた。二日市から博多駅の「のぞみ」のホームまで見送ってくれた。何とポイントカードの指定券はグリーン車であった。
旅行中天気に恵まれて何よりであった。
帰宅後、今朝ほど姪のCから電話があり、初七日は元旦に当たるので、30日(本日)に法要を行うとの報告を受けた。
いやはや、5人兄弟姉妹の内、生き残っていた3人のうち一番元気であっただけに、あっけない死であった。せめて、長患いせず、元気のままポックリと逝ってしまったのは姉の功徳であったと思う。 南無!
JICAのニュースとお知らせから、恵理ちゃんの活躍の記事と東京新聞の12月18日「日曜版」の記事を掲げ姉への追悼としたい。
南スーダンの人々と一緒に国づくりを考えた -中村恵理JICAアフリカ部職員- 2011年10月28日
・戦後復興の経験を共有したい
中村職員は、幼いころから、祖父母の戦争体験を聞いて育った。二世代で人々の暮らしを大きく変えた日本の経験を、紛争後の国づくりに取り組む開発途上国の人々と共有できるのではと漠然と考えるようになった。
大学院で国際公共政策を専攻し、紛争研究のゼミに所属。2006年に国際協力銀行(JBIC)に入り、インドの円借款事業を担当した。2008年10月の統合時にJICAに移り、希望の異動先に「パキスタン」「パレスチナ」「スーダン」と、紛争影響国を挙げた。JICAといえども、治安の不安定な国での勤務を希望する職員は必ずしも多くない。すぐに異動が決まり、常駐先は、北部スーダンよりも復興への道のりが険しい南部スーダンを選んだ。
周囲からは「大変なところへ行くんだね」と言われたが、本人にそんな気負いはなかった。実際、赴任してみると首都ジュバは治安もよく、街には穏やかな空気が流れていた。ルールを守って行動したからということもあるが、危険な目に遭ったことは一度もない。生活と仕事の拠点はプレハブ。暑さは厳しかったものの、エアコンがあったため、さほど苦にはならなかった。休日にはヨガや読書で息抜きをした。
・「JICAスタイル」への理解を求めて
しかし、2005年に南北スーダンの間で包括和平合意が締結され、南部スーダン自治政府が成立してからまだ日が浅い。そのため、仕事面では苦労が伴った。中村職員の仕事は、農業・農村開発、理数科教育強化などのプロジェクトのマネジメントだが、担当省庁の行政官には、予算を組み、計画を立て、それに基づいて業務を進めるといった基本的な行政運営の経験がなかった。また、「お金さえあれば、自分たちは何でもできる」と考える人も少なくなかったため、当初は、人材育成を重視するJICAの支援は理解されにくかった。
しかし、1年、2年と政府との対話に努め、能力強化を継続した結果、省庁のさまざまな会合に呼ばれて意見を求められるようになった。ある農業省幹部は「JICAは、政策にかかわる中央省庁から現場の畑にまで日本人を送り込み、技術やノウハウを提供してくれる」と評価する。
・コミュニケーションを大切に
2011年10月に南スーダンから帰国し、JICA本部で同国を担当する中村職員は「長期にわたる紛争が影響しているからか、南スーダンの人々は、感情を抑えがち。さらに、新しい国の誕生に伴い世界中から援助機関やNGOがジュバに集まってきており、ともすれば現地の人々の声は、かき消されてしまっている。人々との対話を大切にし、ニーズを的確にくみ取って有効な解決策を提案していければ」と話している。 JICA 「トピックス:ひと模様」より
2011年(平成23年)12月18日 東京新聞(日曜版)よりスキャン
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ご愁傷さまでした。
すぐ大晦日ですが、ご親族が亡くなられたことをお伺いして、たいへん悔しく存じます。
本来、書面をもちましてお悔みを申し上げるべきですが、失礼ながらここでご親族のご冥福をお祈り申し上げます。
日高さんにおかれましては、さぞ力を落とされているところだろうと思いますが、くれぐれもお体にお気をつけながら新年をお迎えください。
本来、書面をもちましてお悔みを申し上げるべきですが、失礼ながらここでご親族のご冥福をお祈り申し上げます。
日高さんにおかれましては、さぞ力を落とされているところだろうと思いますが、くれぐれもお体にお気をつけながら新年をお迎えください。
早速のお悔やみ有難う
早速のお悔やみ有難うございます。
いやはや、長患いすることもなく、毎日を元気に過していてのポックリ死がせめてもの姉の仁徳と考えます。私も逝くのなら姉のようにポックリ逝きたいと思いますが、果さて私ごとき俗人にはこの願いかないますかどうか?
いやはや、長患いすることもなく、毎日を元気に過していてのポックリ死がせめてもの姉の仁徳と考えます。私も逝くのなら姉のようにポックリ逝きたいと思いますが、果さて私ごとき俗人にはこの願いかないますかどうか?
無題
このたびは、ご愁傷様です。
突然のことで、先生もさぞかし大変だったと思います。
寒さがきびしいので、先生もご自愛ください。
エリさん、ご結婚が決まられたんですね。
おめでとうございます。
家族が増えるのはいいことですよ。
突然のことで、先生もさぞかし大変だったと思います。
寒さがきびしいので、先生もご自愛ください。
エリさん、ご結婚が決まられたんですね。
おめでとうございます。
家族が増えるのはいいことですよ。
ありかとう
早速の弔いのコメント有難う。
できる限り、悲しみを乗越えて、年を迎えるつもりです。
来年は貴女にとっていい年でありますように
できる限り、悲しみを乗越えて、年を迎えるつもりです。
来年は貴女にとっていい年でありますように
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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